第五十八話 カントの戦い その5
「シュゼットさん! この人です!」
「男!?」
ヴァンが声を上げた途端、令嬢は一瞬驚愕の表情を浮かべた後、表情を一変させた。
秀麗な顔を悪鬼の如くに歪め、肩までの黒髪を振り乱して、大声を上げる。
「許さない! 許さない! 絶対に許さない! この私の『初めて』を奪うだなんて! ぐっちゃぐちゃに潰しても飽き足らないわ!」
その途端、女将や子連れの母親達は「ヒッ!?」と喉の奥に声を詰まらせると、令嬢の脇から離れて、シュゼット達の背後に身を隠す。
つい今の今まで、只の推論であったものが、ヴァンの中で確信に変わった。
その推論とはこうだ。
宿に入ってきた第十三小隊の面々を見て、暗殺者は戸惑ったのだろう。
なにせ標的となる少年の姿が見当たらないのだ。
この内の誰かが女装している。そう思い至った事は、以降の行動を鑑みれば、想像に難くない。
だが、どの女が標的の少年なのか、それを確認する為に、第十三小隊の面々に接触するという事は、殺害後のリスクを上げる事に他ならない。
どの人物が標的なのか、それを特定出来ないままに、少年を暗殺する方法として、男性だけが使うものに毒を塗る。それぐらいの発想は、簡単に出てくる。
だが、そんな都合の良い物は、そうそう見当たらない。
そこで少年――つまり男性だけが使うものを、無理やり作り出したのだ。
身体を拭くための布の入った籠を、脱衣所にもう一つ置き、その上に『男性用』、『女性用』と書かれた木札を置いただけ。ただそれだけだ。
よく考えてみれば、たかが身体を拭くための布を、性別で分ける必要などどこにも無いのだが、そんな些細な事を警戒する者は、まずいない。
普通ならば女性は、何も考えずに、『女性用』と書かれている方を使用する。
『男性用』の布を使うとすれば、今現在、宿泊客の中ではただ一人の男性。
つまり、標的の少年だけだ。
そこに、皮膚から浸透する毒を、たっぷり染み込ませた布を置いておく。
回収する際に分かりやすい様に、普通の布とは色を変える。
いかにも男性用を想起させる様な、水色の布。
ところが、ところがである。
その計画は女性の中にたった一人、バカが混じっていた事で瓦解する。
木札を見ていなかったのか、もしかしたら、単純に水色が好きなだけなのかもしれない。
木札の文字が読めなかったと思いたくは無いが、ノエルの事だ、可能性はゼロでは無い。
その毒の染み込んだ布を、ノエルが手に取ったのだ。
自分が使用するだけなら一人だけの被害だったのだが、このバカは『流しっこ』と称して、ミーロと身体を洗いあった。
ノエルとミーロ。
この二人より他に、被害が及んでいないことを考えれば、幸いにもその布を、湯船に漬けることは無かったのだろう。
やがて毒が効果を表し、二階が騒がしくなった段階で、暗殺者は証拠を隠滅するために、脱衣所へとやってきた。
ヴァンの目の前で暗殺者――この令嬢は、その毒塗れの布を素手で掴んだのだ。
それはすなわち、毒に耐性があるということ。
それこそが、『毒』の属性の魔女である証左であった。
「ヴァン、お前の魔法で、二人が侵されている毒は解除できるのか?」
シュゼットは、ヴァンの行動の意味を正しく理解していた。
この令嬢が暗殺者である証拠を見つけた。
そして、ノエルとミーロから毒を解除する方法として、彼女の毒属性をコピーしたのだと。
ヴァンは、小さく首を振る。
「こ、このままじゃ無理……です。今は、時間を毒して極端に雰囲気を悪化させる『嫌悪時間』という魔法になってます。で、でも、ミーロさんの『吸収』と融合させれば、もしかしたら……」
「毒を吸収できる魔法になる可能性が高い!」
「そ、そうです」
「よし、お前は二人の元へ急げ!」
ヴァンは無言で頷くと、エステルにちらりと目を向けて、そのまま階段を駆け上がる。
令嬢の傍に控える二人のメイドが、ヴァンを追おうと足を踏み出すと、
「おっと、アンタら二人はオレが指名するよ。オレさぁ、前からメイドさんと、イチャイチャしてみたかったんだよね」
クルスが、相変わらずの軽口をたたきながら、階段を塞ぐように立ちはだかった。
メイド二人はちらりと目を見合わせると、蔑む様な目つきで、クルスを見据えた。
「サハが申し上げます。お断りです」
「レオが申し上げます。死んで、生き返ってから、もう一回死んでください」
どうやら先ほどから聞いている限り、レオの方が若干、口が悪いらしい。
「……サハ、レオ。余り大事にしたくはなかったのだけど、良いわ。やっておしまいなさい」
令嬢がそう声を上げるや否や、二人のメイドが身構える。
途端に、シュゼット達の背後に隠れていた幼い女の子が、母親に抱かれながら、声を上げて泣き始めた。
「うえええええん、怖いよぉ!」
「ア、アイーシャ、し、静かにして」
すぐそばにいたエステルが、慌てる母親に微笑みかけると、その幼女に顔を寄せて囁きかける。
「大丈夫、お姉ちゃんが守ってあげるから」
「くすん……ほんと?」
「ええ、本当よ」
幼い女の子はしゃくりあげながら、エステルの目を見詰める。
「絶対だよ」
幼女がそう囁いた途端、彼女の目の中に怪しい光がうねり、エステルの瞳からは、理性の光が失われる。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫……おねえちゃんが……守ってあげるから」
そう感情の起伏を感じさせない声で呟くと、エステルは唐突に、シュゼットに向かって、掌を向けた。
「……第一階梯 火球」
「なんだと!?」
エステルの掌の上で膨らんでいく火球に、シュゼットが思わず顔を引き攣らせる。
あまりにも予想外の出来事に、対処が遅れた。
エステルの手を離れ、シュゼットに向かって射出される火球。
誰もが直撃する姿を想像した、その瞬間。
「鉄化!」
右ストレート一閃。
拳を鉄に変えたアネモネが、それを横殴りに撃ち落とした。
「しっかりしてください! エステル少尉ッ!」
アネモネが上げたその声に、エステルは全く反応しない。
幼女は、母親の腕から飛び降りると、先ほどまでの涙声とは打って変わって、楽しげに嗤った。
「きゃはは、このお姉ちゃん、かなり単純な性格みたいだね。わりと根深く食い込んだ感触があるもん」
「……ッ、催眠か」
シュゼットが思わず顔を歪めると、幼女はにやりと嗤って、パチンと指を鳴らした。
その瞬間、母親だと思っていた女性が、戸惑うように辺りを見回して声を上げる。
「な、なに、なんなの、あなた達! ここどこよ!」
どうやら、彼女はどこかで調達されてきた、無関係な女性らしかった。