第八十四話 少女の股間
ぐすっ、ぐすん……。
エリザベスは、腫れぼったい瞼を擦って、しゃくり上げる。
鼻の周りは真っ赤。
眼は、もっと赤い。
それこそ兎の様に真っ赤。
号泣である。
既にニ十分あまり、泣きっぱなしである。
『高速悪魔』との戦闘で、随分、血を失っているのに、そんなに水分を浪費して大丈夫なのか?
思わず、そう気を揉んでしまうほどの号泣である。
「よく泣きますこと。あなた……それでよく暗殺者なんか、やってこられましたわね」
膝枕を与えるロズリーヌが、真上から顔を覗き込んで、溜息混じりに問い掛けると、
「だってぇ……」
エリザベスが、再び、くしゃっと顔を歪ませ、泣き出しそうになる。
「わかりました、わかりましたから。とにかく泣き止んでくださいまし」
ロズリーヌが呆れる様に視線を泳がせると、祭壇にもたれ掛ったままのベベットと目があって、二人は思わず苦笑した。
「あ、あのさ……」
「なんですの?」
「…………ありがと」
恥ずかしそうに俯くエリザベスに、ロズリーヌは緩みそうになる口元を引き結んで、プイとそっぽを向く。
「お、お礼を仰るにはまだ早いですわよ。このままお母さまを殺した罪を被せられたままじゃ、マルゴにだって帰れませんもの。それに、外は何やら騒々しいですし……」
「そ、そうよね……じゃあ、これからどうするつもりなのよ」
「どうするもなにも。ここで魔力の回復を待つしかありませんわ。アナタはその有様ですし、ワタクシも魔力はすっからかん。ベベットさんも『暗い部屋』を展開するのが精一杯。なにより『暗い部屋』の定員は三名ですもの。あのメイドを入れれば、一人あぶれることになりますわ」
あらためて口に出してみて、そのどうしようも無さに、エリザベスの口からとぐろを巻きそうな程、長い溜め息が零れ落ちた。
文字通り万事休す。
何とか皆と合流したいところですけど……。
そう思った途端、ロズリーヌの胸の内を不安がよぎる。
あの戦闘音は、ブルージュ男爵の屋敷の方からでは、無かっただろうか?
彼は無事なのだろうか?
ミュラー公の地位を妹に奪われる。
今となっては、そんなことはどうでも良くなっていた。
ただ、彼が今、この場にいない。
それだけが、辛かった。
母の死を目の当たりにし、メイドとの戦闘を経て疲れているという事もあるのだろう。
まるで、救いを求める様に
「ヴァンさま……」
ロズリーヌの口から少年の名が零れ落ちたその瞬間。
唐突に、余りにも唐突に、
大の字に横たわるエリザベスのスカート。
その股間が、ボコッ! といきなり大きく盛り上がった。
ロズリーヌとベベット、それに当のエリザベス。
これには三人揃って、眼球も飛び出さんばかりに目を剥いた。
言葉にし難い空気が、三人の間に舞い降りる。
それはそうだろう。
いきなり少女の股間が盛り上がったら、誰だってびっくりする。
「な!? 何を興奮して、お、お、おっ立ててるんですのよ! このバカ犬!」
「おっ立ててって! つ、ついてないわよ! そんなの!」
ロズリーヌが顔を赤らめて喚きたてると、エリザベスは慌てて膝枕から身を起こし、スカートをたくし上げる。
スカートの下を覗き込んだエリザベスは、覗き込んだ姿勢そのままに硬直した。
そこにあったのは、人の頭。
むっちりとした腿の間で目を白黒させているのは、どこか見覚えのある少年。
その少年は、エリザベスと目があった途端、盛大に冷や汗を流しながら、こう言った。
「……ど、どうも」
「どうも……じゃない」
ベベットが冷静にツッコむ。
次の瞬間、
「いやああああああああああああああああああああああああっ!」
エリザベスの悲鳴が、大聖堂の中を盛大に響き渡った。
◆◆◆
「で、どうすんだよ。マルゴに戻るのか?」
「なにより、ジグムント要塞の勢力を何とかすべきではないかと……」
クルスとアネモネに左右から詰め寄られて、シュゼットは思わず眉間に皺を集める。
その様子を眺めていたセネリエが、まるで助け船を出すかのように言った。
「お待ちよ。まず状況を整理しようじゃないのさ。学生ばかりだけれど『翼』の魔女を繰り出して、十分に情報は集めてある」
「……情報ですか?」
「そうさ。ちゃんと本質を見極めれば、するべきことは自然と見えてくる。決して良い譬えじゃないけれど、今、この国でこのゲームの盤面を見渡せる場所にいるのは多分、私達だけさね」
「そう、そうですね」
シュゼットが頷くと、セネリエは片目だけを見開いて言った。
「アネモネ! 現状分かっていることを言ってみな」
「は、はい! まず王都は、原理主義者達に囲まれています。数は正確には分かりませんが……」
「ふむ、まあ万は下るまいさ」
「先生。先ほど先生は、彼らを動かしたのは『大義名分と趨勢』そう仰られましたが、趨勢はともかく、大義名分とは……?」
シュゼットのその問いかけにセネリエは、呆れた様な口調で応じる。
「言っただろうさ? シュヴァリエ・デ・レーヴルの再来が三大貴族に攻撃されているから、それを守る。それが彼らの大義名分さね」
「つまり、ヴァンが今、三大貴族に攻撃されているということですか?」
「そうさ、ミュラー公の私兵が、ブルージュ男爵の屋敷を取り囲んでる。今は双方の私兵同士でぶつかり合ってるようさね」
「なんですって!?」
思わず、顔を蒼ざめさせるシュゼットを見据えて、セネリエが口を開く。
「慌てるんじゃない。戦況はブルージュ男爵が圧倒しているさね。ミュラー公の私兵は屋敷の中どころか、門の内側にすら侵入できていないさ。さっき報告を受けた段階じゃ、ミュラー公の私兵は敗走寸前だったさね」
「ブルージュ男爵の私兵が強いなんて話、聞いたことねぇぞ?」
「兵が強いわけじゃないさ。ブルージュ男爵は、ミュラー公の私兵が屋敷を取り囲むのを見越して、周辺の建物に兵を伏せさせてたのさ。そこでさ、アネモネ! この状況のおかしなところを挙げてみな」
「イエス! マム! なぜ、ミュラー公が王都の街中で兵を動かしたか? これは例え三大貴族であろうと、女王陛下の勅命か、十分な大義名分が無ければ、処罰は免れないことです。そして、ブルージュ男爵は、なぜミュラー公が兵を動かすのを事前に分かっていたか? 王都を取り囲む原理主義者を動かしたのはブルージュ男爵だろうとは思うのですが……」
「うんうん、上出来さね。じゃあシュゼット! この状況を紐解けば、どんな本質が見えてくる?」
シュゼットは顎に指を当てて、考え込む。
「ミュラー公がブルージュ男爵の罠に嵌められた。そう考えるのが妥当でしょう。ミュラー公に襲わせて、シュヴァリエ・デ・レーヴル様の再来を守るという大義名分を得る為に」
だが、そこでクルスが割り込んでくる。
「いや、待て、待て、待て! シュゼット、そんなのおかしいだろう。ブルージュ男爵は、あの坊主が女王から王権を移譲されることを疑っても居なかったぞ。坊主の後ろ盾として、地位を得るならそれで充分。それが今更、王都を焼け野原にしかねないような戦乱を引き起こす意味がねえ」
クルスのその言葉に、セネリエが意外そうな顔をした。
「まあ多少は苦労の一つもしたみたいさね、問題児。アンタのいう通りさ。ブルージュ男爵が、積極的にこの状況を起こしたとは、どうにも考えにくい。なにかもっと大きなメリットを提示されたか、ただミュラー公の兵が取り囲むであろうことを事前に教えられて、利用されてるだけ。そう捉えた方がしっくりとくるさね」
「利用されている? それは他に黒幕がいる……そういうことですか?」
アネモネが首を傾げる。
「そうとしか考えようがないだろうさ。三大貴族と原理主義者達を、相争わせたいヤツがいる。そう考えるべきさね」
「何のためにそんなことを……」
「さあね。目的はわからない。単純に愉快犯なのかもしれないし、王都を焼け野原にしたい、そう思っているのかもしれないさね」
セネリエのその言葉に、シュゼットの頭をかすめた人物がいる。
「先生、一人……思い当たる人物がおります」
そう口に出してみて、シュゼットは思考を巡らせる。
この国に復讐を遂げようとする彼女なら、次はどんな手を打つだろうか?
この戦乱を、長く引き伸ばせば、引き伸ばすほどに、この国は滅茶苦茶になるだろう。
まさに彼女の希望どうり。
疲弊しきったところで、帝国を手引きする。
それで、この国は亡びる。
彼女がそう目論んだとして、その障害になりうるのはただ一人。
三大貴族と和解してみせる。
原理主義者に戦闘終了を呼び掛ける。
どんな方法であったとしても、この戦闘に強制的に幕をひくことが出来る人間はただ一人。
――ヴァンだ。
「先生! 戦闘用の車両を一台お貸しください! 我々はこれから王都に突入します!」
シュゼットは、思いつめた表情で声を上げる。
自分がリュシールならどうする。
決まっている。
ヴァンを、このゲームの盤面から排除する。