第七十九話 挟撃
「第三階梯! 火炎幕!」
声を上げながら、ヴァンは額の汗を拭った。
赤い炎が石畳を焦がし、汚水を気化させて、大量の湯気を発生させ、茹だる様な、息苦しい暑さが地下道に居座る。
少年と四人の少女達は狭い地下道を、炎の後を追って走り続けていた。
既に十分以上も走り続けているが、未だに敵が倒れた手ごたえは無い。
実際ブーツが石畳を蹴る硬い音の間に、時折、獣の足音が混じり、それが近づいたり、遠ざかったりするのが聞こえる。
エステルは焦っていた。
せいぜい数百メートルも走れば、行き止まりに突き当たる筈。
そう思っていたのだが、一向に通路は途切れない。
「第三階梯! 火炎幕ッ!」
エステルのその声にも、徐々に疲れの色が表れ始めていた。
「あぢぃ……よぉ」
ノエルが、犬の様に舌を伸ばしながら、シャツのボタンをはずし始め、水色のブラが白い胸元で顔を覗かせる。
見れば、どこに放り出したものか、彼女は既に上着を着ていない
だが、ノエルのその行動も仕方がないと言ってしまえば、それまで、実際、通路には溢れんばかりに蒸気が立ちこめて、サウナもかくやという熱に包まれている。
「ノ……ノエル准尉、はしたないでありますよ」
「いいよ……別に。はしたなくっても。暑いんだよホントに、ああ、暑いよぅ」
そう言ってしまうと、ノエルはシャツのボタンを全て外し終え、思いっきり前を開ける。
「ノエル准尉!? ヴァ……ヴァン准尉は後ろを向いちゃダメであります!」
慌てたミーロは、ヴァンの方へと声を上げる。
女同士ならばともかく、流石にこれは、ヴァンには眼の毒だ。
「む、向きません」
そんな事を言われるまでも無く、ヴァンに振り返る様な余裕はない。
必死に炎の魔法を放ち続けているのだ。
だが、気にならないと言えば、嘘になる。
だって男の子だもの。
だが、
「大丈夫よ。振り返ろうとしたら、私が目を潰すから」
エステルがさらりとそういうと、ヴァンがビクッと身体を跳ねさせた。
こういうところは、全然変わらない。
寧ろ、独占欲めいたものが乗った分、その声音に纏わりついている真実味が重みを増して、ヴァンの背筋を凍らせた。
「ふむ、そういうことなら……大丈夫か」
「ザ、ザザ准尉まで!?」
今度はザザが胸元のボタンを外し始め、ミーロがあわあわと声を上擦らせる。
「いや、兎ちゃん、これは必要な措置だぞ。暑さで昏倒してしまえば、皆に迷惑をかけることになる」
「そ、それはそうでありますが……」
ミーロが困った様な表情で口籠ると、その顔をじっと見つめてザザが口を開いた。
「……それよりも、私は非常に気になっている事があるんだ」
「な、なんでありますか?」
「君はなんでそんな涼しげなんだ?」
「え゛っ」
言われてみればその通り。
実際、他の四人に比べて、ミーロは上着を着込んだまま、汗一つ掻いている様子も無い。
「ああっ! ほんとだあッ! 兎ちゃん、なんかズルしてるでしょ!」
「ズルって、そ、そんなことはないであります」
ノエルが声を上げて詰め寄ると、ミーロはたじたじと縮こまる。
だが、そんなミーロを見遣ってザザがニヤッと笑った。
「いや、言わなくてもわかっているさ。君は『放出』の魔法で熱を放出しているんだろう?」
途端に、ビクン! とミーロの身体が跳ねた。
「い、いや、あの……『放出』は……じ、自分に対してしか使えない魔法でありますので……」
「いや、皆まで言わなくていい。分かっている。分かっているさ、責めている訳ではないのだよ。責めてる訳では。ただ……みんなで脱げば恥ずかしくないだろう?」
「え、いや、あの、ちょっとま、待ってくださいであります!?」
慌てるミーロの両脇をノエルとザザが挟んで、走りながらも胸元のボタンを器用に外していく。
「いやあああ……やめ、やめてくださいでありますぅ!」
「あはは、やだよーん」
炎の魔法を放ちながらも、背後から聞こえてくる姦しい少女達の声に、ヴァンはごくりと喉を鳴らす。
すると、
「……後ろ見たら、燃やすわよ」
炎の魔女の癖に氷点下にも落ちようかという声音で、エステルが囁きかけてきた。
「……み、見ません、ぜ、絶対」
ヴァンは違う意味でゴクリと喉を鳴らし、必死の形相で返事をした。
だがその途端。
彼らが走る通路のすぐ脇、下水の只中で激しい水しぶきが上がった。
突然の激しい音に、ヴァンは思わずそちらに目を向ける。
だがそれとタイミングを同じくして、「きゃあああああああ!」という悲鳴とともに、ミーロがばたりと地面に倒れ、全員が足を止めた。
「兎ちゃん!」
ノエルが声を上げて、倒れたミーロの脇へとしゃがみ込む。
見れば、ミーロの背中、切り裂かれたシャツの下から覗く白い肌に数本の赤い筋が走っていた。
「ヴァンはそのまま、前に向かって火炎幕を撃って! 途切れさせちゃダメよ」
エステルはそう声を上げると、ミーロ達を守る様に最後尾に立って、間髪入れずに魔法を放つ。
「第三階梯! 火炎幕ッ!」
すると、後方で炎に追い立てられる様に獣の足音が遠ざかって行くのが聞こえた。
「まさか、下水を潜ってくるなんて……」
エステルの疲れの滲む呟きに、ノエルの今一つ萎れた感じの笑い声が重なる。
「あはは……これは拙いねー」
「ああ拙い。挟み撃ちにされてしまってはな」
獣の足音は微かではあるが、通路の前後両側から聞こえてくる。
どうやら一匹では無かったらしい。
ましてや水を潜って、炎を掻い潜ってくるのであれば、面で押し込むというこの作戦は、根本から見直しを迫られる。
数分前に「簡単なものだ」そう言ったのを思い出して、ザザは思わず自嘲気味に口元を歪めた。
そして、
「エステル、やはりここでヤツらを倒すしか無いらしい」
そう言った。
◆◆◆
地下道でヴァン達が襲撃を受けている頃、
シュゼット達は王立士官学校の門を潜り、中庭の一隅に車輛を止めた。
郊外だとは言っても、王立士官学校は王都からそれほど離れている訳では無い。
荷台から降りながら、遠くに立ち昇る黒煙を見上げて、シュゼットは口元を引き結ぶ。
原理主義者の一部が暴発し、小競り合いになっている。
シュゼットはそう推測していたが、流石に原理主義者が一斉に蜂起して、今当に王国を二分する戦いにまで発展しようとしているとは、微塵も考えては居なかった。
「なあ、おい、シュゼット。戻った方が良いんじゃねえか?」
「ヴァンがいるんだ。あいつらなら心配なかろう。それにヴァンを女王陛下に合わせることこそ、全ての解決への糸口なのだ。だからここが、今起こってる問題の最前線なのだよ」
そう言ってシュゼットが先頭に歩み始めると、学舎の入り口辺り、そこに腰の曲がった老婆が一人佇んでいるのが見えた。
総白髪の杖を手にした、小さな老婆である。
だが、その姿を見止めた途端、
クルスは「ひっ!?」と喉の奥で詰まった様な声を上げた。
その声が聞こえた訳でもあるまいが、老婆はクルスの方へと目を向けると、不機嫌そうに唾を吐く素振りを見せる。
明らかに歓迎している様子ではない。
そして次の瞬間、
唐突に地面が隆起したかと思うと、人の右手を形作り、いきなりクルスのみぞおちをぶん殴った。
「おおお……」
口からよくわからない液体を零しながら、クルスは腹を抱えて蹲る。
アネモネは目を丸くしたが、一方のシュゼットに慌てる様子は見られない。
それもその筈、彼女にとっては、学生時代によく目にした光景。
むしろ、懐かしさすら感じる。
「ご無沙汰しております。セネリエ教官」
シュゼットが呻いているクルスをその場に放置して、老婆に歩み寄る。
すると、
「よく来たね。シュゼット、アネモネ」
老婆はクルスなど、どこにもいないかのように、そう言った。