第八十九話 運命ですか? 愛ですか?
「レオが申し上げます。お目覚めですか?」
隙間だらけの屋根から差し込んだ陽光が、外の木々が風に揺らぐのに合わせて地面で躍る。
苔むした木を組み合わせただけの簡素な小屋の中で、ヴァンは現れた女性を前に、ただ戸惑っていた。
ヴァンが返事も出来ずにいると、
「レオが申し上げます。もしもーし起きていますか? レオはそう聞いています」
ヴァンの戸惑いを気にする様子もなく、彼女は手にしていた歪な形の籠をテーブルの上へと置くと、つかつかと彼のもとへと歩み寄り、鼻先が触れそうなほどに、顔を突きつけてきた。
「あ……えーと、はい、お、起きてます」
彼が僅かに身を逸らせて後退りながら、引き攣った笑顔を浮かべると、彼女はニッと白い歯を見せて笑った。
「レオが申し上げます。良かったです。死なれたら、また独りぼっちになってしまうところでした」
そう言いながら、寝藁の上、彼女は身体を捻じ込む様にして、ヴァンの隣に腰を下ろす。
ヴァンは、なにもそんなにくっ付かなくてもと思ったが、よくよく考えてみれば、下は床らしい床もないむき出しの地面。
座る場所といえば、実際この寝藁の上ぐらいしかないのだ。
密着するような形になって、身体の右側に人の温もりを感じると、意図せずに心臓が高鳴る。
よくよく考えてみれば、彼女は胸と腰回りに布を巻いただけの肌も露な恰好なのだ。
ヴァンは戸惑いのままに、
――ここはどこですか?
そう尋ねかけたところで、それを尋ねることの愚かさに思い至って、そのまま口籠った。
リュシールの言葉通りなら、ここは悪魔の住まう場所――煉獄であるはずだ。
何かを言い掛けて止めたヴァンを、不思議そうな顔で眺めながら、レオが口を開いた。
「レオが申し上げます。あなたはこの小屋の前で倒れていました。一体、あなたはどこから来たのです?」
「……大聖堂です……王都の」
どこからと問われて、ヴァンは何と答えるべきかと迷った末に、すぐ直前まで居た場所を答えた。
だが、その答えにレオはぱあっと表情を明るくする。
「レオが申し上げます。大聖堂……それで分かりました!」
「な。何がです?」
「レオが申し上げます。神様が、憐れなこのレオの願いを聞き届けてくださったのです」
「はい?」
「レオが申し上げます。この世界に落ちて、長い長い地獄の日々を送る中で、レオはずうううっと願い続けておりました。独りはイヤだと……」
「長いって……三日ぐらいじゃ……」
「三日? 何の話です? レオが申し上げます。レオがここに来てから、すでに千日以上経っています。千日までは数えましたが、そこで数えるのを止めてしまいましたから、正確には分かりませんけれど、と」
ヴァンは思わず目を見開いて、レオの顔を見つめる。
彼女は千日以上もこちらの世界にいる、そう言っているのだ。
だが、ヴァンが最後に彼女を見たのが三日前。
この世界は元の世界とは、ずいぶん時間の流れ方が違うのかもしれない。
カントの村で遭遇した時には、それほどはっきり彼女の容姿を見た訳ではない。
だが、大聖堂でベベットの影から出てきた彼女の双子の姉妹であるサハ。レオは彼女よりも随分、年上に見えた。
「レオが申し上げます。そんなに見つめられたら照れてしまいます」
「あ、いや! ご、ご、ご、ごめんなさい!」
あたふたと宙を掻くヴァンの姿に、レオはくすくすと笑った。
「レオが申し上げます。冗談です。人と話をするのが、随分久しぶりなもので、楽しくなってつい揶揄ってしまいました」
カントの村で対峙した時には、敵同士だったのだから分からなくて当然だが、くるくると変わる彼女の表情は、とても優しそうに見えた。
考えてみれば、ヴァンは彼女がカントでどうなったのかを良く知らない。
カントを脱出した後で、クルスが彼女を倒した。
そう聞いただけだ。
「レオが申し上げます。ところであなた、どこかで会ったことがあるような気がするのですが……気のせいですか?」
思わずビクリと身体を跳ねさせて硬直するヴァンを、不思議そうな顔で眺め、レオは手を伸ばして、彼の長く伸びた前髪を掻き上げる。
「レオが申し上げます。女の子みたいな顔……やはりどこかで会った事がある様な……」
「……き、気のせいだと思います」
彼女と遭遇した時、ヴァンは女装をしていたのだ。
だが、彼女にとっては千日……三年近く前の話だ。
自分から言いださない限り気付かれる事は無いだろう。
敵同士であったことを告げて、こんな場所で彼女と敵対する訳にはいかない。
「そうですか……。レオが申し上げます。過去に出会っていて再会したということなら、なにやら運命的な感じがするので、嬉しかったのですが……と」
彼女の言わんとしている事の意味は、さっぱり分からない。
だが、冷静になってみれば、こんなことをしている場合ではない。
今もエステル達が危険な目に遭っているのだ。
時間の流れが遅いというのは幸いだった。
すぐに戻れば、あの眼の中に落ちた直後に戻れる筈だ。
「レオさん、ぼ、僕は出来るだけ早く大聖堂に戻りたいんです。どうやったら戻れますか?」
ヴァンが彼女の肩を掴んで揺さぶる様に問いかけると、レオは一瞬、ぽかんと口を開けた後、彼の手を払いのけ、寂しそうに肩を竦める。
「レオが申し上げます。それを聞きたいのはこっちの方です……と」
彼女は千日以上もこちらの世界にいる、そう言っていた。
それはまさに千日以上も帰る方法を探し続けていたという事に他ならないのだ。
思わず項垂れるヴァンの顔を、レオが不安げな顔をして覗き込む。
「レオが申し上げます。わざわざレオの顔を見詰めて、早く帰りたいというからには、こんな小汚い女とは一緒には居たくないという事ですね、そうですか、そうですか…………死のう」
彼女はそのまま背景に可視化できそうな程の、どんよりとした雲を背負って、がくりと肩を落とした。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ってください! そ、そんなこと思ってないですから! レオさん! 違いますから」
疑わしい物を見る様な目でヴァンを眺めて、レオは拗ねた様に口を尖らせる。
「レオが申し上げます。……本当に汚いと思っていませんか?」
「ほ、本当です。思ってません。ぼ、僕も男ですから、か、かわいい女の人と話すのが嫌なはず、あ、ありませんから」
ここで戸惑いもなく『かわいい』などという単語が出てくるのは、日ごろさんざん言わされているからである。
誰にとは言わないが。
だが、その効果はあまりにも覿面であった。
レオはピキッと硬直したかと思うと、首筋まで朱を注いだように真っ赤になって、身を捩った。
「レオが申し上げます。か、かわいいと思っていただけるなら、それに越したことはありません。どちらにしろ、この世界には、たぶん他に人間は居ないのですから……よ、寄り添って生きていくしかないのですから……」
そして、どぎまぎするような挙動不審な態度で、ヴァンへと問いかけた。
「レオが申し上げます。一つだけ教えてください。あなた、先ほどから私の事をレオさんと呼んでいましたが……。名乗ってもいないのに、ど、どうして私の名前が分かったのですか? 運命ですか? 愛ですか?」
ヴァンはどう答えて良い物か分からなかったが……。
とりあえず、彼女の正気を疑うことにした。