第六話 男嫌いのエステル
広場を環状に取り囲む石造りの建物。
薄らと良い香りがした様な気がして、ヴァンはスッと鼻を鳴らす。
見回せば、最前線の要塞には不釣り合いにも、壁沿いに並べられた鉢に、薄桃色のベゴニアの花が咲き誇っているのが見えた。
ラデロが先頭に立って歩き始めると、手にしたカンテラの光に合せて、壁の上で長く伸びた影が踊る。
乳鋲で飾られた鉄の扉をギィと押し開きながら、ラデロは後をついて来るようにと促した。
酷く薄暗い通路が続く。
そこを覚え切れない程ぐるぐると歩きまわり、最後に長い階段を降りると、やがて薄暗い廊下の壁面に扉が一つ。
気付かずに通り過ぎてしまいそうな程、地味な佇まいで設置されていた。
――第十八ミーティングルーム。
木製の簡素な扉に掛けられたプレートには、そう書かれていた。
扉を開くとその向こう側は、窓の無いだだっ広い部屋。
壁面には大陸全土を網羅する大きな古い地図が飾られていて、中央には十数人は座れるであろう大きな会議テーブルが設置されている。
シュゼットを先頭に部屋へと足を踏み入れると、煌々と焚かれた灯りの下、テーブルの向こう側で三人の女性が一斉に立ち上がった。
「おかえりなさい。中佐」
最初に口を開いたのは、ふわりとした柔らかい雰囲気を纏った二十歳前後の女性。
彼女の姿を眼にした途端、ヴァンの眼はある一点に釘付けになった。
彼女の容姿は魅力的だった。
クセのある黒髪を後ろで纏め、少し丸みをおびた顔つきは、美人というよりも可愛らしいという表現の方がしっくりとくる。
しかし、ヴァンの目を釘付けにしたのは、彼女の顔ではない。
そこからわずかに視線を下へと向けた先、
その辺りが余りにも、立体的過ぎるのだ。
それは、まるで遠近感が狂った絵画の様にも見えた。
ヴァンは、ラデロの言葉の意味を今、理解した。
――あれが包容力(物理)。
「こんな時間に呼び立ててすまないな、リュシール」
「いえ、とんでもありません」
シュゼットの言葉に、リュシールが柔らかな微笑を返す。
胸がぷるぷる震えていた。
「その後ろの子が例の……」
「ああ、ヴァン軍曹だ」
軍曹? とヴァンが思わず首を傾げると、ラデロが耳元で囁く。
「出自が貴族の場合、士官学校を出ていなくとも最低限、軍曹の階級は保障されるのです」
ヴァンの表情が複雑なものになってしまうのは、仕方の無いことだ。
貴族どころか、今朝の今朝まで農奴として、藁塗れになって牛の世話をしていたのだ。
それが突然貴族と言われても、正直どんな顔をすれば良いのか分からない。
「で、リュシール、出発前に頼んでおいた人員は見つかったか?」
「ええ、なかなか骨の折れるご要望でしたけどぉ……十五歳前後で階級は軍曹以下、魔法は『吸収系統』でしたよね。周辺の駐留部隊を散々当たって、やっと一人、ピッタリ条件に当てはまる人員を見つけました。既に転属手続きも済ませています」
そう言うとリュシールは一番奥に立っていた、背丈の小さな少女を手招きする。
彼女が手をひらひらさせると、当然の様に胸が揺れた。
「ミーロ伍長、自己紹介を」
「ひゃい!」
名を呼ばれた少女は、慌てふためきながら一歩前へと足を踏み出す。
「ほ、本日付けで第十三小隊に転属となりました、ミーロ=アパン伍長、十六歳であ、ありますッ!」
「兎?」
「アパンであります!」
肩までのくるくるっとした巻き毛に白いリボン、真ん丸な瞳。
年齢よりもずっと幼く見える童顔で、小動物系。
名は体を表すと言うが、瞳がわずかに赤みがかっている辺り、彼女はどことなく兎っぽい容姿をしていた。
シュゼットはヴァンの方を振り向く。
「ふむ、まあなんでも良いが……この兎がここでのお前の相方だ」
「だから、兎じゃないでありますぅ!」
ミーロは手足をじたばたさせて主張する。
しかしその挙動は、やっぱりどこか小動物っぽかった。
「相方?」
「そうだ。訓練していけば、お前もそのうち魔法が使える様になるかもしれんが、まあそれはわからん。だがお前の魔力は膨大だ。活用しない手はないだろう?」
「僕に出来る事があるんですか」
「ああ、あるとも。お前の魔力をこの兎が『吸収』で他の隊員に供給する。つまりお前が魔力の予備タンクで、そこの小動物がポンプという訳だ」
シュゼットがそう言うと、リュシールの隣から、出抜けにクスクスと笑う声がした。
「……笑う所では無いな、エステル准尉」
シュゼットが不愉快そうに眉を顰める。
――エステル准尉。
聞き覚えがある名前。
良く考えれば、此処へ来るまでの会話の中に出てきた名前だ。
確か凄まじい男嫌いだと。
あらためてその笑い声の主に目を向けて――ヴァンは眼を見開いたまま硬直した。
燃える様な紅い髪。
それを目にした途端、ヴァンの胸の奥で心臓が跳ねた。
止まらない鼓動に戸惑って、ヴァンは思わず胸を押さえながら、あらためてエステルへと目を向ける。
彼女の年齢は十五、六といったところ。
頭の両側で二つに結わえた髪、白磁の肌、切れ長でいかにも気の強そうな瞳、スッと筆でなぞった様な綺麗な鼻筋。
ヴァンの目に彼女のその姿は、此処に居並ぶ女性達の中でもひときわ美しく見えた。
だがそれとは裏腹に、ヴァンは気持ちが沈んで行くのを感じていた。
――違う、あの娘は、こんなに綺麗な娘じゃなかった。
ヴァンの視線に気が付くと、彼女は不愉快そうに顔を歪めて舌打ちをした。
「失礼しました。わざわざ中佐自ら出迎えに行く程の男性だと聞きましたので、どんな人物が来るのかと思ったら、まさか予備タンクだなんて」
エステルが嘲弄する様にそう言うと、シュゼットは語気を荒げる。
「勘違いするなよ、エステル准尉。予備タンクというのは、あくまで現段階の処置だ。ヴァン軍曹はまあ、一面的には押し付けられた厄介者にも見えるだろう。それは否定しない。だがお前の目にも見えているだろう? この濃厚な魔力が」
「でも、魔法は使えないんですよね?」
「そのうち使えるようになるかもしれんだろう。そうなったら彼は強力な戦力となる。不当に貶めることは許さんし、特別に持ち上げることも許さん」
エステルは呆れたとでも言う様に、大袈裟に肩をすくめる。
「中佐お言葉ですけど、魔法は身に付けて生まれてくるもので、後々身に付けるなんていう、そんなバカげた話は聞いたことがありません。もしかして、中佐もとうとう焼きが回ったんじゃないですか?」
その瞬間、
「准尉ッ! 口を慎め!」
シュゼットの隣でラデロがこめかみに青筋を浮き上がらせて、大声を上げた。
ミーロはビクッと身体を跳ねさせて、リュシールはおろおろと宙に指を這わせる。
あと指の動きにあわせて、胸が上下に弾んでいた。
当のエステルが不満げに口を尖らせると、シュゼットはフッと鼻で笑った。
「エステル准尉、膨大な魔力を身に着けた男などと言うバカげた話を、私は聞いたことがなかった。既にバカげた事が起こっているのだ、これ以上バカげた事が起こらんという方が説得力に欠けると思うのだが?」
「しかし中佐! コイツは男ですよ!」
思わず目を見開いて、ヴァンに指を突きつけるエステル。
しかしシュゼットは細い目を見開いて、ギロリと彼女を睨みつけた。
「同じことを何度も言わせるなよ、小娘。私は不当に貶めることは許さんし、特別に持ち上げることも許さん。そう言ったぞ」
「う……」
周囲の空気が一変する程のシュゼットの迫力に、エステルは思わず後ずさった。
「ともかくヴァン軍曹とミーロ伍長、二人は第十三分隊に配属。あとはリュシールに任せる。頼んだぞリュシール」
「はぁい、お任せです」
リュシールがホッとしたような微笑を浮かべた。
あと胸が小刻みに揺れた。
ヴァンは、悔しげに睨みつけてくるエステルの視線を避けて俯きながら、胸の内で「こんなものだ」と自嘲する。
胸の疼きもすでに治まっている。
きっと気の所為だ。
ただこれから配属される部隊の上官に、これだけ嫌われているという事実。
その前途多難さに思わず溜息が出た。
「それじゃあ……」
とリュシールが何か言おうとしたのと同時に、ミーロがちょこちょこっと、ヴァンの方へと歩み寄って来て、ペコリと頭を下げた。
「ヴァ、ヴァン軍曹。これからよ、よろしくお願いしますであります!」
「あの……呼び捨てで。こ、こちらこそ、お願い…し、ます」
ぎこちない二人の様子をじとっとした目で眺めながら、エステルが吐き捨てる。
「兎は年中発情期だって聞くけど、男と見れば早速色目を使うのね」
「あう……そ、そういうわけでは」
「准尉ッ!」
再びラデロが声を荒げかけると、シュゼットが何故かそれを遮って、ヴァンへ微笑みかけた。
「まあとりあえず、ヴァン。今日は疲れているだろう。宿舎でゆっくり休むと良い」
「あ、ありがとうございます」
ヴァンの返事に満足げに頷くと、シュゼットはエステルの方へと向き直った。
「……ところでエステル准尉」
唐突にシュゼットの声のトーンが下がり、その場の全員が思わずピタリと動きを止める。
「私は結構根に持つ方でな。上官に食って掛かってくる様な無礼者には、きっちりお灸を据えてやらなきゃ気が済まんのだよ」
エステルの顔から一瞬にして血の気が引いた。
「リュシール。エステル准尉から個室の使用権を剥奪。せっかくだ。新しい戦友と友好を深められる様に、エステル准尉はヴァン軍曹と兎と同じ部屋に入れてやれ」
「ちょっ!? ちょっと待って下さい! 中佐! こいつ男ですよ!」
「男だからどうした? さっきも言っただろう、不当に貶めることは許さんし、特別に持ち上げることも許さんと。……まあ、とっとと慣れることだな」
先程までの居丈高な態度はどこへやら、エステルはテーブルの向こうからバタバタと駆け寄ってシュゼットに縋りつく。
「中佐ぁ、降格でも減俸でもなんでも良いですから! それだけは勘弁してくださいぃ!」
「ん、何だ? 嫌なのか?」
目を潤ませてコクコクと頷くエステル。
しかし、
「残念だったなぁ。私は人の嫌がる事が大好きなのだ」
「そんなぁあああ!」
エステルは今にも泣き出しそうな顔で、ペタンと床に座り込んだ。
自業自得だとは思うのだが、ここまで嫌がられるとヴァンとしても流石に凹む。
「あ、あのシュゼット……さん。こんなに嫌がってるんですから……」
とりなそうと口を開きかけたヴァンを振り返って、シュゼットはまるで今気づいたとでも言う様にさらりと言った。
「そうだ、ヴァン軍曹。孕ませると使いものにならん。ほどほどに頼むぞ」
その瞬間、エステルは盛大に顔を引きつらせたかと思うと、
「いやあああああああああああああああぁぁぁぁ!」
この世の終わりにでも出くわしたかの様な顔で、絶叫した。
尚、その直後の「冗談だ」というシュゼットのつぶやきは残念ながら、エステルの耳には届かなかった。