第八十二話 地味とか言っちゃダメだ、地味とか。
「ヴァン……私、汚されちゃったよ……」
「そ、そんなこと、あ、ありませんから! エ、エステルさんは綺麗ですから!」
光の消え失せた瞳。
膝を抱えて座りこむエステルを、ヴァンが必死で慰めている。
「あはは、エステルってば、どうしちゃったのさ?」
その直ぐ脇で、ノエルが首を傾げる。
本気で分かっていなさそうなノエルの様子に、ミーロは思わず顔を引き攣らせた。
「じゃ、じゃあ、キスで上書きしてよ。汚れてないって証拠みせてよ」
必死の表情で訴えてくるエステルに、ヴァンは思わず困惑の表情を浮かべる。
無論、エステルとキスしたくない訳では無い。
むしろしたい。
いつでもしたい。
だが、今、それをしてしまったら、せっかく宿した新しい魔法が、エステルの『火炎』系統の魔法で上書きされてしまう。
「いや……それは……ちょっと」
「ふぇええ、ヴァンにキスしたくないって言われたぁ!」
まるで幼児のような声を上げて、エステルが喚き始めたその瞬間、
「とっとと立ち直れ、アホ少尉!」
苛立ちを隠そうともせず、ザザがエステルを怒鳴りつけた。
「高速悪魔が近づいてる! ヴァンくんは、今、炎の魔法は使えないんだぞ!」
もはや、どっちが上官なんだか分からない有様である。
「分かったわよ! 撃てばいいんでしょ! 撃てば!」
エステルは、ブスッと頬を膨らませて立ち上がると、投げやりな態度で、足音の近づいてきている方へと魔法を放った。
「フン! 火炎幕」
再び通路一杯に炎が溢れ出すと、それに追い立てられる様に獣の足音が遠ざかっていく。
ザザは小さく肩を竦めると、そのままヴァンに歩み寄って問いかけた。
「で、結局、どんな魔法なんだ。その『黒く塗れ』というのは?」
「は、はい! 光を奪う……ま、魔法です」
「光を奪う? 真っ暗になるということか?」
「いえ、真っ黒になるんです」
「いや……すまん、何を言ってるのか、よくわからない。相手の視野を奪って見えなくするという事では無いのか?」
「いえ、見えてるんですけど、全部黒く見えるだけです」
ザザは思わず眉を顰める。
「……なんだかわからんが、相手は私達を認識できなくなる。そういうことで良いのか?」
「えっと、ぼ、僕達のことは見える様にしようかなと……」
――さっぱり分からない……。
ザザの口元がへの字に曲がると、ヴァンは慌てて声を上げる。
「と、とにかく、や、やってみます。み、見なさん、ぼ、僕の周りに集まってください。エ、エステルさん、次に相手が来た時には、『火炎幕』は撃たなくても大丈夫です。ノエルさん! あ、相手の姿が見えるタイミングが来ます。その時に仕留めてください」
「あはは! がってーん!」
よくわからないままに、全員がヴァンの周りに集まって、緊張の面持ちで周囲を見回す。
「ノエルさん! もっと明るくできませんか? 出来れば遠くの方まで見える様に」
「あはは、じゃあ、もうちょっと頑張ってみようかな」
途端に、ノエルの頭が更に眩い光を放つ。
あまりにもシュールな光景。
ただでさえ明るい金髪が、白色透明に見えた。
だが、面白がっている様な場合ではない。
炎に追いやられていった獣の足音が、再び遠くの方から近づいてくる。
緊張の面持ちで、それぞれ、通路の両側へと目を凝らし、耳を澄ます。
すると、左右、どちらの方からも足音が聞こえてくる。
左右それぞれ、十メートルほど先、そこでタッと小さな足音が鳴った。
ここが限界。
『高速悪魔』の足なら、あと一回ステップを踏めば、攻撃が届く、そんな距離。
『高速悪魔』が、襲い掛かってくる最後のステップを踏む、その一歩手前。
そのタイミングでヴァンは、声を上げた。
「対象は範囲! 自分とその周囲半径一メートルを除外! 『黒く塗れ』!」
途端に、通路の左右で「ぎゃん!」という獣の悲鳴が聞こえた。
襲い掛かる為の最後のステップ。
それを踏むために、側面の壁へと跳んだ『高速悪魔』が、そのまま壁へと激突したのだ。
「今です! ノエルさん!」
ノエルは、両腕を大きく左右に広げ、首を降って両方の位置を確認すると、その指先を落下していく獣へと突きつけた。
「光速指弾ッ!」
両手の指先で閃光が走る。
同時に放ったにも拘わらず、光の矢は寸分違わず獣の後頭部を貫いた。
――『黒く塗れ』
どんな生物も、物から反射してきた光の色を、その物の色として見ている。
例えば空は、青い波長の光を反射するから青に見えるのだ。
この魔法は魔法の効果範囲のすべての物が、光を吸収し反射しなくなる魔法。
つまり、全てが真っ黒になる魔法だ。
効果範囲外にあるヴァン達の姿が何の変化もなく見えるだけに、獣達は自分達の周囲の変化に気が付かなかった。
壁の位置が分からなくなり、そして自ら壁に激突したのだ。
「……な、何が起こったのでありますか?」
「と、とにかくヴァンがなんかしたのよね……?」
ミーロとエステルが微妙な顔をして顔を見合わせる。
それも仕方がない。
彼女達の目にはただ、獣が勝手に自滅した様にしか見えなかったのだ。
どうにも微妙な空気の漂うなかで、ノエルがどこか戸惑う様に笑った。
「あはは……は、な、なんか地味……だね」
「地味とか言ってやるな。倒せたんだからいいじゃないか」
ザザが窘める様にそういうと、
「だってさ、今までヴァン君の魔法ってさ、ズガーンとか、ドカーンって感じだったのにさ……なに? このすっきりしない感じ」
「お前は撃ってすっきりしたんじゃないのか? それにズガーンとかドカーンってやったら、私達みんな生き埋めになるぞ。たとえ地味だと思っても、地味とか言っちゃダメだ、地味とか」
ザザさんが一番言ってます。
ヴァンは、胸の内でそう呟いて苦笑する。
そんなヴァンの首に抱きつく様に手を掛けて、エステルが囁きかけた。
「も、もう終わったのよね」
「た……たぶん、今の二匹だけだと思いますけど……」
「じゃ、じゃあヴァン。はい、ちゅー」
そう言って、唇を突き出すエステル。
ノエルとのキスがそんなに嫌だったのかと思うほどに、いつもにもまして、エステルが積極的に迫ってくる。
だが、ザザが二人の顔の間に、スッと掌を差し入れた。
「まてまてまて。発情期か、お前は! この先、まだ同じのがいないとは限らないんだぞ。しばらくは『黒く塗れ』の魔法を保持してもらわないと困る」
「ええー!」
「し、仕方ないですよ。エステルさん」
「むうーーー」
ぷくっと頬を膨らませるエステルを放置して、ザザが他の面々を振り返る
「じゃあ進もう」
いつの間にやら、ザザが先導する形になっている。
どうにもここしばらく、エステルのポンコツ化が著しい。
自身の上官のその様子に、
――やはり色恋沙汰など、碌なものではないな。
ザザは独り、胸の内でそう呟いた。
結論から言えば、以後、『高速悪魔』に出会う事は無かった。
更に三キロ近くも地下道を歩いていくと、やがて通路は途切れ、下水だけがパイプ状の水路で、壁の向こう側へと流れ込んでいる場所に出た。
行き止まりの壁面には鉄製の梯子が天井に向かって伸びている。
ザザは梯子に手を掛けて強度を確かめると、振り向いて口を開いた。
「ここから上がれそうだな、たぶんこの上が大聖堂の筈だ」
見上げてみても、梯子の伸びる先は暗くて良く見えない。
「ともかく、登ってみるしかないな。ヴァンくん、君が最初に上り給え」
「は、はい」
「あのさ、ボクかエステルが最初の方が良くない? 敵が待ち受けてたりするんじゃないの?」
ノエルが珍しく真面な事を言うと、ザザが首を振る。
「スカートの中を、ヴァン君に覗かれても良いならな」
「え? ああ、なんだ、そんなことか。ボクは別にかまわないよ?」
「ぼ、僕が最初に上ります!」
ノエルのその一言で、ヴァンは慌てて梯子を登り始める。
そして、上り続けていくと、やがて行き止まりに行き当たった。
頭上の壁を撫でてみれば、指先に僅かに木目の感触。
どうやら木の板の様なもので塞がれているらしい。
掌を当てて、軽く力を込めると少し浮き上がる様な感触があった。
「ヴァン君! どうだ?」
「は、はい。いけそうです」
ヴァンの次に上ってきているザザにそう答えると、彼はぐっと力を込めて、その板を押し上げる。
そして、その向こう側へと顔を覗かせた。