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 誰も信じないかもしれないけれど。と前置きして、

「私もね、小学校の頃はもてもてだったんだからね、ほら、すい君、そこで信じられないって顔、しないで」

 彰子はぽんぽんと、水口くんの頭を軽く撫でながら続けた。

「どのクラスに入ってもそうだったんだから。給食の時もちゃんと、私の分だけ多めに給食よそってくれたりしたし、たまにはあげパンを半分もらったりね。遊びに行く時も、男子ばかりのグループに私だけ入れてもらったりしたんだから。いろんなところ連れてってもらったよ。山の中で昆虫集めに行くのも一緒だったしね。すっごく、得してたんだよ」

「それが今では、全然だよね。奈良岡のねーさん」

 きょとんとした顔で、口を尖らせて言うのは水口くんだった。制服を着ているからまだ、青大附中の二年生だと分かるけれども、たぶん小学生の群れに放置したら気付かないだろう。きちんとマシュマロカットに切りそろえているのは、親の趣味だろう。そりゃそうだ。水口くんの家は個人病院だと聞いている。絵に描いたようなお坊ちゃまなのだ。

「そうなのよ、なんでだろうね。あ、でも給食の時はたまにプリンもらったりしてるから、おあいこかな」

 他の子だったらむかつくらしいけれど、彰子からしたら水口くんを始めとする男子の言葉は軽く、ぽんぽん跳ね返して気持ちいい。一部の女子ならば、「なんてこと言うの、ガキのくせに!」とヒステリーを起こすかもしれない。そういう感覚が彰子にはないらしかった。めんこいめんこいと、撫でてあげるしかない。

「それにさあ、男子がしてくれることって、給食のことしかないのかなあ。ますますぽちゃぽちゃになっちゃうじゃないか」

「痛いところつきますね、すい君。女子にそんなこと言ったら、もっと嫌われちゃうぞ」 いい表現だ。ぽちゃぽちゃ、か。まあ仕方ないかな、と思いつつむっとしそうなのに許せてしまう。

「だって、他の奴だって言ってるじゃないか。ビール瓶って」

 否定はしない。彰子はちろっとすい君のほそっこい、それでいておつむの肥えていそうな顔を見つめ、思いついた言葉を口にした。

「私がビール瓶だったら、すい君はドリンク剤の瓶だね。すっごく頭がいいくせに、こーんなにちっちゃいんだもの。もっと、たくさん食べなくちゃ大きくなれないよ」

「ドリンク剤?」

「そうだよ。すい君なんて、難しい問題をたくさん解いて、今月だってテストトップだったでしょ。なのに、こーんなにちっちゃいんだもの。将来体力がないと大変だよね。お医者さんになるんだったらさ」

「奈良岡のねーさんみたいに、ぽちゃぽちゃでないと、医者になれないなんてことないだろ。医学部に行ければ」

 天井を見上げて思い切り彰子は笑いこけた。めんこい奴だと、もう一度思う。

「お医者さんはね、手術で何時間も立ちっぱなしだし、真夜中に患者さんの様態が急変したりしたらすぐ起きなくちゃいけないんだからね。患者さんがふにゃふにゃなのに、お医者さんがダウンしてたらまずいでしょう。まずは、体力だよ」

「そりゃ知ってるよ。うちの父さん、すっごく疲れてるもん」

「すい君だって将来はお医者さんになりたいんでしょう。知ってるぞ」

 なぜ、最近になって水口くんが彰子にべったりするようになったのか、見当はつく。もともと人見知りする子ではあったけれども、話し掛けると素直だし嘘がつけない性格だったし、けっこうめんこい。彰子が保健委員になった理由などを知るやいなや悔しがり、

「僕も保健委員になればよかったあ」

 とすね始めた。

「だって、保健委員で、そんなお医者さん関係の話してもらえるなんて、僕知らなかったもの。僕、医学部行くつもりなのに、もっと、解剖とかいろいろ覚えたかったんだ」

「すい君にはね、早いうちからお医者さんの勉強するよりも、もっと遊びなよって、どっかの神さまが導いてくれたんでしょうよ。ほらほら、私とくっついてると、ぽちゃぽちゃ菌がつくって言われるぞ」

 彰子は向こう側で男子同士、カードゲームをしているグループを指差した。二年D組の男子グループはおおまかに三チームに分かれている。だいぶ子どもっぽい遊びをしているのが水口くんのいる場所だった。

「はあい。じゃあね、ビール瓶ねーさん」

「ありがとう、ドリンク瓶の君」


 戸口にもたれかかって、別のグループ男子二人が小さい声で何かを話している。手にはLPレコードの入ったビニール袋をぶら下げている。たぶん貸し借りしているのだろう。

「ねえねえ、何のレコードかなあ」

 ふたりに聞こえないようにささやきあうのは古川こずえちゃんだった。一緒にいるのが清坂美里きよさかみさとちゃん。前髪をなんどか摘み上げながらきっぱり、答えていた。「立村りつむらくん、洋楽好きだからね」

「さっすが、よく観察してるよね。相手の南雲なぐもの方はどうなのさ」

「さあ、どうなんだろう。南雲くんもロックとかそういうの好きそうだもんね。でも」

「まあ、立村がそういう壊れたタイプの曲を好きだとは、私も思えないけどね。ねえねえ、羽飛はどうなんだろう羽飛はとばは」

 思わず彰子は耳をそばだてた。

「こずえ知ってるでしょ。貴史はロリコンで面食いだから、鈴蘭優すずらんゆうのおっかけに専念よ。もちろんね、立村くんの影響で多少は洋楽とかそういうの聴いているみたいだけどね」

 ──鈴蘭優かあ。

 ため息がこぼれる。残念ながら彰子とは似ても似つかぬかわい子ちゃんタイプのアイドルだ。

 気付かれてしまったらしい。こずえちゃんが彰子の方に近寄ってきた。耳もとあたりでやわらかくそいだショートカットが似合っている。部活にも委員会にも所属していないのがもったいない。バレー部に入ったらきっと、人気出ただろうに。こっくり彰子は頷いた。

「彰子ちゃん、やっぱりさあ、羽飛はアイドル系でないと無理なのかなあ」

 こずえちゃんはすごい。入学当初からずっと羽飛くんのことを好きだと公言してはばからないとこだ。

「羽飛くんねえ、可愛い子が好きってタイプみたいね」

「そうなんだよなあ。鈴蘭優って感じだと、思いっきり髪が長くて、耳にお団子にできるような感じで、もっとくりくりっとした目をしてて」

「こずえちゃんだって目は大きいじゃない」

 あまりいい慰めにはなっていないけれど、もともとこずえちゃんは男の子っぽい可愛さがあると思う。きっと将来は、美人さんになるんではないだろうか。

「そうかなあ。でも、ギョロ目だと言われるだけかも。あーあ」

 こずえちゃんが大げさに、ため息をつく。すぐに美里ちゃんに話し掛けた。

「ま、いっか。美里。それよりさあ」

 美里ちゃんがちろちろと戸口の男子ふたりを眺めては、軽くうつむいてノートを開く。数学の問題集を開いて、ちらっと彰子の方に寄ってきた。

「彰子ちゃん、この問題なんだけど、空間図形の問題、どうしてこういう答えになるのかわかんないの。教えて」

「簡単な解き方の解説、写してきたから見る?」

 言うのもなんだが、彰子は数学がお得意なのだ。

「うん、ありがとう。いいよね、彰子ちゃんは数学とか理科とか得意だもんね。私、どうしてもわかんないところあるから困っちゃう」

 隣りで聞いていたこずえちゃんがまぜっかえす。

「なに言ってるの、あんたのダーリンに比べたらまだまだ」

 言いかけたところでぽこんと叩かれていた。

「こずえ! やめなさいよ! なんもないんだからね、もう」

 心なしか美里ちゃんは真っ赤だ。うつむいて問題を写していた。

「ほおら、赤くなってる。奴に気付かれたら、どうするって」

 ──美里ちゃんはどうして羽飛くんじゃないんだろう。

 彰子は席後ろ側に陣取っている羽飛くんを探した。後ろ側の席で花札を広げてはしゃいでいる。目鼻くっきりした、いかにも裏表ないよって顔が気持ちいい。一年生の女子たちが騒ぐのも無理はない、と彰子は思う。ブレザーに最近は、飛行機のピンバッチらしいものをつけている。校章でないことは明らかなので、よく先生に呼び出しをくらっているらしいが、その辺はお調子ものでうまく乗り切っているらしい。そうこずえちゃんから聞いた。髪の毛もだんだんつんつん立ててきていて、微妙に整髪料独特の艶がある。

 ──羽飛くんは、面食いなんだもんね。

 わかっているけれど、やっぱりため息が出る。こずえちゃんに気付かれないよう、彰子はもう一度、唇だけで吐息をふきだした。


 最近、水口くんが彰子になつき出したのにはわけがあった。

 もちろん入学当時から、赤ちゃん赤ちゃんしていた水口くんに、「ほら一緒に遊んでもらいなよ」と、保母さんみたなことをしていたけれど。でも、他の女子だってみなしていたことだった。彰子だけが目立ったわけではない。現在彰子が所属している二年D組は、裏でいろいろあるにせよ、仲間はずれにしたりするような奴はいなかった。

 二年に上がってから、クラスの道徳の時間で、「将来の夢」を発表させられた時、

「将来は医学部に行って、お医者さんになりたいんです。だから保健委員になったんです。今のうちから医学関係のこと勉強できるから」

 と言い放ち、クラスを爆笑の渦に巻き込んだ。馬鹿にされたとは思わない。彰子も笑ったから。

 次の瞬間、あの水口くんが手をひょいと挙げて発言したではないか。

「僕も、うちの病院を継ぐために、医学部に行きます!」と。

 あの、

「見た目小学生」

「でも頭はいいけれど」

「頼むからいきなり泣きじゃくって物を投げるのはやめてくれ」

の水口くんが、医者を目指しているなんて、想像する方が難しい。

 あきれかえった爆笑と囃し声にもめげなかった。その時に限っては水口くん、本気だったらしくがんとして笑わなかった。

「だったら、どうすればいいのかな、奈良岡」

 担任の菱本先生がからかうように彰子へ声をかけた。

「やっぱり、解剖になれるため、お魚やお肉を捌く練習をしたほうがいいと思います。終わったら料理して食べられるしね」

 水口くんに、あえて笑顔で話し掛けた。なんとなくだけど、水口くんは彰子の言葉に釣られたから言い出したのではなく、どうしてもいつかは宣言したかったんじゃないか、そう思えてならなかった。やっぱりそういうところが、「すい君」めんこいと思う次第だ。 母に勧められた勉強方法だった。クラスがさらなる爆笑状態に陥ったにも関わらず、水口くんはまったく笑わなかった。ちょっと冗談がきつすぎたかも、とは思ったけれど、本当のことなのだから仕方ない。

 たぶんそれまでは一度も、自分の夢を口にしたことがなかったのかもしれない。ばかにされるからがまんしなくちゃいけないと思ったのかもしれない。 でも彰子が同じ夢を追いかけていると知って、「女子の中でも特別なお友だち」と水口くんは認識してくれたらしい。

「奈良岡のねーさん、ビール瓶のねーさん」

 二番目の呼び名はちょっと、女子について失礼だと思わなくもない。

 当然のことながら、彰子は水口くんにお返しの呼び名を贈呈した。

「なあによ、ドリンク瓶の君」

 頭の栄養は満点なのに、瓶は小さいし硬い。いつもひょろひょろしていて小柄だけど、学校の成績は非常によろしい。そんな水口くんにはぴったりだ。自画自賛してしまう。

 にゃはは、と素直に喜んでいる水口くんと遊びながら、彰子は思う。

 ──本当に、小学校の頃はこういう男子ばっかりだったんだけどなあ。

 ──私の『黄金時代』は、早いうちに過ぎちゃった。

 ──ま、いっか。あとで父さんに、中学の連中たちがどうしてるか聞いておこうっと。


 家に帰ってから家で料理に専念した。毎度毎度「解剖学習」するわけにはいかないので、シチューの素にたっぷりさいころ牛肉を入れて煮込むだけにした。五月だからまだまだあったかいものでも平気。父はそろそろ戻ってくる頃だし、母が遅くてもフリーザーに入れておけば大喜びで食べてくれる。確か、今日は病院の当直だと聞いていた。

「もう料理できたかな」

 穏やかに、足を忍ばせて帰って来たのが父だった。めがねをかけている。細い。骨が浮き上がっている。一時期彰子は、「父さんってもしかして人体模型から生まれたんじゃないだろうか」と思ったことがある。どうして自分のような「ぽちゃぽちゃ」系の子どもが生まれたのか謎だった。たぶん母にまるごと似てしまったのはわかるが。

「父さん、ほらほら、食べないと体力もたないよ」

「彰子さんのお肉を少しほしいなあ」 

 全く男性は彰子の乙女心を逆なでするようなことを平気でいう。でも、「ま、いっか」で流せるからそんな腹も立たない。仕方ない。

「今日は父さん、学校で何かあったの? 疲れてるね。ここ最近」

「いや、なんでもないよ」

 そういう言葉の力なさに、彰子は思う。

 絶対何かがあったはずだ。

 学区内の公立中学で社会科教師をしている父は毎日のように、疲れきって帰ってくる。教師が父親というと、やたらめったら規則に厳しいとか、勉強についてはうるさいとか、先入観持って見られることが多い。だが彰子からすれば、それぞほんとの「先入観」だった。家に帰れば「頼りないけどやさしいお父さん」のままだ。そりゃ多少は勉強のことも話をするけれども。

 「ま、いいじゃない」とこっちで流せばそれですむ。

「ならさあ、お父さん、最近、そっちの学校の連中元気なの? 私も最近は、青大附中の方の友達としか遊べなくって気になってたんだけど。ほら、時也とか元気なの? あいつもあまりしゃべらなくなったって、この前和子ちゃんから聞いて気になってたんだけど」

「ああ、時也か」

 皿に盛ったシチューを口に運びながら、ほおっとつぶやく父。

「どうしたんだろうね。クラスで何かあったのかな。父さん、聞いてないの」

「いやな」

 口ごもるようす。口にまだ食べ物が残っているわけではなさそうだ。

「この前、時也ときやのうちに家庭訪問に行ったんだけどな」

「うんうん」

「……彰子さん、今度、小学校時代のみんなと、飯盒炊爨やろうか?」

 飯盒炊爨といえば、青潟河川口と呼ばれる河原で石を積み上げ、カレーライスや焼肉をこしらえて、食べて騒ごうって奴だ。もろ手を挙げて賛成したいところだけど、話が飛んでしまうと彰子も答えに困る。

 そりゃあまあ、いくら担任しているクラスの生徒が、彰子の友だちとはいえ、露骨に内容を話すわけにはいかないだろう。

「でも、時也がどうしたの」

「うん、まあな。でも彰子さんの友達は他にもたくさんいるから、全部集めてぱあっと騒ごう。母さんの非番の日にでもな」

「今週は厳しいんじゃないの? 母さん、研修会があると言ってたよ」

「それじゃ、彰子さんだけでもいいか」

 父の言う言葉は取り留めなかった。

「日曜は、今のところ予定ないよ。わかった。じゃあ他の子に連絡取っておくね。そうだ、時也のこと心配だったら、私が連絡しておこうか? お父さんだったらやっぱり、先生だし。それに家庭訪問したばっかりでしょ。ちょっと、要注意人物って思われているかもと、時也のことだから悩んでしまうかもよ」

 何かを言おうとする父を押しとどめ、彰子は受話器を取った。


「ああら、彰子ちゃん、お久しぶり」

 名倉時也なぐらときやへの電話番号は、ちゃんと二年一組連絡網の中にプリントされている。電話口に張られている。すでに黒くにじんでいる。使用しまくっているのは父だ。彰子ももちろん愛用させていただいている。

「こんにちは。時也、いますか」

 時也のお母さんは、てきぱきなんでも片付けるタイプの人で、ぼおっとしている時也がどうして生まれたのか謎な存在だ。親子遠足の時などもそうだ。何もしないで空を見つめている時也のそばで、お母さんはあっという間に荷物を出したり片付けたりお菓子をくばったりと、捌きが早かった。「過保護」と陰口を叩かれないわけではなかったけれども、いつもお母さんと行動しているわけではないのだから。からかう男子たちには彰子の方からきちんと、「あんまりやりすぎたら、今度のクリスマス会、私の手作りクッキー、あげないよ」と脅してあげることにしていた。結構、効果的な注意方法である。

「お父さんから聞いたの?」

「いいえ、今度、みんなで一緒に遊ぼうって企画立てたんで、時也もどうかなあって思ったんです」

「まあ、彰子ちゃん、勉強忙しいんでしょう。青大附中って大変なんでしょ」

 みなそう言う。大変でないとは言わないけれど、そんなみんなが騒ぐほど怖いところでもないのに。第一、彰子がいつも遅く帰るのは決して塾に行っているわけでも勉強しているわけでもなく、保健委員会の関係で残っているくらいだ。保健室は勉強もできるし、おしゃべりの場でもある。彰子にとっては庭だった。

「みんなに会えないからすっごく、淋しいです」

 これ以上突っ込まれるのは面倒だ。早く時也に代わってほしかった。一秒、空白が流れ、おそらくそれでお母さんも気付いたのだろう。

「ときや、彰子ちゃんから電話よ」

と、遠めに響く声がする。確か時也の部屋は二階のはずだった。受話器を取ったらしく、鼻息らしき雑音が聞こえる。でも答えない。全く、返事くらいしてほしいものだと思いつつも、この辺が時也らしいとも再認識する。

「もういるんでしょ、時也、元気?」

 返事がない。ただ、唇がふるえた程度で、うっすらと空気の揺れる音が聞こえる。あいつなりに答えてはいるのだろう。彰子は続けた。

「最近、元気ないって聞いてたからね、どうしたのかなって電話してみたんだ。ううん、父さんとは関係ないよ。私も最近、小学校の時のみんなと遊んでなかったからね、せっかくだしみんなでどこか行こうかと思ったわけ。飯盒炊爨なんてどうかなあ。青潟河川口の河原で、カレー作ったりして遊ぶの。火を使うから大人を連れてかなくちゃなんないけど、うちの父さんだったら大丈夫でしょ。大人を利用するのも手だよ。ほら、聞いてる?」

 一気にまくし立ててみたけれど、返事はない。

 聞き取れなかったのかもしれない。時也は少々鈍いところがある。話を変えてみた。

「そうだ、時也、ちょっと気になったんだけどさ。今クラスで、意地悪されてるとかそういうことはないの? あんたおとなしいからね。ちょっと嫌なことされても、ずっと黙ってること多いでしょう。言わなきゃだめだよ。やられることあったら絶対やだって」

 相変わらず吐息のみの返事だ。

「もしなんかあるんだったら、相談に乗るからね。ま、私なんかだったらあまり役立たないかもしれないけどね。でもさ、同じ学校じゃないから返っていろいろ話できるところあるよ。あ、それとも、私の言い方、うっとおしかった?」

 男子によっては彰子のように話しかけられるのを嫌がる奴もいる。青大附中に来てから驚かされたことのひとつだ。あまり干渉されたくないということで、彰子を無視しようとする男子が多い。

「そんなことない」

 やっと、一言だけ聞こえた。完全にひび割れた声だった。男になったねえ、とひとりごちる。

「ああ、よかった。いやね、私も小学校の黄金時代からすっかり引きずり下ろされてる始末だからさ。たまには、気持ちよく誉めてほしいってのもあったのよね。ありがと。じゃあ、もう少し私と父さんとで相談して、決まったら連絡するね」

「奈良岡、おい」

 電話を切ろうとした手が止まった。時也が何か受話器の向こうで言っている。聞き取りずらい。

「この前、聞かれた」

 短いセンテンスで話すのが時也のくせだった。

「青大附中のブレザー来た奴に、聞かれた」

「まるでスパイじゃない、何よ、何」

 時也の声が、そばにいるらしいお母さんのことを気にするように低く小さくなった。

「奈良岡と、付き合っている奴いるのかって」

 一点凝視。目の前の連絡網をひとりひとり追っていった。

 ──付き合ってる奴いるのかって?

 ──青大附中のブレザー来た奴にって?

「わあ、嘘でしょ。時也、これって説得力ない冗談だよ」

「嘘じゃねえ」

 まぜっかえしたかったのに、時也の答えは冗談が混じらない様子。困った。答えるにも、真面目に答えればいいのか、ギャグにすればいいのか、その判断が難しい。そばには父もいる。下手なことを言えない。

水口くんと一緒で、真面目な声を出している時也には彰子も精一杯きちんと相槌を打たなくちゃ、と思う。

「あのねえ、時也。噂にも聞いてると思うけど、私が青大附中でどう言われてるか知ってる? 『ビール瓶』よ、『ビール瓶』。見るからに私は不細工この上ない証明だよね。でさ、青大附中の男子って言ったらなんだけど、面食いが多いんだわ。私なんて相手にしてもらってないもんね。こうやって、今でも私に電話くれたりかけて話してくれるってのは、時也、あんたを始めとしてうちの小学校時代の連中ばっかりだよ。みいんな、いい奴ばっかりなんだもん。まあ、青大附中の男子がいやな奴とは思ったことないけど、でも、まかり間違っても私と付き合ってるかどうかで気をもむ奴、いないと思うなあ」

「いるんだからしょうがないだろ」

 時也の答えは相変わらずぶっきらぼうだった。

「ま、いっか。ごめんごめん。教えてくれてありがとう。時也、その男子ってどんな奴だった? 知り合い?」

「知らない奴。きざっぽい顔した奴」 

 ──羽飛くんじゃないか。

 ちらっと浮かぶ、羽飛くんの顔。どうもきざとは程遠い。やんちゃな表情だ。

「どういうシュチュエーションなわけ。例えばさ、学校帰りにゲームセンターで呼び止められて」

「耳鼻科」

 単語で答える時也に、彰子はどんどんつなげていった。

「耳鼻科って、病院のこと? 待合室で?」

「そう」

「そこで、青大附中のブレザー来た男子に声をかけられたの」

「そう」

「いきなり、私の相手がいるかどうかを聞かれたの」

「うん」

 わかりやすい。時也と会話するのは慣れると簡単だ。

 ──どうしてうちの父さんは悩むんだろうなあ。絶対、変よ。

「たまたま、隣りの席に座っていたとか」

「向こうから寄ってきた」

 なるほど、でもわかる。時也の通っている中学の制服は、ふつうの学生服なのだけど、カフスと学ランの裾に白線が太く入っている。バッチを確認しなくてもすぐにわかるという、目立つ制服だった。

「ふうん、じゃあ私の出身小学校がどこかって、ことがわかってる人だよね。うちのクラスの男子かなあ。それで、なんて聞いてきたの」

 二秒くらい、間があった。

「時也、電話長いわよ」

 声が聞こえる。お母さんだ。

「『奈良岡さんに、付き合っている奴いるんですか』だけ」

 いきなり電話が切れた。たぶん、お母さんに怒られたのだろう。

 ──これは、私の方からあやまっておいたほういいかもしれないな。

 もう一度掛けなおした。

 

 お母さんが出た。何度も呼び出すのは申しわけないので、彰子は大急ぎ、お詫びと説明を伝言することにした。

「ごめんなさい、奈良岡です。さっき時也にも話したんですけど、私の、たぶん同じクラスの男子だと思うんですけど、時也に変なこと言って、迷惑かけたみたいなんです。ごめんなさい。だから、時也に伝えてもらえませんか? みんなでまた面白いことして遊ぼうって。うちの父さん連れて、今度どこかみんなで行こうって。本当に、本当に、いやな思いさせちゃって、ごめんなさいって」

「まあ、そうだったの。ごめんね。彰子ちゃんこそ、うちの時也に気を遣ってくれて。わかったわ。伝えておくからね。お父さんによろしくね」

 お母さんは怒ってない様子だ。よかったよかった。父が担任だったというのが、かなりのプラス材料だったのだろう。テーブルに向かって不安そうに見つめている父にピースサインを送り、受話器を置いた。

 

 洗い物は彰子がする時もあれば、父がやってくれる時もある。

 なんだか頭を冷やしたかったらしく、今日は父が全部、食器洗い機に詰め込んでくれた。「父さん、無理しないでよ。まだまだ私がお金稼ぐのは時間かかりそうなんだからね。この細い腕が折れちゃったら大変なんだから」

 力弱く笑う父に、それ以上追求できず、彰子は部屋を出た。

 

 時也の様子は電話口でも伝わってくる。やはりいつもより落ち込んでいるのを感じる。 もともとクラスではおとなしい子だったし、真面目ではあったけれども、お母さんに押しつぶされそうな感じで心配ではあった。父の担任クラスに入ったと聞いて、他の子たちの方からもいろいろ、男子たちとの軋轢を耳にしていた。あまり父のクラスは、明るい雰囲気ではないらしい。ただ、父は基本として、家でクラスのごたごたについて話をしない。彰子に対しても、母に対しても。誰かが万引きして捕まったということがあっても、黙って出かけていき、静かに戻ってくる。気にはなっていたけれど、口には出さないようにしていた。

 臨時家庭訪問するくらいなのだから、そうとう事態は切迫しているに違いない。

 ただ、彰子には何が起こっているのかつかめない部分の方が多かった。小学校時代一緒だった男子たちからは今でも、しょっちゅう電話がかかってくる。遊ぼうといわれることもあるし、誕生日にプレゼントということで、ガチャガチャのおもちゃがポストの中に入っていたりした。

 少なくとも彰子の受ける印象では、連中が時也をいじめるいやな奴とは思えなかった。

 

 別の問題もある。

 気になるのは青大附中の誰かが、時也に話し掛けてきたという事実だった。

 制服が目立つというだけで、たまたま彰子と同じ中学だったということで、わざわざ時也に近づいてきて、

「奈良岡さんに付き合っている相手がいるんですか」

と尋ねてきたのはなぜなんだろう。時也の口調からすると、丁寧語を使った相手らしい。

 誰だろう。羽飛くんではなさそうだ。

 ──羽飛くんでないなら、まあ、誰でもいいか。

 一気に気持ちが軽くなった。

 ──昔は私ももてたのよ、なんて言ったから、みんな本気にしちゃったのかもな。なんか、笑っちゃう。

 ──でも、時也には悪いこと、したな。関係ないのに。よおし、明日、うちのクラスの男子連中にきっちり釘をさしておこうっと。でもまた大受けするだろうなあ。また水口くんに「わあ、ビール瓶のねーさんの相手なんてだーれなんだろう」とか言われて大笑いされるかも。ま、いっか。私も一緒に笑っちゃうしね。

 別にいいのだ。小学校の時みたいにお姫さま扱いされなくたって。

 すい君みたいに「ビール瓶」と叫ばれようが、「うるさいなあ」と嫌がられようが。基本はひとつ、いい奴ばっかりだと思えれば、それでいい。

 脳天気だと思われようが、それこそ奈良岡彰子としてのモットーだった。

 ──だって、私の周りにはいい人ばかり集まるんだもん。小学校の男子も女子も、青大附中の男子も女子も。みんな、いい奴ばかりだから。


 階段を上がり、母の部屋をのぞく。当然、真っ暗だった。電気をつけて「月刊メディカルイン」の包みを探した。母が毎月購読している医学雑誌だった。すでに封を切っているが、まだ封筒の中に納まっている。無断借用は母とのお約束だ。早速借りていくことにした。 ピンクのカーテンに花模様の壁紙。真っ白い椅子と机。たぶんここを見た限り、母が眼科医であることを想像するのは難しいだろう。本棚の医学書、「白内障」「失明」などなどの言葉を見出さなければ。

 小さい頃から彰子は母と遊んでもらう時に、絵本代わりとして医学書をめくって喜んでいたものだった。図工の時間中に、「目の拡大図」を書いては大笑いされた。彰子も笑った。充血した目のひび割れを線で描くのが面白かったことを覚えている。

 仕事柄、どうしても家にいることが少ない母。

 人はみな、

「淋しいでしょう」

「ただでさえ一人っ子なのに彰子ちゃんはけなげね」

と同情する。でも、彰子は極端に淋しいと思ったことはなかった。何かがあれば父がいたし、もっというなら母だってすぐ駆けつけてくれるとわかっている。もし来てくれなかったとしたら、それはどうしてもお医者さんとしての義務があるからであって、彰子のことをないがしろにしてるわけではないとわかっている。たぶん、家族は気持ち悪いくらい仲がいいと思う。

 「絵に描いたような幸せ」という言葉がある。

 父は中学教師、母は眼科医。

 医師令嬢、深層のお嬢様、門限厳禁、勝手な想像なんて、とんでもない。

 三人揃えばひたすら、漫才ネタをかましあい、時には学校関係の問題について「学校現場」からの意見を求められたりもしている。小学校時代の男子女子、その他父の教え子たちはしょっちゅう遊びに来てくれるから、そんな誤解なんて一切しないのだけど、それ以外の人たちにはどんなに説明してもわかってもらえない。残念だ。

 父曰く、

「彰子さんは我が家のカウンセラーだなあ。なあ、彰子さん、教師っていうのも、いい仕事なんだぞ」

 母曰く、

「あんたみたいな子が看護婦さんでいたら、すっごく助かるんだけど。ねえ、彰子、どうしても、医者でないとだめなの?」


 小学校の頃までは、全く疑ったこともなかったのに。

 どうしてだろう。青大附中に入学してからだった。彰子の周りがだんだん、違う視線の色に染まっていく。父も、母も、小学校の友だちも、みな今までと同じ仲良しなのに。男子たちも相変わらず彰子に電話してきて父をやきもきさせているっていうのに。

 とにかく、明日、「だあれ、私の友だちに『奈良岡のねーさんがめちゃくちゃもてていた説』を確認した奴って。もう、やだなあ!」とかましてあげよう、そう決めた。そして時也に「なあんだ、うちのクラスの男子だったんだけどね、あんまり私が過去の栄光を自慢したから、からかいたかったみたいなんだよ!」と明るく教えてあげよう。そうしたら、時也も笑ってくれるだろう。

 彰子が、小学校時代の仲良し男子たちにしてあげられるのは、まずはこれだから。

 ──ま、いっか。私は楽しいんだから。

 いつものように本を無断借用し、彰子は部屋に戻った。「月刊メディカルイン」には毎週、女医さんの有名な人にインタビューするコーナーが設けられている。

 夢見るために読んではにこにこしてしまう、お気に入りの連載だった。


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