第九十五話 この魔獣の只中でさえ、楽園だと思えるほどに
ヴァンは、レオの姿を追って駆け出した。
赤い空に白いシャツがはためく。
竜の頭上から、宙へと高く弾き飛ばされた彼女は、頭を下にして地面へと落ちて行く。
視界を奪われて狂乱する魔物たちの間をすり抜け、地面を踏み鳴らす竜の足元を潜り抜けて、ヴァンは走る。
心臓が悲鳴を上げ、喉の奥で肺がひゅーと泣く。
意識だけが身体を抜け出して、三歩前を走っていく。
動け! 足! 間に合え! 間に合え! 間に合え!
だが、
――遠い。
ヴァンが、思わず唇を噛んで顔を歪めた。
声を上げれば、周りの魔獣に居場所を悟られる。
分かっている。
分かっているのだ。
でも、ヴァンは叫ばずには居られなかった。
レオが落ちようとしている先。
まさにその辺りでは、密集した魔獣が口を開けて、獲物が落ちてくるのを待ち受けている。
レオが暗殺者として、体術に長けている事はもちろん知っている。
だが、たとえ落下の衝撃に耐えられたとしても、そんなところに落ちたが最後、抗う暇もなく喰い殺されてしまう事だろう。
「レオさぁああああああああん!!!」
ヴァンの叫びに、周囲の魔獣が一斉に彼の方へと首を向けた、その瞬間。
突然、空中のレオの身体が揺らいだ。
比喩では無い。
彼女の身体の周りを紫電が駆け巡り、まるで、水に流した墨の様に、彼女の身体そのものが揺蕩ったのだ。
そして、揺らぐレオの姿が唐突に掻き消える。
途端にヴァンの周囲にバリバリと音を立てて紫電が走り、魔物達が絶叫と共に、次々と破裂していく。
地面は穿たれ、石礫とともに魔物たちの肉片が飛び散る。
やがて、頭を守って腕を翳したヴァンの目の前、そこに徐々に光が集まってくる。
それは、次第に人の形を取りはじめ、遂にはレオの姿を形作った。
「レ、レオさん!? い、一体これは!」
「レオが申し上げます。雷系統第六階梯『雷撃化』です」
「第六階梯!?」
シュゼットに聞いた話通りなら、今、王国には第五階梯以上の魔法を使える魔女は居ないはず。
第六階梯――それは、レオがこの煉獄で休みなく戦い続けた結果なのだろう。
つまり、今ヴァンの周囲を走った紫電は、レオ自身。
自分の身を稲妻に変えて、ヴァンの周囲の魔獣を屠ったのだ。
「レオが申し上げます。アナタが無茶をするから……レオはもう魔力切れです」
どうやら、レオには無事着地できる目算があったらしい。
だが、ヴァンが声を上げた所為で、魔獣たちが彼に襲い掛かるのに気づいて、第六階梯を使用した。
つまり、そういう事だ。
「レオが申し上げます。……なんとか退路をつくります。アナタは逃げてください。レオも後から追いかけますから……」
本当に昏倒寸前なのだろう。
レオの顔は青く、足元は小刻みに震えている。
――僕の所為……だ。
だが、ヴァンには、あの時レオの方へと駆け出さずにいることなど、なんどやり直したって出来ない事は分かっている。
周囲に目を向ければ、飛び散った肉片に魔獣たちが群がって、咆哮を挙げながら餌を巡って争っていた。
放って置けば、すぐにヴァン達の方へも、襲い掛かってくることだろう。
ヴァンは一つ大きく息を吐くと、レオの傍へと歩み寄る。
そして、今にも座り込んでしまいそうな彼女の身体を支える様に、腰へと手を回した。
だが、彼女が身に着けているのはシャツ一枚。
ヴァンの手の感触にビクリと身体を震わせて、レオが、
「な、なにを……」
と顔を赤らめると、ヴァンはレオの目を覗き込む。
黒い瞳、光彩はヘイゼル。
潤んだ瞳で見つめ返すレオへと、ヴァンは静かに言った。
「僕の賭けに乗ってもらえませんか?」
「レオが申し上げます。賭け……ですか?」
「神頼みというしかない様な賭けですが……」
すると、レオが突然、プッと噴き出した。
何も笑われるような事を言ったつもりの無いヴァンは、思わず眉根を寄せる。
「うふふ、ごめんなさい。レオが申し上げます。神頼みですか。神様は頑張った人しか救わないのですよね? レオは頑張ったとは、思いませんか?」
「レオさんは頑張った、頑張ったに決まってるじゃないですか!」
「じゃあ、きっと大丈夫です」
そう言って、レオはニコリと笑った。
ヴァンは一瞬逡巡する様に目を逸らし、そして意を決して口を開く。
「じゃあ、僕とキスしてください」
「レオが申し上げます。別れのキス……という訳ではないですよね」
不安げな顔をするレオの目を見つめて、ヴァンが頷く。
「生き残る為に」
すると、レオは優しく微笑んだ。
「レオが申し上げます。そういう事なら、よろこんで。レオは名前も知らないアナタの全てを愛しています。アナタと二人なら、この魔獣の只中でさえ、楽園だと思えるほどに」
予想もしなかった愛の告白に、ヴァンは驚いて思わず目を泳がせる。
「い、いや、そう、でしたっけ、僕、な、名乗ってませんでしたっけ、ヴァ、ヴァンです。ぼ、僕はヴァン。あ、あと、す、すごく嬉しいんですけど、僕には好きな人が……」
「レオが申し上げます。訂正です。アナタの、そのデリカシーの無いところは愛せません」
ぷくっと頬を膨らませた後、レオは、はにかむ様に笑って静かに目を瞑る。
そしてヴァンは、戸惑いながらも、ゆっくりと自らの唇で彼女のそれを塞いだ。
その途端、心臓が激しく脈を打つ。
じんわりと熱いものがこみあげてきて、こらえきれずにヴァンの舌がレオの唇を強引に押し開いて侵入し、彼女を征服しようと荒ぶる。
おずおずと、レオの舌がそれを迎え入れると、互いの身体を強く抱きしめ、一つの身体で無い事のもどかしさに、二人は思わずその身を捩った。
やがて彼の身体の奥、胸の奥の奥で、何かが目を覚ます。
それはヴァンの身体の奥を這いまわり、やがて喉の奥へと辿り着くと、それは『光』系統の回路を上書きし、『吸収』系統の魔術回路に絡みついた。
そして、静かに、静かに、ヴァンが唇を離す。
すると、レオは名残惜しげに吐息を洩らして、恥じらう様に、彼の胸へと顔を埋めた。
「レ……レオが申し上げます。どう……ですか?」
ヴァンの胸に頬を寄せたまま、レオが問い掛けた。
「レオさん……僕も少しぐらいは、神様というのを信じても良いような気がしてきました」
その答えに、レオはクスリと笑う。
「あなたは自分自身をもっと信じても良いんです」
――だってアナタは、レオの神様なのだから。
無論、レオのその呟きは、ヴァンの耳には届かない。
彼女の目に、ヴァンは自信なさげに見えていたのだろう。
レオの言葉をそう受け止めて、ただ苦笑した。
「じゃあ、レオさん。僕から離れないでくださいね」
「レオが申し上げます。はい、アナタ」
ヴァンは一つ頷くと、腕を大きく振り上げ、頭上でそれをぐるりと振り回した。
その腕の動きに合わせて、周囲に無数の紫電が走る。
紫電が走った後、周囲を取り囲む魔獣たちの頭上に、幾つもの太陽が生まれた。
昇る太陽も無く、沈む月も無い。
彼女がそう語った赤い世界に、無数の輝きが生まれたのだ。