第九十一話 レオの神様
勢いよく押し倒されて、宙に舞い上がった藁くずが、静かに二人の上へと降り注ぐ。
屋根の隙間から、微かに零れ落ちてくる月明かり、星明り。
それを背景に、ヴァンは自分の身体の上へと、圧し掛かってくる女の姿を見た。
薄闇の中、影になった顔に、形の良い鼻梁のシルエット。
その両側に、怪しい光を爛々と湛えた瞳が浮かび上がる。
寝藁の上へと力づくで両手首を押さえつけられて、ヴァンはただ戸惑いながら、彼女を見上げて口を開いた。
「お、落ち着いてください。おかしいですよ、こんなのっ!」
「レオは申し上げます。……おかしい?」
「ぼ、僕らは今日出会ったばかりじゃないですか!」
レオの喉からククッとくぐもった笑い声が洩れて、暗闇の中で彼女の口が赤い三日月を描く。
「レオは申し上げます。そう、おかしいですとも! 男と肌を合わせた事もない、このレオがこうやって、アナタを力づくで押し倒しているのです。おかしくない訳がありません」
「だったら……」
「おかしくならない方がおかしいのです! こんなところで! 誰からも忘れ去られて! 誰も知らない内に、たった一人で朽ちていく。その恐ろしさが分かりますか、アナタに! 私だって、帰る方法をどれだけ探したと思っているんです。それをアナタは! 口を開けば帰りたい、帰りたいと!」
「で、でも、二人なら、きっと……」
「変わりません! 何が変わるというのです! そう、か弱い男のアナタに何が出来るというのです! アナタはここでレオを頼って、レオに守られて、レオの慰みとして、生きていくしかないんです!」
レオは声を荒げてそう言うと、頬を擦り付ける様にして、ヴァンの上着の襟を咥え、獲物の肉を食いちぎるハイエナの様に、それを荒々しく払いのける。
シャツを渡してしまった所為で、ヴァンの上着の下は素肌。
胸の上に、生暖かい息がかかる。
レオは赤ん坊の小指ほどしかないヴァンの胸の突起に舌を這わせると、ちゅうと音を立てて、それを口に含んだ。
「ッ!?」
ぞわりとした感触がヴァンの背中を駆け抜けて、彼はビクリと腰を浮かせて身を反らした。
「や、やめてください……レオさん」
ヴァンのその懇願する様な呟きに、レオは更に息を荒げながら、彼の胸へと吸い付く。
彼女は僅かに硬さを増したそれを、舌で繰り返し嬲った後、勝ち誇る様な顔をして、ヴァンを眺めた。
「レオが申し上げます。アナタを見つけた時には神様に感謝しました」
「ま、また、神様です……か」
「うふふっ……教会の孤児院で育てば、誰だって信心深くなります」
ヴァンが荒い息の下で、呆れた様な声を出すと、レオは鼻先でそれを嘲笑う。
そして彼女は舌先を固くして、胸骨の上をつーっと下から上へと舐め上げると、ヴァンの鼻先に自らの鼻をくっつける様にして、彼の目の中を覗き込んだ。
「レオが申し上げます。アナタを見つけたときには、こんな寂しい場所で死んでいくレオを慰める為に、神様が贈り物をくださったのだと、独りは可哀そうだと思ってくださったのだと、胸が震えました」
その言葉を聞いた途端、ヴァンの心臓が大きく跳ねた。
カッと顔が熱くなって、こめかみ当たりで何かがはじけ飛ぶのを感じた。
荒々しい感情が冷静な思考を押し流していく。
頭に血が上っていくのを感じる。
ああ、僕は今とても怒っている。
押し流されていく冷静な思考が、最後にそう呟いて消滅する。
ヴァンに掛けられたあの制約も、ここまでは届かないのかもしれない。
いつもなら耳元で囁き始める声が、聞こえてこない。
激しい感情を打ち消す声も、なりを潜めている。
そして、胸の内で渦を巻くどす黒い不快感が、そのまま声と共に口から押し出された。
「つまんないヤツですね、その神様ってのは」
彼らしくもない吐き捨てる様なその言葉に、レオは思わず目を見開く。
「レオが申し上げます。神様を冒涜するのですか? アナタは!」
「うるさい!」
ヴァンは、レオの額に自らの額を突きつけながら身を起こして、彼女の怒りを湛えた瞳を睨みつけた。
「僕が神様なら……もし誰かを送り込むなら……。レオ! それはあなたを救い出すために決まってる! 神様を冒涜してるのはあなたの方です。レオ!」
レオは大きく眼を見開いて固まると、やがて、戸惑う様に目を逸らし、ヴァンの手を離して、自らの身を掻き抱く。
「で、でもアナタじゃ……。魔法も使えない様な男の人じゃ……。な、何も出来ないじゃありませんか。この森を出たが最後、化け物に食い殺されてそれで終わり。せいぜいレオが逃げるための囮にしかなりません」
ヴァンはレオの首へと手を回し、彼女の頭をそっと自分の胸へと抱き寄せる。
「レオさん……実は以前、僕はアナタに会っています」
「……え?」
「レオさんにとっては随分前の話なのでしょうが……カントの村で」
その瞬間、ヴァンの腕の中で、レオの身体がビクンと跳ねた。
「シュ……シュヴァリエ・デ・レーヴル様の名を語る偽物!」
ヴァンの腕を振り払おうともがくレオを押さえつけて、ヴァンは苦笑する。
「語った事はありませんし、僕もそんな筈はないと思ってたんですけど……どうやら、僕は本当に、そのシュヴァリエ・デ・レーヴルって人が転生した人間らしいです」
「レオが申し上げます。そ、そんなことを信じろと!」
この国で奉じられる神、大聖堂に祀られるそれは、まさにシュヴァリエ・デ・レーヴルに他ならない。
ヴァンのその言葉は、レオにとって、神自らが自分を救うために降りてきた。
そう言ったも同然なのだ。
信じられる訳がない。
「僕がシュヴァリエ・デ・レーヴルなんて人かどうかは、どうでも良いんです。大事なのは、僕が魔法を使えるということ。そして僕が戻って救おうとしている中に、レオさんの大切なひと。サハさんとエリザベスさんがいるという事なんです」
その瞬間、レオは大きく目を見開いてヴァンをみつめる。
「そ、それは、一体、な、何が起こっているのです」
「僕達、第十三小隊は今、サハさん、エリザベスさんと一緒に戦っています」
レオは思わず息を呑む。
「僕がここに落ちてきたのは偶然です。あなたを救うために落ちてきた訳じゃありません。でも、もし、本当に神様というのが居るのなら……僕をここに落としたのは、アナタを救う為なんだと思います」
「あ……」
レオの口から呻きの様な小さな吐息が洩れて、次の瞬間、星明りに照らされた彼女の頬を一滴の光が落ちる。
「レオさん、アナタは今まで良く頑張りました。もう……一人で頑張らなくてもいいんです」
その瞬間、レオはヴァンの胸に縋りつき、声を上げて泣き崩れた。
◆◆◆
「レオ、分かってるよね?」
「うん、大丈夫、ちゃんとできるもん」
白く靄の掛かったような景色。
夕闇の中に幼い双子の姿が見えた。
レオは、意識の片隅で考える。
この風景には見覚えがある。
ミュラー公爵領、屋敷の裏手の訓練場のはずだ。
訓練を終えた孤児達が、緊張の面持ちで整列している。
彼女達の訓練を引き受けている家宰のマルタンは、厳しくてイヤなヤツ。
そのマルタンに先導されるように、一人の女性が孤児たち一人ひとりの前に屈んで、順番に話掛けている。
ジョセフィーヌ様。
暗殺者に仕立てあげるべく孤児を掻き集めたミュラー公爵は、先日亡くなった。
今はこのジョセフィーヌ様が、新しいミュラー公爵になったと聞いている。
レオはジョセフィーヌが大好きだった。
理由は簡単、優しいからだ。
時々、訓練場に視察に来て、一人ひとりの名を覚えて、優しい言葉を掛けてくれる。
時にはお菓子をくれたりもする。
だが、彼女は時々レオとサハを呼び間違えて、申し訳なさそうな顔をする事があった。
レオはそれが、イヤだった。
呼び間違えられる事がではない。
大好きなジョセフィーヌに、そんな顔をさせるのがイヤなのだ。
だからサハと二人、一生懸命、どうしたらいいかを考えた。
幼いなりに考えたのだ。
今日もジョセフィーヌが訓練場に姿を見せた。
孤児たちは並んで、期待に満ちた顔で話しかけられるのを待っている。
彼女の後ろにいる侍女が、トレー一杯のお菓子を手にしているのだ。
順番に話しかけ、頭を撫で、お菓子を手渡す。
喜ぶ孤児たちに、ジョセフィーヌは顔を綻ばせる。
そして、次はレオの番。
ジョセフィーヌが前に立つと、レオは慌てて口を開いた。
「レオが申し上げます。ジョセフィーヌ様!」
慌てて隣のサハが口を開く
「サハが申し上げます。こ、こんにちは!」
名前を呼ばれる前に、自分から名乗ってしまえば、間違えようがない。
ジョセフィーヌは一瞬驚いた様な顔をした後、二人の考えている事に思い至ったのだろう。
ニコリと笑って、「こんにちは、レオ、こんにちはサハ」と二人の頭を嬉しそうに撫でてくれた。
徐々にその景色が白みがかって、レオの視界がオレンジ色に染まっていく。
それは陽の光に透けた瞼の裏の色。
――帰れるかもしれないよ、サハ。
ゆっくりと目を開けると、屋根の隙間から差し込んでくる光が眩しくて、レオは再び目を閉じる。
寝息と共に、頬の下で上下する温かい感触。
それに気が付いて昨日何があったのかを思い出し、レオは思わず顔を綻ばせる。
――レオの神様。
長く感じたことの無い安らぎの中で、レオは再び眠りに落ちて行った。