第九十三話 煉獄バトルロード
境界を越えた途端、気温が少し上がった様な気がした。
見渡す限りの赤土の渇いた大地。
黄昏の様な真っ赤な空。
見回しても太陽は見当たらず、風も無い。音もない。
赤一色の濃淡だけで描かれた、不気味な絵画の中に迷い込んでしまった様な気がして、ヴァンは無意識に、絡めたレオの指先を手繰り寄せる。
すると、
「レオが申し上げます。……大丈夫です。アナタには、レオがついています」
レオがヴァンの顔を覗き込んで、ニコリと微笑み、頭の右側でまとめた彼女の黒髪が、微かに揺れる。
彼女はヴァンの白いシャツを纏い、足元は穴の開いたボロボロの長靴。
シャツの裾から覗く長い脚。
その白い付け根の方に、ついつい目が吸い寄せられそうになって、ヴァンは慌てて眼を背けた。
そして、歩き出そうとした途端、
「ああ、そうです。ちょっと待ってください」
レオは唐突にそう言うと、キョロキョロと周囲を見回す。
そして、大ぶりの石礫を手に取ると、それを別の石へと叩きつけた。
石礫はあっさりと砕け、レオはその砕けた石礫の中から、比較的大きめの尖った破片を二つ拾って、うち一つをヴァンに手渡す。
「レオが申し上げます。アナタもこれを一つ持っていてください」
「石……ですよね? ただの」
ヴァンが戸惑うような顔をすると、レオがそんな事も分からないのかとでも言いたげに、僅かに唇を尖らせる。
「レオが申し上げます。ここから先、魔力切れを起こす訳に行かないんです。ですから魔法は節約して、これで倒せる魔物は出来るだけ、これで倒します」
「な、なるほど……」
ヴァンがこれで倒せる相手と、野ネズミほどの小動物を想像した途端、レオの眉がピクッ! と動いて、彼女は何もない方向へと目を向ける。
「レオが申し上げます。丁度良い。見ていてください」
レオの視線の先、何もない筈の場所で、地面に僅かな土煙が舞った。
「あ、あれは!?」
ヴァンが思わず目を見開く。
土煙と同時に、微かに聞こえた接地時間の短い獣の足音。
――高速悪魔!
「レ、レオさん! 僕が魔法で動きを止めますから、レオさんは……」
慌てるヴァン。
だが、レオはヴァンの口元に手を伸ばして、彼の言葉を遮った。
「レオが申し上げます。何度言えば……レオはレオサンなどという名ではありません、と!」
言葉の末尾に力が籠る。
同時に、レオがさっと手を一閃した途端、ぎゃん! という短い悲鳴が響いて、どさりと地面に獣が落ちた。
ヴァンは思わず驚愕の表情を浮かべる
数メートル先で腹から血を流してのたうち回っているのは、紛れもなくあの高速悪魔。
レオはつかつかと『高速悪魔』へと歩み寄ると、眉一つ動かさずに足を振り上げ、その頭へと足を振り下ろす。
顔を背けるヴァン。
その耳にびちゃっ! という水音が聞こえて来た。
恐る恐る目を向けると、レオの足元でぴくんぴくんと微かに震えていた獣の身体が、動かなくなった。
「『高速悪魔』をい、石だけで……」
ヴァンが呆然と呟くと、レオが表情一つ変えずに答える。
「レオが申し上げます。驚くような事ではありません。コレはそこら中から湧いて出てきますから、いちいち魔法なんか使ってたら、すぐに魔力切れを起こします」
「で、でも姿も見えないのに……どうやって?」
「レオが申し上げます。動きが単純なんです。それは確かに最初の頃は苦労しましたが、慣れればどの辺に石を投げれば当たるのか、感覚で分かる様になります。それに……お忘れかもしれませんが、レオは暗殺者。暗器の扱いは手慣れたものです。ナイフならもっと効率的に狩れるのですが……」
ヴァンは、ぽかんと口を開けたまま固まっている。
まさに開いた口がふさがらないとはこういう事を言うのだ。
だが、レオはそんなヴァンを構う事もなく話を続ける。
「ところで、『高速悪魔』というのですか? 他に人はいませんでしたから、名前などどうでも良かったんですが、ちょっと長いですね。そうです……ね、あの森に辿り着くまではレオの主食でしたし、これからはアレの事は『肉』と呼ぶことにします」
「しゅ、主食って、食べたんですか!? アレを!」
「はい、他に食べるものはありませんから」
ヴァンの驚きをあっさりと切り捨てて、レオはヴァンに手を差し伸べる。
その手を取りながら、ヴァンは早くも森を出た事を後悔しはじめていた。
その距離、森から僅か数メートルの出来事である。
◆◆◆
そこから歩みを進めていくと、レオの言葉通り、実際に『肉』こと『元高速悪魔』が、次から次へと襲い掛かってきた。
それこそ、何分に一匹というペースで、時には数匹の群れで襲い掛かってくるのだ。
だが、それをレオがあっさりと倒す。
『肉』が現れては、レオが屠るという無限ループ。
まるで何かの作業のように、淡々と続けられる殺戮を、一番近くで眺めながら、ヴァンは、ただただレオの後をついて歩いていった。
出発して約一時間ほど経った頃、ヴァンは何気なく背後を振り返る。
遠くにあの森が見える。
どんよりとした赤い風景の只中に、浮かび上がる緑の森。
まるでそこだけ別世界の様に、陽光に照らしだされている。
実際、世界の一部をくりぬいて、他の世界をそこに差し込んだ。
あの森の在り方は、ヴァンの目には、そんなふうに見えた。
そして、その森から、まるで来たルートを指し示す様に、レオが屠った『肉』の死体が、地面に点線を描いている。
塔に近づくに連れて魔物は強く、そして多くなっていく。
レオはそう言っていた。
現在も数分に一回のペースで、魔物が襲い掛かってくるというのに、それが更に多くなっていくというのは、一体どんな状況なのだろう。
そう考えて、ヴァンは思わず身震いする。
ちらりとレオの方へ目を向けると、彼女は平然と前を見据えている。
疲れた様子も見られなかった。
周囲の風景は、歩けども歩けども全く変化が無い。
同じ所でずっと足踏みをしている様な、そんな錯覚を覚える。
この先にあるという山脈や塔、今はまだ、そんなものは全く見えてこない。
見渡す限りの地平線。
隠れる場所もない。
夜が来たら、どこでどうやって寝ればいいのだろう。
ヴァンは思わずそう思い至ってレオへと問いかけた。
「あの……レオさん」
「レオが申し上げます。レオはレオサンなどという名ではありません」
レオはそう言って、ぷい! とそっぽを向く。
だがヴァンも、このやりとりには慣れてしまったらしく、おかまいなく話を続ける。
「夜が来たら、どうやって寝るんです? 隠れる場所も無さそうですけど……」
ヴァンのその問いかけに、レオは肩を竦めた。
「レオが申し上げます。夜なんて来ません」
「夜がこない?」
「ここはアナタの知る常識とは、違う常識に支配されている世界です。沈む太陽も無ければ、昇る月もありません。もちろんお腹も空きますし、身体は疲れますから、こまめに休む必要はありますが、眠気を感じることもありません。眠るという概念はこの世界からすっぽりと抜け落ちています」
「じょ、常識が違うって、僕らはこの世界の物でもないのに、どうして……」
「レオが申し上げます。知りませんよ、そんな事。そうだから、そうなのだとしか言い様がありません。実際、あの森に辿り着くまで、レオは一度も眠っていませんし」
「それじゃ、一日の区切りも分からないじゃないですか!」
「それは大丈夫です。一日に一度世界が……」
そこまで口にしたところで、突然、レオがヴァンを押し倒す様に飛びついた。
二人は絡まる様にゴロゴロと地面を転がる。
「ど、どうしたんです、レオさん!」
だが、レオはヴァンの問いかけに答えもせず、起き上がると素早く身構えた。
「レオが申し上げます。……来ます!」
途端に、先ほどまで二人が立っていた辺りを中心に、地面がボコッ! と音を立てて盛り上がり、ガラガラと砕けた岩を撒き散らしながら、巨大な影が身を起こす。
「嘘……でしょ」
呆然とその影を見上げたヴァンの口から、唖然とした呟きが零れ落ちる。
全長十メートルはありそうな巨大な姿。
感情の無い三白眼が、ギロリと二人を睨み、こおおおおおお……という呼吸音が、空気をビリビリと震わせた。
それは、茶色のゴツゴツした鱗を持つ巨大な竜。
幼い頃、頑固ジジイが寝物語に聞かせてくれた物語。
それに登場した魔獣が、今ヴァンの目の前に現れたのだ。
「レオが申し上げます。厄介なのが居ましたね……」
未だ立ち上がれもせずに、腰を落としたままのヴァン。
その隣で身構えているレオがぼそりと呟く。
だが、その言葉には、恐れの響きはない。
強いて言うならその呟きには、少し困ったような、そんな響きが纏わりついていた。
「に、逃げましょう! レオさん!」
「レオが申し上げます。大丈夫です。これはまだ小ぶりなので」
「小ぶり!?」
「ただ……これの相手をしている間に、アナタが他の魔物に襲われると、少し守りにくいですから……」
グギャァアアアアアア!
レオの溜め息混じりの言葉。
その末尾に噛みつく様に、竜が咆哮を上げた。
足に比べて、著しく短い前足で宙を掻く様に立ち上がると、ビタン! と太いしっぽを大地に叩きつけ、ヴァン達の足元に突き上げる様な振動が伝わってくる
「レオが申し上げます。仕方ありません。もし他の魔物が近づいてきたら、大声を出してレオを呼んでください」
レオはそう言い捨てるや否や、ヴァンをその場に残して、一気に駆けだした。
シャツの裾が靡いて、白い腿、足の付け根が露わになる。
彼女は竜の脇をすり抜け、その周りを周回する様に駆け抜ける。
グギャァアアアアアア!
竜は一つ咆哮を挙げると、首を伸ばして目でレオの姿を追った。。
だが、見た目通りに身体そのものは鈍重。
レオの動きには、ついて行けていない。
レオは背後から尻尾へと飛び乗ると、器用にその上を走り、背中に並ぶ背びれへと飛びつく。
竜は首を捩じって、レオの姿を探した。
そして、視界の端にレオの姿を捉え、竜は嫌がる様に身体を震わせて、レオを振り落とそうと必死にもがく。
だが、レオは既に背びれに取り付いているのだ。
末端部でなければ少々身体を振るったところで、振り落とされることもない。
レオは、まるで岩山を登攀するかの様に竜の背中を登り、やがて竜の頭の後ろに辿り着くと、そこに自らの掌を押し当てた。
「第三階梯 『雷撃』ッ!」
その瞬間、
レオの手から放たれた紫電が、竜の頭から顎へと突き抜ける。
小刻みに震える竜の身体。
小さな黒目がぐるんとひっくり返ると、レオはすかさず、龍の頭から飛び降りる。
それと同時に凄まじい音を立てて、竜の身体が横倒しに大地に倒れた。
「す……すごい」
立ちこめる砂煙を手で掻きながら、ヴァンが思わず呻くと、すぐ近くで、レオの声がした。
「レオが申し上げます。すごくなどありません」
見れば土煙の中を、レオがゆっくりとこちらへ向かって歩いてくる。
「この『茶色いの』の類は頻繁に現れますから、もっと手際よくやっていかないといけません。第四階梯雷神の一撃を使えば、何の苦労もなく瞬殺できる相手ですけれど、魔法は節約していかないといけませんので」
不本意だと言わんばかりのレオの口調に、ヴァンは思わず呆然とする。
こんなのが頻繁に現れる?
瞬殺できる相手?
レオがここで生き抜いてきた千日という日々のすさまじさに、ヴァンは、よくもまあ、『救いにきた』などと言えたものだと、昨晩の自分の言葉を思い返して、暗澹たる気持ちになる。
そして、知らず知らずのうちにヴァンは、じっとレオの唇を見つめていた。