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──どうしよう。
美里ちゃんが選んでくれたコーディネートは、幾分白と黒の直線がカッターで切ったようでなかなかおしゃれだった。値段もそう高くなかったし、彰子も気に入った。ワンピースで、一応試着してみたら一番大きなサイズで問題なかったし、あとは父に買ってもらえばいい。 しかし「彰子の初デートに着る服を選ぶ会会長」の母により、あっさり却下された。
「あんなぴったりした服着たら、彰子、あんたおなかが目立ってしょうがないわよ。食べた後おなかがたぬきみたいにぽこっとでたらしゃれになんないわ。いい? こういう時にはね、ウエストは全部ゴムでないとだめなのよ。いい?」
父に助太刀を頼んだのが間違いだった。
「お父さんは黙ってて。女の子はね、洋服でいくらでもかわいくなれるのよ。彰子は笑顔でずっと勝負きた子なんだから、可愛い赤のワンピースなんて着たら、絶対男たちはいちころよ。ね、そうでしょ」
頷けない。絶対に嘘だと思う。
でも、母が楽しそうに新しいブラウスを広げてみたり、わざわざ彰子のために、ブランドのプレミアムハンカチをプレゼントしてくれたりしたら、もう観念するしかなかった。父の懐が痛まず、母のご機嫌がよくなるとしたら、彰子がどふりふりの真っ赤なワンピースを着て、南雲くんがうなされるというパターンを甘受するしかなかった。
──ま、いっか。あきよくんだって、友だちづきあいをやめるとまではいわないだろうしなあ。
土曜の朝からずっと彰子に笑顔を向ける南雲くんに、彰子は曖昧に頷いた。
──お願いだから、卒倒しないでね。あきよくん。
四時間目が終わってからまずはうちに帰り、一時に駅前で待ち合わせ。
まっすぐバスに乗って「青潟こども公園」に向かい、そこから南雲くんの立てたプラン通りに行動すればいい。彰子はデートというものがどんなものか皆目見当がつかないけれども、回数を重ねている南雲くんに任せておけばいいだろう。その辺は心配していなかった。
むしろ、駅で待ち合わせした時に、どういう顔をするか、それが問題だ。
──大きい着替えのバック持って行って、駅のコインロッカーに入れて着替えるのが一番いいような気がするなあ。何度見ても、この格好って。
白い百合がたくさんプリントされていて、可愛いことには可愛い。
ただ、着る相手を選ぶと思う。なぜ母はこういうデザインの服を選んだのだろう。母がいなければそれなりに別のものを選ぶのだが、今日に限って医師会の会議があるのだという。母も着替えてから、出かけるという。もちろんスーツだ。どふりふりではない。
「彰子、ほら、あんたそんなに不満そうな顔しないで」
「第三者から見て、お母さん、私に似合うと思う?」
真面目に尋ねるが、母の目は曇っているらしい。眼科医のくせ。
「いいわよ。やっぱり彰子は赤とかはっきりした方がいいのよ。もともとほわっとした感じだから、甘い色を入れるとね、なおさらぽっちゃりして見えちゃうのよ」
「別に、それでもいいんだけど」
「だめよ。あんたは少しでもほっそり見えたほうが得なの!」
わざわざバックも、小さめのおそろいポシェットを用意された。
観念。もう逃れられない。
時間はまだある。せめてもの抵抗に、着替え用ボストンバックを用意しようとした時だ。 呼び鈴が鳴った。桃色のスーツ姿で玄関に走る母。そしていきなり叫び声。
「彰子ちゃーん、お友だちよー!」
全身、完全に硬直した。
──なむさん。どうか、あきよくん、冷静でいられますように。
見ている自分でも受け入れられないこのふりふり度。ファッションに詳しくおしゃれな彼が、冷静でいられるとは思えない。
父がいないのが幸いだった。
母はすっかりはしゃいでいる。自分のデートじゃないんだから。どうも母親というのは娘のデート相手には異常な関心を持つらしい。ナッキーや時也と同じ扱いでいいと思うのだが、妙にハイテンションだった。
「あきよくん、わざわざ」
「うん、最初だからやっぱり、と思って」
南雲くんは玄関で、白いシャツに水色のパーカーを羽織り、髪型を丁寧すぎるほどきれいにまとめていた。目がはっきりと前髪から出ている。彰子の家族に会うため、規律きっちりとしたんだろうか。
──「パール・シティー」な彼だもんね。
彰子はそっと南雲くんの顔をうかがった。
「あの、あきよくん。実はね」
「大丈夫。俺は平気だよ」
聞く前に反応したってことは、かなり南雲くんも心中衝撃を受けたに違いない。彰子は見た。上から降りてきてまず、最初に南雲くんの顔によぎったのは、
──なにこの格好。
そのものだ。いや、責める気はない。彰子だってそう思う。
母がなにやらはしゃぎながら奥に引っ込むのを待ち、彰子はささやくことにした。
「私もかなりこの格好に抵抗があるんだけど、母の趣味なの。だから、公園で一回、ふつうの服に着替えるつもりなんだけど、それまでがまんしてね」
「いいじゃん、これで」
──あきよくん正気?
上から下までさらっと眺め、すぱっと答えた。付け加えた。
「俺、すげえいいと思うよ。あそこのブランドだろ? 俺もたまにメンズもの覗きに行くけど、高過ぎて手を出さなかったんだけどさ。彰子さんがそういうのを着るんだったら、今度、小遣いためて」
「それだけはやめようよ!」
何か世界がずれている。南雲くんが彰子に気を遣って、似合うといってくれているならわかる。しかし今言ったのは「おそろいでもいいよ」ってことじゃないだろうか。それだけは彰子自身がご遠慮したい。メンズブランドは、ふりふりものを男の人の服にくっつけた、それこそバンドの舞台用としか思えない内容なのだ。南雲くんが正真正銘の「パール・シティー」だったら話は別だが、一緒に歩くなんてしようもんなら、青潟中の噂になるに決まっている。
「とにかく、行こうか」
母が慌てて出てきて、この前こしらえたクッキーの残りを持たせてくれた。ナッキーにこしらえたものが残っていたのだ。余りものとは言えない。
「わあ、ありがとうございます!」
「彰子がこしらえたのよ」
目の輝きが尋常じゃない。続く言葉に彰子は罪悪感でいっぱいになった。
「俺のために作ってくれたんだよね!」
目で「そういうことにしときなさい」と合図する母には逆らえない。
──ふつうのうちって、こういう時はいろいろと文句を言うらしいってきいたなあ。うちが変なのかな。そんなことないよね。ま、友だちだし、ナッキーや時也とおんなじことしてるだけだよね。
こういうことするから、周囲からは「彰子ちゃんのお父さんとお母さん、先生やってるのにどうしてそんなに面白いの」と聞かれるのだ。
いざ出陣。
少しぶかぶかの花柄付スニーカーをはいて後、彰子は何度か戸口にぶつかりながら外に出た。もちろん扉を南雲くんが押さえてくれていた。その辺はさすが慣れている。お姫さま気分になるのも無理はない。こちらとしては申しわけないのだけれども。通りかかる人々の視線が妙に痛いのは、やはりいでたちのためだろう。これからバスに乗るのだ。公共の迷惑を掛けまくっている。やはり駅前で着換えたほうがいいような気がする。
南雲くんはずっと笑顔のままで話し掛けてきた。嬉しくて嬉しくてならないという風にだった。その点はありがたいと思う。彰子ももちろんしゃべりつづけたのだが、いかんせん重ねたスカートのペチコートが重くてならない。足が絡みそうだ。
「ごめん、やはりなれない格好するのはよくないね」
ひとしきり自分で大笑いしてから、彰子は頷いた。
「彰子さんのお母さん、お医者さんなんだっけ。俺んとこは両親ともども会計士」
何度か聞いたことがあるけれども、初めて聞かされたような顔して促した。気づかないのか南雲くんはにこやかに続けた。
「だからうちの両親、いつも事務所にいずっぱりなんだ。うちから離れているとこだから、帰るのはすげえ遅くって。多少俺も遅く帰っても文句言われないんだ。うちにいるのはばあちゃんだけだし」
──確か、妹さんもいらしたんだよね。
口に出かかったけれども、聞かないことに決めた。彰子の直感だった。何かまずいような気がした。
「だから、結構俺、青潟の遊び場って詳しいと思うんだ。みんなから遊び人だって思われても、まあしゃあねえよな。でもさ、公園とかそういうとこも嫌いじゃないから、彰子さん、気を遣わなくていいからさあ」
言い訳しているらしい。なんだか彰子も、自分の服のことばかり考えているのが申しわけなくなってきた。きっと、今時のライブハウスとかおしゃれな喫茶店では彰子が萎縮してしまうであろうことを予想していたのだろう。思いやりのある子だ。自分がクラスでさんざん「軽い奴」「いいかげんな奴」と思い込まれているのを気にしているのかもしれない。羽飛くんがさんざん、罵っていたんだから。
「ううん、気にしないよ。楽しみだよ!」
バス停で百五十円払い乗り込んだ。時間帯が高校生の帰宅時刻にぶつかったらしく、やたらと混んでいた。満員バスの中にただでさえ場所を作るのは大変なのに、さらに輪をかけて分厚い服着ているってわけだ。嫌な顔をされないわけがない。
耳元に「なんだよこのデブ」「似合わなねー」などとの悪口を耳にしながら、彰子は小さくなっていた。南雲くんはさすが細い、するすると奥に追い込まれている。当然、手なんてつないでいないのでバスの中ではばらばらだった。
約十五分揺られた後、だいぶ少なくなった車内から降りる。目の前にはさびた鉄柵に寄り添うつつじが咲き乱れていた。白、濃い桃色、匂いはないけれども花びらがぴんと張り切っていた。
「やっと生き返ったって感じだね」
無言ながらも笑顔を絶やさない南雲くん。早く行きたいらしく、たったと競歩の感覚で歩き始めた。付いていくのがやっとだった。
「とにかく、中に入っちゃおう。それから説明するよ」
急いでいるらしい。手首を袖の上からぎゅっと捕まれた。驚いた。そうしないと南雲くんのスピードについていけない。素直に任せてひっぱられていった。
入場料百円、財布を取り出す間もなく南雲くんが全部用意していたらしい。受け付けに二枚さっと渡し、そのまま彰子を引きずっていく。もちろん手首は離さない。受け付けのお姉さんが彰子を見てくすっと笑ったような気がした。そりゃあそうだろう。
「急がせちゃってごめん。まず、腹ごしらえしようよ。昼ご飯、食べてないよね」
「うん」
実はかなりおなかがすいていた。一口でもいいから何か口に入れたかったけれども、母に「絶対だめ!」と禁止されていたのでずっと空腹のままだったのだ。
「よかった。じゃあまっすぐ休憩室に行こう」
きっと、ハンバーガーとかおにぎりとかが売っているのだろう。それでいい。ジュースとおにぎりだけでも十分だ。
「あのね、あきよくんいいかな」
「ん?」
「手首、離してくれると、うれしいな」
彰子としては「あまり握り締められると痛い」と思っていたからにすぎない。しかし南雲くんにとっては思わぬことだったらしく。いきなりぱたっと離し、じっと彰子を見つめた。
「ご、ごめん。びっくりしてた?」
「ううん、ちょっと痛かっただけだから。でももう大丈夫だよ。さ、連れてってください!」
南雲くんの目が少し安心したように緩んだ。
「うん、じゃあ行こう。今度はゆっくり歩くから」
小動物公園と、遊園地が別々に分かれている。南雲くんのプランによると最初は動物公園でりすとかオウムとかやぎとかポニーを眺めたのち、コーヒーカップに乗って、最後には観覧車を予定しているらしい。その辺はお任せだ。まずは食べたいそれだけだ。
「じゃあ、入りましょっか」
軽く、乗りよく、南雲くんは「公園休憩場」と書かれたベンチを指差した。食堂席奥席には年配の女性陣がずらっと陣取っていた。
天気もいいし、外でいい。
「いいよ、外の方が気持ちいいし」
「食べるのは外でいいんだけど、ちょっとだけ付き合ってほしいんだ」
強引だった。袖ではない。手をいきなり握り締めてきた。全身にぴくっとするものが走る。有無を言わさない握り方。しめってきた。一瞬理科準備室のことを思い出してしまいそうだった。
「ほんのちょっとだけ。ごめん」
引き戸を開けて、一身に視線を浴びる。
グループは年齢的にだいたい六十才後半から七十才くらいのご婦人たちだった。めがねをかけている人もいる。オレンジ色の花模様を纏っている人もいる。髪の毛が紫色の人もいる。六人くらい。驚くなかれ、みな笑顔だった。
「しゅうせいくん、来たの」
すっかり忘れていた。南雲くんの本名は「あきよ」ではない。「しゅうせい」だった。
「お久しぶりっす。なんかあったらまた言ってください。えっと、それから」
肩で呼吸し、ちらっと彰子の方を真面目に見つめ、もう一度ご婦人たちに顔を向けた。
「こちらが、俺の、一番好きな人なんで、連れてきました。奈良岡、彰子さん。これからいろんなとこで会うと思うんで、よろしく」
絶句。言葉が見つからない。彰子がしたのは意識のもうろうとしたまま、
「初めまして、奈良岡彰子です。どうかよろしく」
笑顔を仮面にして頭を下げたことだけだった。
あとは覚えていない。周りのご婦人たちがにこやかに、
「あらあ、しゅうせいくんの彼女なの?」
「元気そうなお嬢さんね」
「可愛い服ねえ」
彰子を評する声に硬直していた。
「と、いうことで、いただいてっていいですか」
南雲くんがそばに置いてあったらしい、豪華なお弁当の箱を二折抱えて、片手で彰子を守るようなしぐさをした。
「じゃあ、俺たちは外で食ってます。ありがとうございました!」
ふわふわと笑い声に見送られ、彰子は南雲くんに連れられて戸口のベンチに並んで座った.座らされた。大きな木目のテーブルに紙のお弁当箱が並んだ。見た目漆塗り調の入れ物で、結婚式の引き出物に良く似ていた。
「豪華なお弁当、ね」
これしか言えなかった。
「うん、うちのばあちゃんが今日、婦人会の人たちと出かけるって言ってたんだ。で、ここの弁当がすごく美味しいから、もし俺が来るなら用意してくれるって言っててさあ。で条件が」
「条件?」
彰子は問い返した。
「俺の好きな人を紹介してほしいって。自慢したいんだって」
「好きな人って?」
桜の花に形をこしらえたご飯、鮭、たけのこ、卵焼き、みかん、黒豆。いかにもおばあちゃま好み。でも美味しい。彰子はほおばりながらも言葉を失った。
「うん、彰子さんのこと」
「……美味しいね、ごちそうさま!」
だって、それしか答えようがなかった。
話すことはたくさんてんこもりだった。なにも「デート」だからといってかしこまる必要はないし、南雲くんも絶え間なくクラスのこととか、規律委員のこととか、得意なイラストのこととか、ぺらぺらとじゃべりつづけていた。彰子はとにかく笑顔で相槌を打つように心がけていただけだった。実のある話、全然していないという気持ちがないわけじゃなかったけれども、南雲くんがとにかく楽しそうだったので、いいことにした。
「でさあ、彰子さんのところ、保健委員会の委員長どうなるのかな。ここだけの話なんだけど、俺が次期規律委員長になってしまうんだよなあ。みんな、あっけに取られるだろうなあ」 「ほんと、イメージに合わないよね。この前もみんなで言ってたよ。あきよくん、規律委員長になんてなっちゃったらおしゃれできないねって」
制服関係をぴしっと決めないと、やはりいろいろまずいだろう。
「うん、でも、そんなに規則規則ってうるさく言うつもりないし、むしろ今度発行する予定の『規律委員会作成・青大附中ファッションブック』を作ることに専念するんだ。そうだ、彰子さん。今度、俺と一緒に洋服関係の店回るの、つきあってほしいなあ。野郎関係だったら平気だけど、なかなか婦人服っぽいとこって、あやしいと思われそうで嫌なんだ。ほら、今着ているような服のとことか。絶対変態だと思われそうでさ」
頷く。そのくらいならばかまわない。ただモデルがいまいちかもしれないけれども。
「よっしゃあ! じゃあ、今度はそこに行こう!」
一通り平らげた後、南雲くんは手元に無料のお茶が切れているのに気づいたらしい。軽く紙コップを振ってみて、
「彰子さん、お茶、持ってきてあげるよ。ちょっと待ってな」
答える間もなく両手に紙コップを持って、建物の中に入って行った。実にまめだ。まさに歩くデートブック。これだったら女子たちも満足するだろう。ぎんなんとおしんこをきれいに食べ終え、彰子がお弁当のふたを閉じた時だった。
「ちょっと、いいかしら?」
背中でふたりほどの気配がした。香水の匂いがちょっとばかりきつい。振り向くと、さっきの婦人会グループの女性が二人、ほほえんでいた。このふたりは大体六十代くらい。あの中では若い方だろう。
「あ、さっきは失礼しました。それと、ごちそうさまでした!」
ご馳走してくれたのは実質、このグループなのだ。きちんとお礼を言った。
「いいお弁当だったでしょ。ここの店ねえ、いつも私たちの集まりがある時にね、取り寄せるんだけど。今日はしゅうせいくんが気合こもった初デートだってことでね、特別にお祝いってことで、ねえ」
顔を見合わせて頷きあい、また微笑む。
彰子は慣れてないわけじゃなかった。よく母の付き合いでお医者さんたちの交流旅行に連れて行かれることがあるのだけれども、そこの奥様たちがだいたいそんな感じだった。品があって、丁寧だ。
「よかったら、ちょっとだけ私たちのところにきてくださらない?」
「南雲さんの奥さんもぜひにっておっしゃってるの」
つまり、南雲くんが大好きなおばあちゃんのことだろう。断るわけにはいかない。こう言う時は「早く来なさい」という意味として受け取ることが正しい。
──あ、でもあきよくんお茶くんでもらっているとこだし。
「しゅうせいくーん、悪いんだけど、あなたの恋人、ちょっと借りていくわね」
すでにもうひとりのブルーのワンピースを纏った婦人が南雲くんに大きな声をかけていた。室内では大笑い。南雲くんはきょとんとした顔で、口をぽかんと開けていた。
「さ、OKがでたことだし、いらっしゃい」
──お弁当のお礼は言うつもりだったけど、どうしよう。
ほとんど気分は「拉致」だった。彰子はスカートを持ち上げるようにして建物の中に入って行った。目があった南雲くんとは、合図したかったけれどうまくいったかどうか自信がなかった。
席には五人ほど連なっていて、それぞれが濃い化粧、めがね、口紅、とにかく匂いが食べ物を覆っている。みな丁寧に箸入れの袋をきれいに折って、割り箸を乗せていた。おそらく南雲くんのおばあちゃんにあたる人だろう。手を振ってにこやかに彰子を迎えてくれた。なんか、ほっとしたのは相性が合いそうだったからだろう。一番歳かさの方で、推定年齢おそらく八十歳近く。
「さあ、連れてきたわよ。それにしても今日はおめかししてきわわねえ」
答えようがないのでこっくり頷いた。そりゃあ目立つだろう。
「すみません。私も着慣れてないんです。母がこういうの好きなんです。でも私はあまりこういうのが苦手かも」
南雲くんのおばあちゃんは目を細めて、手を震わせながら彰子の腕を撫でた。ちょうど南雲くんが握り締めたあたりだろうか。
「本当にあの子はね、あなたのことが大好きみたいですよ。とってもやさしい子がいるって、毎日私に話してたんですよ。さっきお会いした時にやっぱり、ねえって思いましたよ」
気品のあるおばあちゃまだと感じた。少し息切れしているようすだった。体調があまりよくないのかもしれない。循環器系の病気らしいとは前から聞いていたけれども、手元に市販されている心臓関係の薬が握られているところみると慢性のものなのだろう。耳も遠いらしい。なんどか聞きかえされた。大きな声で話さないとまずいらしい。
「ほらほら、この機会なんだから南雲さん、お嬢さんにどんどん質問なさったら?」
「そうよ、どこにお住まいなの?」
「お父さんは学校の先生なんでしょ? あら、お母さんはめいしゃさんなの? で、どこのめいしゃさん?」
根掘り葉掘りとはこのことだ。彰子は素直に答えつづけた。後ろの方で右往左往しているのは南雲くんで、なんとかして連れ戻そうと思案しているのが手に取るようにわかる。お茶を置いてから、なんども戸口を行ったり来たりしている。
「あらそうなの、あそこのめいしゃさんなの?」
どうやら彰子の母に当たったことのある人がいたらしく、話はいきなり「お互いの病気自慢」にかわった。これは彰子も実際、年配の人と話す時経験している。どこが痛い、ここが痛い、あそこの病院はいい、あの病院はやぶだ、どこどこの医者は胃カメラが下手だ、あそこの医者の息子は遊び人、などなどどうしてそこまで知っているのか不思議なくらい盛り上がる。知らない話ではないし、判断もしかねるので彰子は黙って聞いていた。さすがに大病院とはいえ水口病院の話は出なかったので、
──すい君のお父さんの悪口出ると申しわけないなあ。
少しほっとしていた。かなり、病院としてはひどい噂のあるところだからだ。
話をあわせていくうちに、南雲くんのおばあちゃんは白内障と緑内障を併発し、心臓の手術を経験し、さらには若い頃に蓄膿を経験しているとのことだった。もちろん現在は補聴器を使用していらっしゃる。
「だから、あの子には毎週薬をもらいに行ってもらってるんですよ。ああ見えても秋世は真面目な子だから」
ご婦人たち、何度も頷いている。二年D組の王子様で、さんざん女子と浮名を流してきたことはあまり知られていないらしい。
「そうなのよねえ。しゅうせいくん、本当にいい男、じゃなくって」
爆笑するのでこちらも困る。
「いい男の子よねえ。ほら、この前も私たちの旅行についていろいろ手伝ってくれたことあったでしょ。私たちが行くところの資料、全部友だちの男の子と一緒に集めてくれてねえ」 ──なるほど。デートどころじゃないよ。あきよくん、おばあちゃまたちのお手伝いもしているからね。そうかあ、すごいすごい。
相槌を打ちながら彰子は耳を傾けた。聞かれること以外には何も言う必要がない。話を聞いていればとにかくみな笑顔でいてくれる。
「そうそう、奈良岡先生ってあのぽちゃっとして、いつもげらげら笑いながら検査してくれるあの女先生かしら?」
なんてリアルなお答え。大きく頷いた。母しかいない。
「絶対、うちの母です」
「あの先生、帰り道のお洋服みたことあるけれど、ほんっと派手な格好しているわよねえ」 納得しているようすなので、彰子もゆっくりと答えた。
「その母のお下がりを、私が着ているんです。うちでも、あんな風に一日中げらげら笑ってます。裏表ないんです」
しばらく彰子のワンピースを撫でながら、他のご婦人たちは洋服および病院ウオッチングに花を咲かせていた。話を聞いているうちに、やはり母の病院評価は正しいのだと思えてきた。やはり時也を別の病院に紹介したのは正しかったのだろう。南雲くんのおばあちゃんも今は例の「あまり評判よくない病院」に通っているようだけど、それはそれでお医者さんと相性が合うということで、あまり気兼ねなくお付き合いしているようだ。それはそれでいいんだろう。
結局最後に、「今度、お母さんにいい病院の情報などあったら教えてほしいと言っておいてね」と頼まれ彰子はやっと席を立つことができた。ご婦人たちはみな楽しげだったし、南雲くんのおばあちゃんも最後まで洋服をなでなでしてくれた。嫌われはしなかったみたいだ。約九十分間、医療関係の話題で盛り上がった後彰子は戸口を出た。
待ちくたびれたようにぼけっとした顔で、ベンチに座り込んでいたのは南雲くんだけだった。家族連れが数人いないこともないが、やはり野郎ひとりで座り込んでいるのは目立つ。特に「パール・シティ」似の美少年ともあろうお方だ。さぞや視線もちらちらしただろう。すでに空の弁当箱は片付けられていた。
「あきよくん」
「ごめん、ほんっと、ごめん」
平手ついて頭をテーブルに擦り付ける南雲くん。
「うちのばあちゃんたちにただ、彰子さんのこと、紹介するだけのつもりだったんだ。ほんと、それだけ。まさか、あんなことするなんて俺も。本当にごめん」
平謝りったらそのことだろうか。風が、せっかく決めた前髪をばさばさにしている。
──きっとおばあちゃん軍団に連れ込まれたと思っているんだなあ。事実そうでないとも言い切れないけどね。
でも、いやじゃなかった。
お年を召した方たちの病院うんちくや、その他いろいろな生の本音は聞くに退屈しなかった。
「ううん、大丈夫だよあきよくん。私も楽しかったし。ただ、あきよくんをずっとひとりぼっちにしてしまったのが、ごめんなさいってだけ。せっかく美味しいお弁当おごってもらったのに。私こそ、本当にごめんね」
スカートを持ち上げ、彰子は南雲くんの隣りに立った。意地悪令嬢が美少年をこき使う図と思われそうだけどしかたない。
「続き、お任せします。あきよくん」
おずおずと見上げ、ふたたび元の笑顔に戻っていく南雲くんの表情。ある意味単純だ。男子はナッキーも時也も似たところがある、なんとなく彰子は比べて思った。
「よおし、じゃあ、次だ次!」
勢い良く手首を掴み、急ぎ早に南雲くんはメリーゴーランドの方でひっぱっていった。まだ就学前の子どもたちしか乗っていない乗り物だ。彰子が乗ったら壊れないだろうか。心配だった。
幸い乗り物は一切支障をきたさなかった。南雲くんのサービス精神は全く衰えることを知らず、話も途切れず、スカートの裾を踏まないようにしてくれたり、手を取ってくれたりいたせりつくせりだった。たぶん教室でこういうことやらかしたら、ひゅうひゅう攻撃を受けることは必至。C組の別れた彼女のおともだちに知られたらもっと大変だ。
「あきよくんって、本当にやさしいね」
ひととおりジェットコースターまで制覇した後、最後の締めに観覧車を選んだ。それほど大きくない。上り詰めると青潟の街と海が見渡せる。南雲くん曰く、
「やはり、デートはこれがないと嘘だよなあ」
とのこと。さすが、慣れている。スカートを持ち上げながら歩くのがだんだんしんどくなってきたけれども、ナイトがいるとその辺も楽なものだと彰子は改めて思った。可愛くて美人さんの女子たちは、こういうことに慣れているのだろう。
「中入ると、暑いね」
観覧車の戸が閉められ、一度勢いよく動いてゆっくり進みだす。彰子が汗を拭きながらつぶやくと、南雲くんはわざわざ隣りに腰を下ろした。別に真向かいでもいいのに。お尻が窮屈だろうに。
「うん、今日は走り回ったもんなあ。彰子さん、疲れなかったかなあ」
「私は大丈夫よ。走るのはだめだけど、ちゃんとあきよくんがひっぱってくれたからね」
じっと、スカートのフリル部分に手を触れ、いきなり引っ込めたりと、やたら落ち着かない様子だ。そろそろ会話もネタが尽きてきたのだろう。彰子もそろそろ自分のネタを出すことかもしれない、思いつつも出てくるのはクラスの噂話だけになりそうだ。
「私ね、やはり人は見かけによらないなあってよっくわかったよ。だってあきよくんは、二Dにいる時、絶対におばあちゃんたちと話すよりも、女子たちとやいのやいのしている方のイメージが強かったもん。もちろん、私とかは話をしているから、わかってるけどね。でも」
今のうちにお礼を言っておこう。決めた。
「今日、あきよくんのおばあちゃんたちが言ってたよ。あきよくんって、婦人会の旅行とかの計画を立てる手伝いもしてたんだって?」
「そんなこと、言ってたかなあ」
「うん。言ってた。他の人も言ってたよ。いつもすれ違うと挨拶してくれて、荷物とかも途中まで持ってくれるって」
聞いててこれはすごいと思ったのだ。バスの中で席を譲るとかはよくあるかもしれないが、なかなかできることではない。南雲くんは頭をかきながら、照れ笑いした。
「だってさあ、重そうだろ。うちばあちゃんがいるから、そういうの慣れているからさあ」
「そういうの、きっと二年D組のみんなは知らないんだよ。きっと。だから、あきよくんのことを軽いとかいろいろ言うのかもしれないけどね。でも、今日のことでよおく、わかったよ」
だんだん南雲くんがうつむいて、指を何度か絡めては離し、離してはからめを繰り返した。
「俺のこと、みんないいかげんだって言われるのは慣れてるけどさ。羽飛たちにもさんざん言われたけどさ。女ったらしだとか、好きでもない相手にちょっかいだす馬鹿野郎とか、利用する奴だとか、いろいろ言われたけどさ」
きゅうっと頭をあげた。満開の笑顔だった。
「彰子さんのお言葉で、そんなのどうでもよくなった!」
──あの、そういうことを言わせるつもりじゃなかったんだけど。
アナウンスで「ここから左手に青潟市街、また反対側には港が見えます」と流れている。眺めながら彰子は頷きながら、気にかかった言葉を引っ張り出していた。
──羽飛くんと仲が悪いのは知っていたけれど。
──けど羽飛くんだって、あきよくんのこんな真面目なところを見たら少しは見直すんじゃないかなあ。
──いろんな意味で、損してるよね。それなら、来週から少しでもあきよくんのいいところ、人前で誉めてあげたらまた、クラスの男子たちも変わるんじゃないかなあ。特に羽飛くんは。
そろそろ閉園時間だ。五時過ぎだ。音楽が「蛍の光」。最後までワンピースのペチコートで一苦労だったけれど、汗だくになりながらも無事過ぎた。「ありがとうございました」と頭を下げる受け付けのお姉さんに挨拶し、バス停に向かおうとした。
とたん、目の前を金銀まだらの風が走りぬけた。
急ブレーキをかけて止まり、すぐに目の前に戻ってきた。ナッキーだ。
──まずい、やっぱり、ナッキー来ちゃったか!
隣りの南雲くんは身を凍らせている。じっとふたり、目を合わせてはさっと逸らし、彰子の方に顔を向ける。ナッキーはにらみ、南雲くんは困惑のまなざしだ。そりゃそうだろう。この二人、顔を合わせるのが二回目なのだ。ナッキーも「なんかむかつく」と言っていたし、南雲くんも「あの自転車野郎」とか口走っていた。相性が合うとは思えない。羽飛くんと南雲くんのような関係に近いかもしれない。
危険だ。早く離れた方がよさそうだ。どっちのためにも。
ナッキーのうちではあまり「デート」の予定について説明したつもりはなかったのだが。もちろん「青潟こども公園」で会うとまでは話した。でも、まさか、追っかけてくるとは思わなかった。
頭には赤いバンダナ、学生服姿で彰子と南雲くんの前に立ちはだかった。
「なんって格好させられてるんだよ彰子。時也の母ちゃんみたいじゃねえか」
「ナッキー、これってうちの母さんの趣味に決まってるじゃない」
バス停に向かう群れから、声が届く。彰子は聞くともなしに聞いていた。
聞きなれた言葉だったし、あきらめてもいた。
──やだあ、あの子似合わないふりふり着てるよね。
──なんかぶたっぽいよねえ。
──隣りの男の子は可愛いのにねえ。
ナッキーと南雲くんがその声の方に身体を傾けていく。抗議してくれようとするのか、それとも、やっぱりそうなのかと納得してしまうのか。彰子はじっと待った。ナッキーの出方を待つことにした。
「お前か、彰子のことをさんざんもてあそんでる奴ってのは!」
「もてあそぶ、って、失礼だな。名前を名乗れ」
息せき切ってもう一人、バス停から降りてくる奴がいた。やはり学生服姿。白いラインが入っている。四角い体型と鼻の下を何度かこする姿でよくわかる。
「時也、あんたも、いったいどうしたの」
口があんぐり開いたままふさがらない。彰子を見つけるや否や、何度か咳をしながら怒鳴った。笑っていない。怖い。時也の声だ。
「なら先生に言われて、迎えに来た。これから奈良岡を、連れて帰る」
「え? 俺まだ連れて行くところいっぱいあるのに」
きょろきょろ、ナッキーと時也、彰子を見比べながら口篭もる南雲くん。
腕が引っ張られた。バックの柄が横にずれている。気をそらされて見ると、時也が墓石の顔して、バス停を指差している。しっかり、バックの底を掴んで離さない。
「時也、なんであんたもいるの。父さんが何言ったっていうの。今日のこと、そりゃ話したけど、でも」
いきなり時也は指を南雲くんに突きつけた。ナッキーの隣りに立ち、はっきりと、
「耳鼻科で俺に、聞いたのはお前だろう」
「ええっと、あ、あんときはどうも」
すっかり南雲くんの態勢不利だ。頭に手をやったり、目をふらふらさせたり、彰子の顔をうかがったりとかなりのパニック状態だ。
「耳鼻科で俺にって、時也、あのどういうこと?」
とうとう相手が目の前にいるってことで、時也も胸を張って答えた。
「俺が前の耳鼻科で待っている時、『奈良岡さんに付き合っている人はいるのか』と聞いたのは、こいつだ」
──あの、それって、本当にあきよくん?
じっと南雲くんを見返してみた。
嘘じゃないという証明に南雲くんはうつむいた。
「事情は俺が聞きだす。おい、時也。お前は彰子をうちまで送れ。バスでだぞ。俺はこいつにまだ確認したいことがある」
ナッキーは自転車をけりなおし、きっと南雲くんをにらみつけた。
これはちょっとまずい。割って入りたい。
「ちょっと待ってよナッキー。あのね、今日、南雲くんとは友だちとして」
「こいつの顔がそう見えるかよ。彰子、このまま食われてしまったら、お前、将来医者になんてなれねえぞ。とにかく、男だったら来い。言い忘れたが俺は、夏木宗だ。お前を意味なく殴るなんてことはしねえ。とにかく、ええっとなんだったか、お前の名前」
「南雲、秋世だが、話とは」
横顔が、いきなりクラスの規律委員雰囲気に切り替わっている。仮面を被った。両方を見比べながら、彰子はもう一度訴えた。
「ナッキー、変なことを考えちゃだめだよ。あんたが私のことを心配してくれるのはすっごくうれしいよ。でも、今日は私が南雲くんと会うことを選んだんだから。ナッキーとはまた謹慎が終わったら」
「彰子、お前は黙ってろ! とにかく、南雲、お前にとことん話がある。来い」
再接近。顔を近づけ、腹を突き出し、ナッキは思いっきり爪先立ちしていた。でないと、南雲くんに背が届かない。
「あきよくん、あの、ごめんなさい。ナッキーは決して悪い奴じゃないのよ。ただ、なにか勘違いして」
息を呑んだようだが南雲くんは彰子に、もう一度にっこりと微笑んだ。
「彰子さんと一緒にいられるには、絶対戦うことがあるって覚悟してた。だから、平気だよ。負けないもんな。今日のお言葉で百人力さ!」
「よおし、いい根性だ」
一瞬だけナッキーは笑みを浮かべた。が、すぐに自転車をひっぱりだした。 「彰子、これ以上謹慎くらうのごめんだもんな。時也にも、なら先生にも、ちゃんと後で説明する。俺は」
言葉を切った後、じっと見つめ返した。今まで見たことのあるナッキーの瞳でないようだった。ナッキーのお父さんが写真で腕組みしている時のまなざしにそっくりだった。
彰子は時也に無理やりひっぱられ、南雲くんは黙ってナッキーの自転車についていく。
──ナッキー、あきよくん。
とてつもなく自分が、悪いことをしている、そんな気がしてならなかった。ただ南雲くんと友だちとして「デート」しただけなのに。ナッキーにも時也にも正直に、話したつもりなのに。
時也がそばで、じっと声の向こうを見据えている。気づかれていない。
──あんな暑苦しい格好して、やあよねえ。
──似合う子でないとあのブランド、無理よ無理。はっきり言って、社会の迷惑よ。
ぎゅっと、バックの柄を握り締めて立ち尽くす彰子に、時也はしっかり背中に寄り添ってくれた。きっと時也だって悪口の対象になっているだろうに。そっと守るように、カーブを切るたびにくっついてくれた。だんだん、自分の目がゆるゆるしてきたようだった。理由がわからない。彰子はそっと手の甲で目をこすった。
「時也、いいよ、私から離れてた方がいいよ」
「いやだ」
十五分間ずっと、時也は彰子のそばから離れなかった。