第六十一話 カントの戦い その8
宿屋の窓の奥で、炎がチロチロと舌を伸ばしているのが見える。
それに合わせて、暗闇の中に薄い影が揺れる。
夜半の静寂に、火の粉の音が微かに響き、宿屋が燃える淡い灯りを背に、虚ろな目をしたエステルが、掌を正面へと翳した。
「……第三階梯 火炎幕」
ザザとアネモネは無言で頷きあうと、素早く左右に別れて跳躍する。
二人が居た場所を、灼熱の炎が赤土を嬲りながら通り過ぎていく。
土の焦げる臭いが微かに漂って、地に黒い筋を描いた。
地面を転がったザザが態勢を立て直すより早く、アネモネが動く。
「鉄化!」
アネモネは声高にそう叫ぶと、エステルの周囲を大きく迂回する様にステップを踏み、その背後の幼女を殴り倒すべく、拳を振り上げた。
ザザは、正直驚いた。
相手は五歳を過ぎたぐらいの幼女だ。
金色のストレートな髪に、パフスリーブがかわいらしいフリル一杯の青のドレス。
遠目には陶器人形にも見えるような、かわいらしい幼女なのだ。
普通は躊躇する。
ダメだと分かっていたとしても、躊躇してしまうものだ。
殴ると決めてから一拍の呼吸があって、そこで気持ちを固め、思い切って殴りつける。
その一拍を省略することなど、ザザには出来はしない。
だが、アネモネはその一拍の間もなく、それこそ何の躊躇も見せずに、殴り掛かっていったのだ。
幼女の頭上から、勢いよく振り下ろされる鉄の拳。
だが、その拳の前に、エステルが無謀にも顔を割り込ませた。
遠目にみれば、紐の付いたマリオネットを振り回した時のような動き、遠心力で身体をだらしなく伸ばしたまま、顔面からアネモネの拳へと突っ込んでいく。
「……ッ!」
慌てて拳を引くも間に合わず、エステルの頬を掠めて、切れた頬から血が粒になって飛んだ。
幼女は「にひひ」と笑い、アネモネは眉を顰める。
「お姉ちゃんはワタシのこと、絶対守ってくれるんだもんね」
「大丈夫……大丈夫、絶対守るから」
そう言って、ニタッと笑うエステルの不気味さに、ザザは思わず声を上ずらせた。
「ア、アネモネ、距離を取れ!」
まずエステルをどうにかしないことには、幼女への攻撃もままならない。
ザザは、両手をエステルの方へと突き出して声を上げる。
「加重付与!」
途端にエステルは、ぐしゃりと膝から地面に崩れ落ち、そのまま地面に頬を擦り付けるような態勢で倒れ込んだ。
手加減するのは骨が折れるが、エステルを押さえつけているこの間は、幼女を守るものは居なくなる。
「アネモネ!」
ザザの声に一つ頷いて、アネモネが再び幼女に飛び掛かるべく、踏み込んだその瞬間、
「あたたた、ちょっとォ! ザザ! なにすんのよ!」
エステルが半ギレ気味に、声を上げた。
「え?」
おもわず目を向けると、エステルが苦し気に顔を上げて、ザザを睨みつけている。その瞳には理性の光が宿っていた。
――催眠が解けたのか?
「アンタねぇ! やりすぎでしょ! 早く魔法ときなさいよ!」
「エステル、お前正気に戻ったのか?」
そう言って、ザザがエステルの目を覗き込んだその瞬間、エステルの瞳が唐突に混濁する。
――マズい!
ザザがそう思った時には、既に遅かった。
ぞわぞわと背筋が粟立つ様な感覚の中で、ザザの意識が瞬時に暗転した。
◆◇
ザザがエステルを押さえつけているその隙に、アネモネは鉄化した拳を、一気に幼女へと振り下ろす。
真上からの一撃。
手加減など一切しない。
する気が無い。
腐った果実の様に頭を、ぐちゃりと潰す光景を思い浮かべながら拳を振り下ろす。
だが、幼女は口の端をにたりと歪ませると、短い手足をちょこまかと動かし、蜻蛉を切ってアネモネの一撃を躱す。
予想外の素早さに、アネモネは眉を跳ねさせる。だが、
――逃がさない!
「鉄化!」
続いて、アネモネは膝から下を、長靴ごと鉄化すると、そのまま遠心力に体重を乗せて蹴りを放った。
その一撃は幼女の胸元に直撃し、「ヒッ!」という短い悲鳴とともに、彼女は鞠の様に赤土の上を転がっていく。だが、
――浅いか。
そのアネモネの感触を裏付ける様に、幼女はよろけながらも直ぐに起き上がった。
「う、ううっ、あ、あんたねぇ……。こんな小さな子供を思いっきり蹴りつけるとか、心が痛まないの?」
幼女の非難めいた訴えに、アネモネは真顔で応える。
「痛みますよ。胸が張り裂けそうです」
そして沈痛な表情を浮かべたまま、静かに目を伏せて呟く。
「……ですが、これも私が越えなければならない試練ですから」
「は? 試練?」
「幼女をブチのめす心の痛み、幼女を虫けらの様にブッ殺した人間として、周囲から向けられるであろう白い目。同じ部隊の仲間からも、まるでならず者を見るような目で見られ、気を使った仲間達が腫れ物にさわるような態度になって、常に微妙な空気が漂う、そんな試練が待っているかと思うと――」
訝し気に眉を顰める幼女に、アネモネは微笑み掛けた。
「――心が踊ります」
「え?」
幼女が思わずぽかんとした表情を浮かべた途端、
「トドメです」
片足だけ鉄になった状態で、如何にも歩きにくそうに駆け寄るアネモネ。
話の展開についていけずに、戸惑う幼女を見下ろして、彼女は大きく足を振り上げた。
だが、その瞬間のことである。
突然、頭上から巨大な重みが圧し掛かってくる感触に、アネモネの背筋が凍る。
――潰される!
瞬時にそう判断したアネモネは、全身を鉄化して歯を食いしばった。
それはザザの『加重付与』。
一つ判断が遅れていたら、ぺしゃんこにされていた所であった。
だが、潰されることには耐えたものの、その場で地面に縫い付けられる様に倒れ、身動き一つ取れなくなった。
「あはは! びっくりした?」
頭上から勝ち誇る様な幼女の声が降り注ぎ、幼女をかばうように、エステルとザザが虚ろな目でその脇に歩み寄る。
「……ッ! ザ、ザザ准尉、どうして……」
だが、その問いかけに答えたのは幼女。
「んふ。催眠系統の第四階梯『誰の目』。催眠支配下の人間の目を通じて、催眠をかける魔法なんだよ、お姉ちゃん」
虚ろな目でアネモネを見据えるザザとエステル。それを見上げて、アネモネは苦し気な息の下で呻くように呟く。
「……本当にいい歳して、そんな策略に引っかかるとは、しょうの無い上官達ですよ……」
「あはははは、残念だったねぇ、鉄のお姉ちゃん。所詮『鉄』なんて何の役にもたたない三流系統なのよ」
高笑いを上げながら、幼女はアネモネの頭をグリグリと踏みつける。
「あなたはわかっていない……『鉄』系統こそ対人最強です」
アネモネのその呟きに、幼女は腹を抱えて笑う。
「あははははは、強がりもそこまでくると滑稽だよ。この絶望的な状況でよくそんな科白が出てくるよね。火のお姉ちゃん! 幾ら鉄でも時間をかけて炙れば、穴の一つも開くでしょ。やっちゃって!」
幼女が顎をしゃくると、エステルはアネモネへと手を翳す。
「第一階梯 火球」
感情の無い声とともに掌から飛び出した火球は、至近距離で、アネモネの鉄の身体にぶつかって爆ぜる。
「くあああああぁぁぁぁ!」
思わず悲鳴を上げるアネモネ。幼女はその頭をさらにグリグリと踏みつけながら口を開いた。
「ねえ、苦しいでしょ、痛いでしょ。素直にあたしの目を見て、お人形になったら、その苦しみから解放されるのよ、さあ」
ところが、アネモネの口から洩れたのは感嘆の響きを纏った溜息。
「ああ、なんという試練。この試練を乗り越えれば、さらに最強の魔女に一歩近づけること……間違いありませんね」
ぷるぷると震えるアネモネの指が、自分を踏みつける幼女の足首に触れる。
だが、その力はあまりにも弱々しい。
「あはッ、死にかけながら最強の魔女ってのは、説得力なさすぎるんじゃないかなぁ、お姉ちゃん」
からかう様にそう言った途端、幼女の顔が急激に蒼白になっていく。
「あ、あれ、あれ?」
幼女は態勢を崩して、そのまま尻餅をついた。
「な、なにこれ?」
幼女は眩んだ様な目つきになって、ぐらりと身体が傾く。
「……人間の血中に鉄分があるって知ってましたか? 大体三~五グラム。極少量です」
アネモネのその言葉は、既に幼女の耳には届いていない。
「そんな微量な鉄で作れるものなんて、たかが知れています。せいぜい針一本ぐらいのものです」
幼女はそのまま、前のめりに赤土の上に頭から崩れ落ちた。
「但し、作ったのは、貴方の心臓の中ですけどね」