第九十二話 帰還への道を求めて
「レオが申し上げます。ここで引き返しても、レオはアナタを責めたりはしません」
「だ……大丈夫です」
ヴァンは眼の前の異常な光景に、思わずゴクリと喉を鳴らした。
彼が落ちてきた、そしてレオと出会ったこの密林の北端。
緑が途切れる場所。
今、二人はそこに立って、向こう側を眺めている。
視界に広がっているのは、燃える様な真っ赤な空、大ぶりな岩が転がる赤土の乾いた大地。
それが地平線の向こうまで、遮るものも無く延々と続いている。
見上げれば、密林上空の青空と、その赤い空が交わる事も無く、まるで定規をあてて線を引いたみたいに、綺麗に分かれていた。
それは自然為らざるもの……明らかに人為的なものの様に思える。
確かに向こう側の赤い世界を長く彷徨って、この緑溢れる森を見つけたならば、レオでなくとも、神に感謝の一つもしたくなることだろう。
「レオが申し上げます。最後にもう一度聞きます。引き返すなら今です。レオはアナタが引き返しても責めたりしません。帰りたくない訳ではありませんが、レオは……神様のいる場所こそ、天国なのだと知っています」
「また神様ですか……レオさん、僕を育ててくれた爺さんが言ってましたよ、神様は頑張った人にしか救いを与えないって」
「レオが申し上げます。頑張らないと救わない……わかりました。アナタが結構ケチなんだという事が分かりました」
何の脈絡も無しにケチ呼ばわりされたことに、ヴァンが思わず困惑する様な顔をすると、レオはクスクスと笑った。
「レオが申し上げます。良いのですか?」
「はい……行きましょう」
二人は微笑みあうと、レオがヴァンの方へと手を伸ばし、二人は互いの指先を絡ませたまま、赤と緑の境界線を踏み越えた。
◆◆◆
時間を少し遡る。
朝、ヴァンは息苦しさを覚えて目を覚ました。
口と鼻が、何かとても柔らかい物で塞がれている。
そう認識した途端、
「うわああああああああ!?」
ヴァンが慌てて身体を起こすと、目の前でレオがにっこり微笑んだ。
レオはヴァンの胸に頭を載せて、寄り添う様に寝付いたはず。
そのはずなのに、今、ヴァンが目を覚ましてみれば、何故かレオがヴァンの下になっていて、彼はレオの胸の間に、顔を突っ込んだ状態で眠っていたのだ。
別に胸が顕になっている訳ではない。
だが、隠れているといっても、たかが薄手のシャツ一枚。
その感触は、余りにもダイレクト過ぎた。
「な、な、な……」
「レオが申し上げます。おはようございます。ア・ナ・タ」
あまりの出来事に飛び退いたヴァンが、レオを指差したまま言葉も発せずにいると、レオが、まるで何事も無かったかのように身を起こす。
「な、なにしてるんですっ!? レオさん!」
「レオが申し上げます。何と言われても困ります。考えてみれば、アナタをレオが下敷きにしているのは、罰当たりなのではないかと思いまして……」
「は?」
レオの言わんとしている事の意味が分からず、ヴァンはポカンと口を開けたまま固まった。
「レオが申し上げます。昨晩は……その……ごめんなさい」
レオが寝藁の上で蹲る様に頭を下げると、ヴァンは更に慌てた。
「い、いや、い、良いんです。レオさんは必死に頑張って来たんですから……ぼ、僕もレオさんの気持ちも考えずに、ただ帰りたいなんて……」
だが、
「でも、乳首も吸いましたし……」
上目遣いで見つめてくるレオのその一言に、ヴァンは真っ赤になって、更に、更に、慌てた。
「ちょ! そこは忘れましょう! っていうか、忘れてください! お願いします!」
「レオが申し上げます。お、お詫びに、レ、レオので良ければ……吸います?」
「すいません!」
「レオが申し上げます。お礼なんてそんな……」
「お礼を言ったんじゃないです! 吸わないって言ったんですっ!」
◆◆◆
朝食は魚の干物。
魚が穫れ過ぎた時に、天日に晒して作っておいたのだという。
「レオが申し上げます。ア・ナ・タ、口元についています」
レオは顎についたヴァンの食べこぼしを、指でつまむと、ぱくりと食べる。
食事の間中、レオは甲斐甲斐しく世話をしようとし、ヴァンは疲れた表情でされるがままになっていた。
「レオが申し上げます。おいしかったですか? ア・ナ・タ」
「は、はい……ごちそうさまでした」
ヴァンの返事に嬉しそうに頷くと、レオはそのまましゃがみ込んで、手にした木の枝で地面に丸を描いた。
「レオが申し上げます。では早速ですが、ここを脱出する方法を探す為に、レオが知っている事をアナタに知っておいていただこうと思います。良いですか?」
それは余りにも唐突。
そして、昨日までの彼女の物言いとは、真逆の言葉だった。
ヴァンは驚いた表情になった後、顔を綻ばせる。
「は、はい、お願いします!」
「では、この丸がこの森だとすると、ここからまっすぐ北に五日ほど歩けば、山岳地帯に入ります。そこから更に二日。レオが最初に落ちた場所は、一番大きな山の中腹です」
そう言って、彼女は描いた丸の、随分上の方に四角を描いた。
おそらく、それはレオが落ちた場所を示しているのだろう。
そして彼女は、その四角から更に上の方へと、まっすぐに線をのばす。
「レオは最初、そこから北に逃げました。北の方には行けども行けども何もありませんでした。そこでレオは、山脈を迂回するようにぐるりと回って南側へ移動し、この森に辿り着きました」
レオは上へと伸ばした線の先から、自分が落ちた場所を示す四角を中心に、左側に半円形を描いて、この森を示す丸へと線を結んだ。
「この、レオが移動した範囲について言えば、本当に何もありませんでした。ただ、東の方に何か高い塔の様な影が見えた場所があります」
「塔ですか?」
「レオが申し上げます。シルエットしか見えませんでしたが、とても高い円筒状のものです。それが見えたのは、この範囲です」
レオが指し示したのは、描いた半円形の下三分の一ほどの場所。
そこから東側という事は、この森とレオが落ちたという場所を結ぶ一本線の間。
もしくは、その更に東。
「レオさんは、その建物へは行かなかったんですか?」
「レオが申し上げます。行けなかった。というのが本当のところです。そちらへ近づくにつれて魔物が強く、数も多くなっていくばかりで、とてもではありませんが無理だと……」
「それは、な、何かありそうです……ね」
レオがこくりと頷く。
「レオが申し上げます。それで、大きく周りこんで近づこうと南へ移動したら、この森を見つけたんです」
「じゃあ、北へ向かえば、その塔とレオさんが最初に落ちた場所の両方があるという事ですね」
ヴァンは顎に指をあてて、考える素振りを見せる。
「ところで、クルスさんが魔剣を使えば、その、レオさんが落ちた場所に必ず口が開くという事なんでしょうか?」
「レオが申し上げます。おそらく……。レオが落ちた辺りには、魔物に食い散らかされた人間の骨や死体がたくさん落ちてました。その多くは、帝国の軍装を纏っておりましたので」
「帝国の軍装……ですか?」
「そうです。あのビッチ……人喰いクルスは、前々回の帝国の侵攻の際、一人で敵の部隊を殲滅したと聞いています。おそらくその時に人食いに喰われた兵士のなれの果てではないかと……」
「じゃあ、クルスさんが魔剣を使うまで、そこで待てば……」
「レオが申し上げます。確かにそうですが、餌が落ちてくる場所ですから、多くの魔物が屯しています。それに、いつ、あの人喰いが魔剣を使うのかも分からければ、使ったとしても、数分と立たずに閉じてしまいます」
「そう……ですか」
ヴァンは記憶を辿る。
確か、クルスはシュゼットと一緒に、国立士官学校に向かったと誰かが言っていた。
国立士官学校がどんな所かは分からないが、想像する限り魔剣を振るう様な場面は無さそうに思える。
仮にクルスが数日以内に魔剣を使ったとしても、時間の流れの違いを考えれば、こちらの時間では、何年も後ということになる。
だとすれば、それは除外するしかない。
ヴァンは、今すぐにでも戻りたいのだ。
何の手掛かりもない話だが他に何も無いなら、レオが見たという『塔』を当たるより他に道は無い。
リュシールは、悪魔が溢れ出たと言っていた。
ならば、この煉獄のどこかに、その溢れ出た場所がある筈なのだ。
その『塔』が、その悪魔が溢れ出た場所である事を祈るより他にない。
「レオさん……塔を目指しましょう」
「レオが申し上げます。それが神の思し召しならば」
ヴァンが真剣な表情を向けると、レオは静かに微笑んで、そう答えた。