第五十七話 カントの戦い その4
それはおかしな感覚だった。
何も無い――そう思って足を踏み出したところに、籠があった。
単純にヴァンが見ていた過去の光景と、現在の脱衣所の状態の差異でしか無いのだが、その差異がやけに気になった。
過去の景色にある籠は二つ。
今現在、ヴァンの目の前に転がっている籠は一つだ。
ヴァンは、過去の景色の中にある籠を覗き込む。
二つの籠、其々の中には、きちんと畳まれた木綿の布が積まれていた。
片方は水色、片方は白。
そして、その一番上には、其々一枚ずつ、文字を書いた木札が置かれているのが目に入った。
意識を現在の光景にシフトして、その木札を探す。
床に散らばる白い木綿の布を、足で押しのけ、籠をひっくり返しても、その木札は見当たらない。
確かに籠が一つしかないのであれば、そんな木札は必要無いのだ。
再び、過去の光景に意識をシフトすると、
「待ってってばー!」
と、のんびりしすぎて、皆に置いてきぼりにされたノエルが、慌ててシャツのボタンを留めながら、ドアの方へと駆け寄っていくところだった。
横開きの扉をスライドさせながら、ノエルは首に掛けていた水色の布を、『使用済み』と大書されている籠へと無造作に放りこんで、脱衣所を飛び出して行く。
騒がしい少女が居なくなると、脱衣所には、キーンという耳鳴りを覚える程の静寂が訪れた。
ヴァンは『使用済み』の籠へと駆け寄ると、過去視を解除して、中を覗き込む。
湿った白い布が山積みになった籠。
そこに手を突っ込んで、次々に中身を引っ張り出す。
だが、出て来るのは白い布ばかり。
ノエルが放り込んだ筈の、水色の布は見当たらない。
「あ、あまり女性が、身体を拭いた布を漁るのはどうかと思うのだが……」
背後から気恥ずかし気に声を掛けるザザを、全く無視して、ヴァンは考え込む。
やがて、一つの推論が形になった。
「……だとしたら」
そう呟いて、ヴァンは『過去視』の時間を進ませる。
……十分。
……ニ十分。
そして三十分後。
二階の廊下からベベットの泣き喚く声が響いた頃、一人の女性が脱衣所へと入り込んでくる光景が、ヴァンの目に映った。
全く見覚えの無い女性だ。
彼女は周囲を警戒しながら、『使用済み』の籠へと近づくと、躊躇することなく水色の布を手に取り、口元を厭らしく歪めた。
「……この女だ」
ヴァンは確信して、その女性の元へと歩み寄ると、まじまじと顔を覗き込む。
ザザとアネモネには、もちろんヴァンの見ている過去の光景が、見えてはいない。
緊張した面持ちで、ジッと一点を見つめているヴァンの様子に、二人は戸惑いながら顔を見合わせる。
「お、おい、ヴァン! お前には何が見えているんだ?」
「……暗殺者です」
「「え!」」
ヴァンはそう答えると、言葉を失う二人を置き去りにして、転がる様に脱衣所を飛び出した。
◇◆
「お休みのところ、誠に申し訳ありませんな、皆さん」
丁寧な口調とは裏腹に、シュゼットはロビーに集められた者達を威圧する様に、細い眼を見開いて睥睨する。
「つい今しがた、私の部下が暗殺者に襲われましてね。恐らくこの宿にいる人間の誰かが暗殺者だと、そう目星をつけています」
「そ、そんな!」
声を上げたのは女将。
暗殺事件の起こった宿などという噂が立っては、宿の経営が立ち行かなくなる。
声に出さなくとも、彼女の顔に張り付いた悲愴さからは、そんな思いが透けて見えるような気がした。
シュゼットの背後では、エステルが敵意をむき出しに、集められた人々一人ひとりの顔をゆっくりと見回し、ロズリーヌは無表情に宙空を見詰めている。
よく見れば彼女の瞳には、茨の様な文様が浮かび上がっているのが分かる。
『鷹の目』を展開して、周辺を警戒しているのだ。
そんな緊張感に溢れた第十三小隊の面々の中、只一人、クルスだけが「ふぁあ……」と気の抜けたような表情で、欠伸をしていた。
彼女達の目の前にいるのは、女将と宿の下男が二人。
幼い子供を膝に乗せた、三十代と思われる母親と、二人のメイドを連れた少女が一人。
下男二人は、オロオロする女将を支える様に身を寄せ合い、幼い女の子には、この状況は良く分からないのだろう。時々、大きな声で騒ごうとしては、その度に怯えて顔を蒼ざめさせた母親に、口を押えられて窘められている。
黒地に派手派手しく金糸をあしらったドレスの、いかにも金持ちのご令嬢といった少女は、不満げに口を尖らせて、シュゼットを見据えていた。
「お嬢さん、あなたはどういったご用向きでここに?」
シュゼットは、令嬢へと尋ねる。
すると、彼女は小馬鹿にするような表情を浮かべた。
そして、肩までの黒髪を掻き上げながら、左右のメイドへと口を開く。
「こちらの軍人さんは、私を疑っていらっしゃるようですわ。レオ、サハ。私達はなんでここにいるんでしたかしらね?」
少女の余りにも人を食ったもの言いに、シュゼットの片方の眉がつり上がる。
だが、そんなことはお構いなしに、メイド達が口を開いた。
「レオが申し上げます。お嬢様は、王都でも著名な豪商のご息女でございます」
「サハが申し上げます。お嬢様は商談を纏めて、王都への帰路の途中にございます」
「商談?」
「サハが申し上げます。ヨーク伯領の、葡萄酒農家との商談でございます」
「レオが申し上げます。今年は葡萄酒の出来が良いという噂を聞きつけた、がめつい旦那様が、お嬢様を代理として派遣されたのでございます」
シュゼットはメイド達の、やけに平坦な物言いに困惑しながら、思い起こす。
今年の葡萄酒の出来が良いのは事実だ。
約二か月前、ヴァンをヨーク伯の下へ迎えにいったその日、余りの旨さに、浴びる様に飲んだ結果、二日酔いに苦しんだのはシュゼット自身であった。
「では、そちらの奥さん、あなたはここへはどういうご用向きで?」
シュゼットが続いて、子連れの女性の方へと目を向けると、母親が口を開く前に、幼い女の子が答えた。
「んーとねぇ、ママねぇ、りこんしたんだよお」
「こ、こら、アイーシャ! す、すみません。お恥ずかしい話なのですが……。この子の言う通り、実家に帰るところなんです」
慌てる母親の姿に思わず苦笑して、シュゼットは質問を重ねる。
「ご実家はどちらに?」
「ヨーク伯領の西の端に、リクヴィルという小さな村がありまして、今もそこに兄と両親が住んでいるんです」
確かにリクヴィルという村はある。
兵を駐屯させるほどもない、数軒の家が軒を連ねているだけの、本当に小さな村だ。
話の内容に、特におかしなところは見当たらない。
「女将、そこの二人は、ここの下男ということで良いのか?」
シュゼットが女将にそう尋ねると、急に話を振られて、女将は思わずビクリと身体を跳ねさせる。
「は、はい。二人ともこの村の出身で、もう何年もウチで働いてくれてます」
「ふむ……女将。あなたはずっとここで宿を?」
「ええ、親から引き継いで、ずっと、切り盛りしてきました」
どの人物についても辻褄は合っている。
だが、シュゼットには誰もが怪しく思えた。
どんな質問をすれば、暗殺者を特定できるのだろうか、そんなことを考えながら眉を顰めるシュゼットに、令嬢が少しい苛立つような調子で問いかけた。
「ねえ、軍人さん。いつまでこうしてれば良いのかしら。私達、明日の朝、早くに出発しなくちゃいけないのよ」
「人が二人殺されてるんですが、そんなところであなたは平然と眠れると?」
「だって、私達には関係無いんですもの。それにこの二人、レオとサハはパパがつけてくれた腕利きの護衛。彼女たちが交代で見張っててくれるから、心配なんて何もないわ」
関係無い――その言葉にシュゼットの背後で、エステルが眦を吊り上げる。
「アンタが暗殺者かもしれないじゃない! そうじゃない保証はあんの?」
「ある訳ないじゃない、そんなの。じゃあ、逆に私が暗殺者だって証拠でも見つけたら、部屋まで起こしに来てくれれば良いわ」
呆れたとでも言わんばかりに、肩をすくめる令嬢。
「かーっ! 平民のくせに、良い根性してんな、お嬢ちゃん。結構好みのタイプだぜ」
クルスがからからと笑いながらそう言うと、「平民の癖に」という物言いが癇に障ったのか、エステルがそれをキッと睨みつける。
「王都で商売してみなさいな。袖の下を求めて難癖つけてくる軍人がどれだけいると思ってますの? そんなの一々相手してられるわけないでしょう」
「それは……なんとも耳の痛い話だな」
シュゼットが思わず首をすくめると、令嬢は勝ち誇ったような顔をした。
「じゃあ、これで失礼させていただきますわ」
「そんな訳にはいか――」
エステルが令嬢に駆け寄ろうとしたその瞬間、浴場へと続く廊下から、一人の少女が、けたたましい足音を立てて駆け出してきた。
それは、真っ赤なドレスを纏った少女。
その場にいる全員の視線を一身に受けながら、少女は肩で息をして、ぐるりと全員の顔を見回す。
「お、おい、ヴァン……ディーヌ。どうしたのだ?」
シュゼットのその問いかけに応えもせず、少女は突然、令嬢に飛び掛かった。
呆気にとられるメイド達。赤いドレスの少女は、そのまま令嬢の唇に自らの唇を押し付ける。あまりに唐突な出来事に、その場にいる人間は一様に目を見開いた。
「ううーっ!」
令嬢が呻きながら、目を見開いてもがくと、我に返った二人のメイドは、赤いドレスの少女の肩を掴んで、力任せに令嬢から引きはがし、そのまま乱暴に壁へと叩きつけた。
「ヴァン!」
エステルが慌てて赤いドレスの少女――ヴァンに駆け寄ると、令嬢は唇を手の甲で拭いながら、怒りに満ちた目でヴァンを見据えた。
「なんですの、この娘は! 頭おかしいんじゃなくて!」
だがヴァンは、令嬢の怒りの視線を真っすぐに見つめ返すと、彼女に指を突きつけて、声を上げた。
「シュゼットさん! この人です!」