第七十話 姉と妹
顔を上げるロズリーヌ。
その瞳に、前のめりに倒れ込んでいくミュラー公の姿が映った。
「お母さま!」
「我が君!」
ロズリーヌが取り乱すように縋り付くと、同時に床の上に転がっていた暗殺者の少女が声を上げる。
何が起こったのかは明白だった。
水差しの水に何かが入っていたのだ。
取り乱す二人を他所に、ベベットだけが状況を、じっと観察していた。
当然、疑うべきは『毒』属性の魔女。
だが、足元でもがいている当の少女の、その悲痛な表情にその可能性が無い事を確信する。
それこそ、ロズリーヌ以上に動揺している様に見えた。
「ロズリーヌ……お逃げなさい……早く」
「お母さま! お母さまああああ!」
悲痛な声を上げて縋りつくロズリーヌの肩越しに、ミュラー公は視点の合わない虚ろな目を、頭陀袋から顔を出したままの暗殺者の少女へと向けて、息も絶え絶えに語りかける。
「リズ……あなたに命じます。私の最後の命令……聞いてくれるわね。この子を……ロズリーヌを守って頂戴」
「我が君! お気を確かに!」
眼に涙を浮かべて、エリザベスは頭陀袋の中で、ジタバタと暴れている。
「お母さま! しっかりしてくださいませ! お、お医者様をお呼びしますわ」
だが、ミュラー公は静かに首を振る。
部屋に反響する苦し気な呼吸音。
何が起こっているのか、全て分かっているかの様に、彼女に取り乱す様子は無い。
ミュラー公は苦し気に息を漏らしながら、娘の頬へと指を這わせる。
「はあ……はあ……母はただ、あなたを……、コルデイユを……。ロズリーヌ……コルデイユはあなたの妹です」
「お母さま……な、なにを」
「何があっても……はあ……あなたは姉として振舞うのです……よ」
その時、乱暴な音を立てて扉が蹴破られた。
二つのカンテラの灯りが、入り口から入り込んできて、床に三角の模様を描く。
明るい廊下を背にしたシルエット。
そこに立っているのは、多くの魔女を引き連れた一人の少女。
小柄なロズリーヌよりもさらに小さな体躯。
顔立ちこそロズリーヌにそっくりだが、髪の色はくすんだような金色。
額の上で切りそろえられた前髪のせいで、幼さがより一層際立っている。
「……コルデイユ」
顔を上げたロズリーヌを、冷ややかな目で眺めて、少女は口を開く。
「……お姉さま、何という事を」
「ち、違う、私じゃない!」
「お母さまを手にかけるなんて」
彼女は抑揚のない声でそう言い放つと、ロズリーヌの足元、頭陀袋から覗くエリザベスの顔を目にして、一瞬驚いた様な顔をする。
じっと彼女達を観察していたベベットは、それを見逃さなかった。
だが、ロズリーヌはそんな妹の表情の変化に気付く余裕もなく、感情のままに声を荒げた。
「そんなことより、コルデイユ! は、早くお医者様を呼びなさい!」
「……無駄ですわ、お姉さま。ワタクシの眼には、お母さまはもう、こと切れておられる様に見えます」
「コルデイユ! あなた……何を言ってるんですの! は、早くお医者様を!」
悲痛なロズリーヌの訴えを鼻で笑うと、コルデイユはにんまりと口角を上げた。
「お姉さま、猿芝居は結構ですわよ。この状況で、しかも毒属性の魔女を連れて、言い逃れなど出来るとお思いですの?」
ロズリーヌは思わず弾かれる様に、エリザベスへと目を向ける。
彼女は悔しそうに唇を噛んで、コルデイユを睨みつけていた。
「……図りましたのね。コルデイユ様」
「何を言っているのです。リズ。そもそもあなた達が、使命を果たせなかったからこんなことになったのでしょう?」
強くかみしめた唇が破れたのだろう。
リズの唇から一筋の血が滴る。
コルデイユは冷ややかな目をロズリーヌへと向けて、口を開いた。
「お姉さま……いえ、ロズリーヌ。お母さまを殺害した咎人として、あなたを拘束させていただきますわ」
コルデイユがそう宣言するやいなや、扉の外に控えていた魔女達が部屋の中へと雪崩れ込んでくる。
だが、今のロズリーヌにそれに対処せよというのは無理な話だ。
彼女は呆然と、それを眺めているだけで身じろぎ一つしない。
いや、出来なかった。
コルデイユの前に進み出た魔女達は、拘束するというコルデイユの言葉とは裏腹に、ロズリーヌに掴みかかる訳でも無く、一斉にその指先をロズリーヌへと向ける。
ロズリーヌの虚ろな瞳に映るコルデイユが、ニタリと嗤った。
その瞬間のことである。
「ごめん」
影の中から飛び出したベベットが、ロズリーヌの耳元で囁いた。
「おかあさまあああああぁぁぁあ!」
途端に、我に返ったロズリーヌの絶叫が暗い部屋に響き渡り、ベベットは彼女を乱暴に自分の影の中へと蹴落として、コルデイユ率いる魔女達にくるりと背を向ける。
ロズリーヌに抱きかかえられていたミュラー公の身体が、ベッドの上へと倒れ込み、よく見れば、ロズリーヌの足元に転がっていた筈のエリザベスの姿も見当たらない。
突然、現れたベベットに動揺した魔女達は、狙いもつけずに魔法を放つ。
指先の動きで想像した通り、彼女達は光属性の魔女。
指先から光が迸る。
『第二階梯 光速指弾!』
だが、ベベットに怯む様子は見られない。
同じ『光速指弾』でも、ノエルの早撃ちを目にしてきた彼女からすれば、魔女達のその動きは緩慢に過ぎる。
ベベットは、いつもののんびりした彼女からは想像もできないほどの素早い動きで、狙いを付けられないように左右にステップを踏みながら、窓の方へと駆けていく。
光の矢が幾つも飛び交い、床に、壁に穴を穿つ。
だが、ベベットには当たらない。
「逃がしてはダメよ!」
コルデイユが声を上げると、ベベットは窓を背にして振り返りコルデイユを睨みつけた。
「……ロズリーヌを泣かせたお前は、許さない」
そして、来るりと踵を返すと、腕で顔を守る様にして窓へと飛び込み、それをぶち破って外へと飛び出す。
飛び散るガラス片。
その破片に月光が反射して、闇の中を流星群の様に、きらきらと墜ちて行く。
コルデイユ達が窓へと駆け寄り、下を覗き込んだその瞬間。
ベベットは、月明かりにはっきりと浮かび上がった彼女自身の影、その中へと沈み込んでいった。
「早く! 早く! あの影を撃ちなさい! 絶対に逃がしちゃダメ!」
コルデイユは魔女達の方を振り返って、苛立たしげに声を荒らげる。
魔女達は慌てて窓の方へと駆け寄ると、ベベットの影へと狙いを定める。
だが、彼女の影はするすると動いて、館の大きな影の中へと入り込み、見分けがつかなくなった。
「闇属性の魔女に召集を掛けなさい! あの魔法では、そんなに早く移動できないわ! 逃がしてはダメよ!」
コルデイユが再び声を荒げると、魔女の一人が弾かれた様に廊下の方へと飛び出して行く。
沢山の影の中で『暗い部屋』の掛かった影を見分けられるのは、闇属性の魔女だけなのだ。
「もう! なにやってるんですのよ! あなた達! お仕置きを覚悟なさい!」
声を荒げて地団駄を踏む彼女の姿に、魔女達が怯えた表情を見せたその時、廊下の方から一人の女性が部屋へと入り込んでくる。
彼女が一歩歩くごとに、床に落ちた影の胸元で、圧倒的なボリュームの球体が弾む。
「あらあらぁ、取り逃がしちゃったのねぇ」
「今はまだ……ですわよ! すぐに捕えて見せますわ!」
コルデイユが女を睨みつけると、彼女は口元にいやらしい笑いを浮かべた。