第六十八話 一番のキス
「……で、これからどうすんだよ」
部屋に入るなり荷物の中から葡萄酒のボトルをひっぱりだして、ひたすらラッパ飲みしていたクルス。
彼女は、テーブルの上に三本目の空き瓶を転がしたところで、シュゼットに酔眼を向けた。
「確かに難しい局面ではあるな」
シュゼットは顎に指を当てて、天井を見上げる。
「我々は白百合の儀までは陛下に見えることも出来ない。かといって、それまで王権護持派の貴族が大人しくしていてくれるとは考えにくい。さらに言えば、ブルージュ男爵は調子に乗ってヴァンの後見人を気取っているが、彼女以外の原理主義者達は、いかにしてヴァンの身柄をブルージュ男爵の下から横取りするかと、策謀を巡らせていることだろうさ」
「難しいっていうより、ややこしい感じだな。見渡す限り、どこもかしこも敵だらけ。どえらい事に巻き込んでくれたもんだな、おい」
「なんだ? 不満なのか?」
「いんや、地下倉庫で書類を整理してるよりは、相当おもしれえ」
そうして、二人は目を見合わせて笑い合う。
「明日は朝一番に、王立士官学校のセネリエ教官を訪ねようと思っている」
「おばちゃん? おばちゃんとこに行って何すんだよ。どうせ、ネチネチ説教されるだけだぞ。正論なんて何一つ通用しねぇんだから。まさかマゾなの、お前?」
「そんな訳ないだろうが」
「知ってるよ。寧ろドエスだ」
その物言いに、シュゼットは思わず苦笑する。
が、否定はしなかった。
「思い出してみろ。我々がまだ学生だった頃、セネリエ教官がずっと自慢しておられただろう。現ペルワイズ公は教官の教え子だったとな」
「ああ、なるほど、おばちゃんの伝手で三大貴族の一角に接触しようってことか……しかしまあ難儀な話だな。せいぜいがんばってくれ」
「何言ってんだ。お前も一緒に来るんだぞ。お前が一緒に居れば、教官の説教は全部お前の方に行くからな」
「ちょ!? オレを弾避けに使うのはやめろ!」
思わず目を見開いて慌てるクルス。
その様子にシュゼットはしばらくクスクスと笑った後、再び真剣な表情に戻って口を開く。
「明日は夜明けと共にここを出る。我々二人の他に、最近までセネリエ教官の生徒だったアネモネも連れていくつもりだ。弾避けは冗談として、お前にも働いてもらう場面は出てくるだろうさ」
「まあ、そうだろうな」
「どう考えても、王権護持派の連中が我々をそっとしておいてくれる訳はないからな。だから、もうあんまり飲みすぎるんじゃないぞ」
「ふん、バカにすんな。こんなもん、水じゃねえか」
「フッ、その言葉、後悔することになるぞ。明日、小型車輛を借り受けられる様、ブルージュ卿に頼んだんだが……」
「なんだよ」
「『山猫』を貸してくれるそうだ」
「……あ、そりゃ確かに地獄だわ」
LV―〇三『山猫』。
荷馬車を改造した急造高速車輛である。
木製の車輪で、クッション性はゼロ。
『ケツ殺し』の渾名の指し示す通り、ダイレクトな衝撃が尻を襲う、酷い乗り心地の失敗作だ。
二日酔いでこれに乗った日には、エラい目にあうのは分かり切っている。シュゼットは、既に一度経験済みだ。
◆◆◆
暗い部屋の中で、エステルはパチリと目を開けた。
隣の部屋から微かにシュゼットとクルスらしき話声が聞こえてくるが、それがうるさくて眠れないという訳ではない。
いくつもの寝息が、真っ暗な部屋に薄く伸ばしたクリームみたいに満ちていて、目を瞑って大人しく横たわっていれば、自分もそのうち眠りに落ちるだろうとは思う。
だが、エステルは音を立てないように、そっとベッドを下りると、静かに窓の方へと歩み寄る。
指先でカーテンを捲るとその向こうにバルコニー。
窓を開く音を気にしながら、静かに窓の外、バルコニーへと歩み出た。
すでに正子を過ぎているというのに、バルコニーから見下ろす街並み、そのいくつかの窓には未だに明かりが灯っているのが見える。
王立士官学校に在籍していた頃には、その寮の窓からいつも見ていた光景。
それほど昔のことでは無い筈なのだが、なんだか酷く懐かしい事の様に思えた。
その時、
「眠れ……ませんか?」
背後から囁く様な声が聞こえて、エステルはスッと目を細める。
わざわざ振り返るまでもない。
「うん、ちょっとね。考えちゃって」
「何をで……す?」
ヴァンがバルコニーへと歩み出ると、エステルは柵に肘をついて遠い目をした。
「もしかしたら、アンタにとって、王様になるのはそんなに悪い事じゃないんじゃないかなって」
「そうなんですか?」
「いや……アンタ、自分のことよ?」
「あ……すみません。でも……」
「でも、何よ?」
「ぼ、僕は、こうやってエステルさんが傍に居て、ザザさんやミーロさんと楽しそうに笑って、ロズリーヌさんと張り合ったり、シュゼットさんと言い争ったりしてるのを見ているのが、とてもとても幸せなんです。今まで、こんなに幸せだなあと思った事は無かったんです」
そう言ってニコリと微笑むヴァンから目を逸らして、エステルは小さく嘆息する。
「アンタはバカね。本当バカ。ねぇヴァン。今がどんなに幸せでも、時間はいつまでも足踏みしてくれないのよ。あんまり考えたくは無いけど、誰かが戦死するかもしれないし、誰かと結婚して、そのまま退役しちゃう事もあるかもしれない」
「そう……ですよね」
無論そんな事はヴァンにだって分かっている。
変わっていく事を、出来るだけ先延ばしにしようとしているだけなのだと言う事も。
「でもね。私、決めたの。アンタが離れてくれって言っても私だけは絶対に離れない。地の底まで付いていくわよ。だからアンタが王様になろうが、農奴に戻ろうが関係ないの。アンタは私の旦那様、バカだけど素敵な旦那様なのよ」
「は、はい。僕も離れません」
必死な表情で見つめ返すヴァンに、エステルは優しく微笑んで、彼の鼻先を指でつつく。
「離さないでしょ?」
「は、離しません」
この少年が必死な顔をすると、誰もがいじめたくなるらしい。
この時も、エステルはわざと拗ねる様な態度をとった。
「一応言っとくけど、アンタが他の女の子とキスするの平気じゃないのよ。そのたびにキュウって胸が苦しくなって、仕方ないのは分かってるのに腹が立って、ああ、私、嫌なヤツだなって落ち込んで……」
「ごめんなさい。でも僕はエステルさんが一番……」
「一番ってなによ! 二番があんの?」
「あ、ああ、そういうわけじゃなくて……エステルさんしか」
「本当に、そう思ってる?」
「思ってます! 本当です! 嘘じゃありません!」
エステルがジトッとした目で、長く伸びた前髪の向こう側の瞳を覗き込むと、ヴァンは必死で目を見開いて訴えかける。
「わかった。じゃあ、私に一番のキスをして、他の誰とも出来ない様なのを」
「い、一番?」
ヴァンが真剣に考え込む様な素振りを見せると、その必死な様子にエステルは再びくすりと笑い、そして目を閉じて静かに唇を突き出す。
ヴァンは静かにその唇に自らの唇を重ね、二人は互いの唇を、そして舌を貪った。
◆◆◆
二人が長い、長い、口づけを交わし、寝たフリをしていたミーロが顔を真っ赤にして頭から掛布を被って蹲った頃。
ブルージュ男爵の屋敷から王宮を間に挟んで北側、真逆の区域に位置するミュラー公の屋敷の門前。
そこに誰にも気づかれることなく、小さな影が一つ蟠っていた。
重厚な鉄の門と、城壁と表現しても過言ではない高い塀に囲まれた一際大きな屋敷。
小さな影は、門衛の魔女が二人、夜半の冷え込みに身体を縮こまらせているその前を横切り、門と地面との僅かな隙間をスルスルと移動して、内側へと入り込んで行く。
それはベベットの影。
彼女の闇系統魔法『暗い部屋』であった。
影の内側で、ロズリーヌは小さく嘆息する。
彼女にしてみれば、ここは本来、自分の家なのだ。
そこに、正面から帰る事も出来ないというのは、忸怩とした思いがあった。
庭には、魔法による結界が張り巡らされているが、ロズリーヌはその全てを熟知している。
なにせ自分の家なのだ。
結界と結界の間を縫う様にすすむ黒い影。
見張りの者達の目の前を堂々と横切り、壁面に張り付いたかと思うと、壁面をよじ登っていく。
まるで蟻が塚を作る様な遅々とした動きで、じわりじわりと三階まで這い上がり、窓の隙間から屋敷の中へと滑り込む。
そこはロズリーヌの母親の居室。
この屋敷の主、ミュラー公爵の私室である。
広い部屋の中央には、天蓋付きの豪奢なベッドが一つ。
微かな寝息の音に合わせて薄手の掛布が僅かに上下している。
やがてベッドのすぐ脇で、影の中からロズリーヌが這い出てくる。
彼女はベッドの脇に跪き、声を殺して、そこに眠っている人物へと呼びかけた。
「お母さま……お母さま、こんな時間に眠りを妨げるご無礼をお許しください。お母さま」