第七十八話 面
「ヴァン! 大丈夫なの」
「は、はい……かすり傷です。で、でも気を付けてください。すぐにまた来ます!」
慌てて駆け寄ったエステルに目を向けて、ヴァンは真剣な表情でそう言った。
第十三小隊の面々は、それぞれに緊張の面持ちで身構え、周囲に向けて視線を走らせている。
アーチを描く下水道の天井。
耳をすませばそこに、遠くの方から獣独特のタッ! タッ! という接地時間の短い足音が、微かに反響している。
通路のすぐ脇を流れる汚水の水音にかき消されそうになる、その微かな音を必死に捉えようとヴァンは息を殺す。
足音は今、僅かに遠ざかっている。
ヴァン達がこれから進もうという方向、その暗闇の奥から聞こえてくる。
態勢を整えて、再び襲ってくるつもりなのだろう。
「高速悪魔と言ったな。あのスペイロ渓谷に出たっていう化け物か?」
「あはは、うん、そうだよ。あの時は僕とヴァン君で何とかやっつけたけど、大変だったんだよ。すごく速くて、姿は見えないし、攻撃も当たんないし……」
「速い? それだけか?」
「それだけって……」
ザザの物言いに、ノエルが唇を尖らせる。
すると、エステルが二人の話に割り込んできた。
「バカね。ほんとバカ」
「ああ、バカだな」
「ちょっとぉ、二人とも! なんでいきなり罵倒されなきゃなんないのさ!?」
何の脈絡もなく罵られて、ノエルは思わずじたばたする。
「違うわよ、アンタの事じゃないの」
「ああ、そうだ。ここにその高速悪魔とやらを放ったヤツは、どうしようも無いバカだと言っているんだ」
「へ?」
「だって、考えてもみなさいよ。どんなに速いって言ったって、こんな狭いとこじゃ、そんなに動き回れないでしょ?」
「長所を生かせない様な場所をキルゾーンに選ぶなんて、ド素人としか言い様がない。そういう事だ」
二人の言っている事は今一つよくわかっていないが、ノエルはとりあえず頷いた。
「ま、まあそうだけど……でも、姿が見えないぐらい速いんだよ? 気が付いたら、切り裂かれちゃってたりするんだから! スペイロ渓谷の時は、ボクとヴァンくんで、すっごくすっごく苦労してやっつけたんだから!」
「まあ、ある程度広い場所なら大変だろうが、ここなら火炎系統の魔女が居れば、そんなに苦労はしないさ」
「エステルが居れば?」
ノエルが不思議そうな顔をして首を傾げると、そばで話を聞いていたミーロが、唐突にぽんと手を打った。
「分かったであります。面で制圧するでありますね!」
「麺?」
パスタで相手をぶん殴る想像でもしたのだろう。
エステルは、おかしな顔をするノエルを完全に無視して、ぐるりと全員を見回すと大きな声を上げた。
「第十三小隊! これより二列縦隊にて進撃を開始するわよ! 前衛は私とヴァン、中衛に兎ちゃん、ザザとノエルは後方警戒をお願いね」
「ぼ、僕は何をすれば……」
「ヴァン。アンタはこれから、私の合図にあわせて『火炎幕』を打ち込んで。それ以上の魔法は使っちゃダメよ、こんなところで崩落事故なんて起こしたら、命なんて幾らあっても足りないんだから」
「わ、わかりました!」
エステルはヴァンの必死な表情に思わず、くすりと笑うと、他の面々の方を振り返えった。
「私とヴァンが交互に『火炎幕』を打ち込むから、それを追って走るわよ、遅れずについてきて!」
「了解であります!」
ミーロが元気よく頷くと、要領を得ない顔をしながら、ノエルもとりあえず頷いた。
その時、ヴァンがハッと顔を上げる。
「エステルさん! 来ます!」
足音が方向転換して、こちらへと近づいてくるのが聞こえたのだ。
「第三階梯! 『火炎幕』!」
エステルが魔法を放つ。
進行方向に向けての盲撃ち。
通路一杯に広がった業火に追われて、近づきつつあった獣の足音が遠ざかるのが聞こえた。
「行くわよッ!」
そう言ってエステルが炎を追う様に駆け始めると、慌てて皆も後を追って駆け始める。
「次、ヴァン! 撃って!」
「は、はい! 『火炎幕』ッ!」
勢いを失いつつあった火炎を上書きするように、炎が隙間なく通路に溢れかえると、ヴァン達の足音に混じって、微かに聞こえている獣の足音がどんどん遠ざかっていく。
「このまま、行き止まりまでつっきれば、それで終わり。簡単なものだ」
ザザがそう言って笑うと、スペイロ渓谷で苦労した事を思い出したのだろう。ノエルが少し複雑そうな顔をした。
◆◆◆
「ロズリーヌ……新しい魔法、あれ何?」
「ヴァン様とワタクシの愛の結晶ですわ」
「……そんな事は聞いてない」
相変わらずベベットの表情には、ほとんど変化は無かったのだが、何やらムッとした様な雰囲気は伝わってきた。
「まあまあ、お茶目な冗談ですわよ、今のところは。でもその内、本当に愛の結晶を授かるつもりではおりますけど」
「…………」
無言のベベットから、殺意に近い剣呑な空気が漂ってきて、ロズリーヌは思わず咳払いをした。
「わ、ワタクシの新しい魔法でしたわよね。あれは『眼』の第二階梯 『予言悪魔の目』ですわ」
「予言悪魔?」
「ええ、人に死期を告げると言われる悪魔ですわよ。実際にそういうものがいるのかどうかは知りませんけれど……」
「未来が分かる?」
「うーん……似ていますけれども、少し違いますわね。言ってみれば、『未来を選び取る事が出来る』、そういう魔法ですわ」
ロズリーヌの顔を見据えて、ベベットはふるふると首を振る。
「……よくわからない」
「ですわよね……では、もう少し詳しく説明すると、あれはとても受動的な魔法ですの。相手が仕掛けてきた攻撃に対して、こちらの取り得る選択肢と、その結果が見えるんですのよ。つまりどんな行動を取れば相手の攻撃が当たらないか。それが事前に分かるということですわ」
「後出しじゃんけん……」
ベベットのその表現に、ロズリーヌは思わずクスリと笑う。
「そう、まさにその通りですわ。まあ、実際はじゃんけんではありませんから、どの選択肢を選んでもダメ……そういう事もあるかもしれませんけれど、でもさっき、とても良い活用方法を思いつきましたの」
「なに?」
「ヴァン様に迫られる時が来たら、この魔法を使ってヴァン様を虜に出来る未来を掴んで見せますわ」
ベベットは鼻先で笑う。
「あの子が迫る?……ない、ない」
「……ですわよねぇ」
はー……と、大きな溜め息を吐いて、ロズリーヌは肩を落とした。
その時、
「あ……あんた達、私のこと完全に……忘れてるわよね。こ、こっちは死にかけてるんだけど……」
二人の足元から、擦れた声がした。
「「あ」」
エリザベスの恨みがましい視線に貫かれて、二人は思わず明後日の方へと目を向ける。
「と、とりあえず、大聖堂の中に避難いたしましょう。あそこなら、たぶん応急手当ぐらいはさせてもらえると思いますわ」
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