第六十 話 カントの戦い その7
白い煙が薄っすらと宿屋のロビーに立ち込め始め、焦げ臭い匂いが鼻を衝く。
弾かれた火球が床板を焦がし、窓に架かったカーテンに燃え移ったのだ。
「あああああっ! ウチの宿があああ! アンタたち! 何してくれんのよおお!」
「お、女将さん! ダメですってば!」
「ねえ! アンタたち此処どこよ! 何が起こってんのよ、コレ!」
喚き散らす女将を下男たちが慌てて押し止め、つい先ほどまで幼女の母親であった女も、半狂乱になって声を上げる。
これら一般人四名と、シュゼット、クルス、ザザ、アネモネ、ロズリーヌの五人を、暗殺者達と催眠によって操られているエステルが、左右から挟み込む形となっている。
「まだか……」
シュゼットが焦れる様に、呟いた途端、
「シュゼットさん、『時の楔』を解除してください!」
二階からヴァンの声が響いて、シュゼットは待ってましたとばかりに魔法を解除して、背後のロズリーヌに問いかける。
「ロズリーヌ、外に敵は?」
「いませんわ」
『鷹の目』を展開するロズリーヌへの問いかけ。その意図を理解して、クルスは手近な椅子を持ち上げた。
「んじゃま、とりあえずこれでも喰らいやがれ!」
クルスが令嬢目掛けて、その椅子を力任せに投げつけると、メイド二人の手元でバチッと弾けるような音がして、椅子が砕け散った。
「お前達も走れ!」
ザザが民間人にそう怒鳴りつけると、女将達は顔を引き攣らせて入り口のドアへと殺到し、第十三小隊の面々は、窓を突き破って、表へと飛び出した。
表は、カントの目抜き通りとはいえ、田舎町らしく、何の整備もされていない赤土の道。騒ぎを聞きつけたのか、周囲の家屋にポツポツと灯りが灯り始めた。
泣き叫ぶ女将を下男達が両脇を抱える様にして、町の中心に向かって逃げていき、母親であった女も戸惑いながらそれについていく。
表通りに飛び出した第十三小隊の面々は、背後を振り向いて、暗殺者達を待ち受ける。
宿の建物からは、破れた窓の向こう側で、真っ赤な炎がチラつき、黒煙が立ち上り始めている。
シュゼットは二階の面々については、ベベットの『暗い部屋』で脱出できると踏んでいるが、二階に取り残されているのが四人であることに対して、『暗い部屋』の定員が三人であることを失念していた。
やがて、二人のメイドを先頭に悠然と令嬢、続いて幼女、最後にふらふらと生ける死体みたいな足取りで、エステルが表通りへと歩み出てくる。
火の手を上げ始めている宿屋を背に、令嬢達は第十三小隊の面々と距離をとって向かい合うと、からかうような調子で口を開く。
「うふふ、そのまま逃げるかと思ったわ」
「逃げたところで素直に逃がしてくれる訳ではないのだろう?」
「当然よ」
睨みあう二つの集団。
五体五といった状況ではあるが、はっきり言ってシュゼットとロズリーヌの魔法は戦闘向けではない。
また、暗殺者の側も催眠には注意が必要だが、幼女には戦闘能力は無さそうに見える。
「ロズリーヌは引き続き、周囲を警戒。ザザ、アネモネ、お前たちは二人でエステルを生け捕れ」
シュゼットのその指示に、三人は無言で頷く。倒すのではなく生け捕るとなると、やはり一人では手に余る。
「クルス! メイド二人とお嬢ちゃんの三人、イケるな?」
「フッ……誰に言ってんだ、ばーか。余裕だ、余裕。どうせ女の子三人も相手にするなら、ベッドの上の方が良いんだけどな」
シュゼットの指示にクルスが鼻を鳴らして前へと歩み出ると、令嬢が怒りの声を上げた。
「余裕ですって? 言ってくれるじゃない! レオ! サハ! 行きなさい!」
「はい、サハが申し上げます! 死ね!」
「レオが申し上げます! 惨たらしく死ね!」
メイド二人は左右に分かれて、クルスの方へと駆け出しながら魔法を発動させる。
左右対称の手の動き、二人の間でバチッという音が弾ける。
「第一階梯『雷の蔦』」
二人の手の間を、無数の電撃が行き来して網を形作った。
酸素が反応してオゾン化し、腐った卵の様な臭いが鼻を衝く。
そのまま両脇を駆け抜ければ、クルスは電撃の網に絡めとられて無残に焼け焦げる。
迫る電撃の網を前に、腕を組んだままのクルスは犬歯をむき出しにして、ニタリと笑うと魔法を発動させた。
「第一階梯 剣の舞い」
直撃! バチバチッと感電する様な音が、暗い陋巷に響き渡る。
だがその瞬間、表情の無いメイド二人の顔の上で、わずかに眉間に皺が寄った。
宙空に出現した十本の剣が、クルスの左右でクルクルと回転しながら、雷を断ち切って雷撃をその刀身に絡めとったのだ。
電撃を絡みつかせた剣が、そのままメイド二人の方へと飛来して、レオとサハは、即座に魔法を解除、蜻蛉を切りながら、左右に分かれて跳びすざる。
令嬢は、一瞬驚いた様な顔をしたが、すぐに小馬鹿にする様に、薄笑いを浮かべた。
「ハッ、『剣』系統なんて、今まで散々相手にしてきたわよ。そんな系統で、私達三人を相手に出来ると思っているなんて、おめでたいとしか言いようが無いわ」
「ははは、そうかい、そうかい。じゃ、お嬢ちゃん。こういうのは見たことあるかな」
そう言って、クルスは真上へと腕を突き上げる。
「第二階梯『人喰らい』!」
途端に宙空を待っていた十本の剣が、次々に寄り集まると、そのまま粘液状に溶けて一つになり、刃渡り五メートルにも及ぶ巨大な黒い剣へと変貌を遂げた。
令嬢は思わず目を見開く。
「なに……それ、『剣』の第二階梯は、剣の雨の筈よ!」
クルスは小さく苦笑すると、胸ポケットから、黒いリボンを取り出し、焦げ茶色の髪を後ろで一つに纏めて結わえる。
「誰も『剣』系統だなんて言ってないだろうが」
「じゃあ、なんだってのよ」
「……『魔剣』系統、王国中探しても唯一人の希少系統だぜ、お嬢ちゃん」
「魔剣……って、まさかッ! 人喰いクルス!? ばかなこんな自堕落で小汚い女が先の戦役の英雄な訳がないわ!」
「えらい言われようだが、英雄な訳ないってのには同意するぜ」
クルスが大袈裟に肩を竦めると令嬢は泡を食って、左右のメイドに向かって声を上げた。
「レオ! サハ! 出し惜しみしてる場合じゃなさそうよ。一気に決めちゃいなさい!」
「はい、サハが申し上げます。時代遅れの英雄に死を」
「レオが申し上げます。私達の名を上げる踏み台になれ」
二人は一斉に両手を天に翳して、声を上げる。
「「第四階梯『雷神の鉄槌』!」」
空が明るく発光したかと思うと、その瞬間、クルスの目の前が真っ白に染まる。
空を切り裂いて巨大な雷撃が墜ちたのだ。
遅れて大地を揺らすような轟音が響き渡り、空気が渦を巻く。
クルスから離れた位置にいたはずのシュゼットやロズリーヌも突然襲い掛かってきた衝撃波に弾き飛ばされて、赤土の上を転がった。
轟音が消え去れば、そこには静寂が鎮座する。
令嬢がゆっくりと瞼を開くと、シューという音を立てて、焼け焦げた地面から白い煙が立ち昇っている。
だが、その白い煙の向こう側には、黒い巨大な刀剣がゆっくりと宙を旋回していた。
令嬢は、思わず唖然とした表情を浮かべて、呻く様に口を開いた。
「効いてない……の?」
「いんや、喰らってたら死んでたな。二人して第四階梯まで開いてるってのには、流石に驚いたぜ」
どうやら、驚いたというのは本当らしく、クルスは袖口で額の汗を拭った。
「驚いたで済む様な一撃じゃなかった筈よ! なんでアンタ平気なのよ!」
「サハが申し上げます。化物ですか、あなた」
「レオが申し上げます。バカ者ですか、あなた」
「どさくさに紛れてバカ者呼ばわりすんじゃねぇよ。まあ、普通の剣なら、あんだけの雷撃くらやぁ保たなかっただろうけどな」
クルスは宙空の剣の柄に手を伸ばすと、犬歯をむき出しにして、悪辣な笑みを口元に張り付ける。
「じゃ、今度はこっちの番だな」