第五十五話 カントの戦い その2
「クルスさん……さ、流石に、これはマズい気が……」
「かーっ! 馬鹿だねぇ、お前はよぉ。バレなきゃなんてことねぇのよ。こういうのは旅の思い出づくりなんだよ。分かんねぇかなぁ。何十年か経ってから、あの時は楽しかったなぁって、思い出すものなの。わかる? 将来への投資だよ、投資」
「はあ……」
そう言いながら、クルスは目の前の横開きの扉に、手を掛ける。
扉の上に架かっているプレートには『大浴場』。
そう書かれていた。
音を立てない様に静かに扉をスライドさせると、クルスは壁際に張り付くようにして、中へと滑り込む。
戸惑う様な素振りを見せながら、ヴァンも続いて扉の向こう側へと入った。
二人が足を踏み入れたのは、薄っすらと湯気の立ち込める脱衣所。
左右の壁に棚が並ぶ、五メートル四方程の空間。
棚の上には、脱いだ衣服の入った籠が置かれている。
見る限り、ちゃんと畳まれている物もあるが、無造作にぐちゃぐちゃに詰め込まれている物もある。
その有様に、どれが誰の物か大体分かる様な気がして、ヴァンは思わず苦笑した。
「そこ、足、引っ掛けんなよ」
クルスが顎で指し占めした先、そこには身体を洗うための木綿の布が積まれた籠が二つ。直接床の上に置いてある。
確かにこんなものに躓いて、盛大にぶちまけることにでもなったら、大事になるに違いない。
「あの……クルスさん……やっぱり止めません?」
「チッ!」
クルスはヴァンに煩わしそうな目を向けて、舌打ちする。
――ここまで来て、何言ってやがる。
その目は、明らかにそう言っている。
――だったら、自分一人だけでやれば良いのに。
一瞬そう思ったが、ヴァンにそれを口に出す意気地など、ある筈が無かった。
クルスは腰を落として、つま先立ちで奥へと進んでいく。
やがて、大浴場と脱衣所を隔てている扉の前に歩み寄ると、にんまりとした含み笑いを浮かべて、ヴァンを手招きした。
はた目には、赤いドレスを纏った黒髪の楚々とした少女と、だらしなく軍装を着崩しているとは言っても、二十代後半の女性。
そんな二人が、こそこそと女風呂を覗きに来ているという絵面が既にシュールとしか言いようが無かった。
ヴァンがおどおどした足取りで扉の前まで来ると、大浴場の方から、きゃっきゃと騒ぐ少女達の、エコーのかかった声が耳へと飛び込んでくる。
「ノエル! アンタ、また身体洗ってないんでしょ!」
「分かったから、そんな睨まないでよぉ、エステル」
「だったら、ノエル准尉、自分が背中を流すでありますよ」
「あはは、じゃ、洗いっこしようよー」
「きゃっ! や、やめてくださいであります。ノエル准尉、胸を掴まないでくださいでありますぅ!」
「あはは、兎ちゃん、やっぱおっきーねぇ! ふにふにだー」
ヴァンは思わず赤面し、クルスはヴァンの方へと向き直ると「ふ、ふにふに……らしいぞ」と、だらしなく鼻の下を伸ばした。
「いよぉし、じゃ、そろそろ拝ませてもらいますかねーっと……」
そう小声で呟きながら、クルスは大浴場へと続く扉に指をかけ、力を込めた手をぷるぷる震わせながら、慎重に親指一本分くらいの隙間をこじ開ける。
そして、その隙間に顔をくっつける様に覗き込んだその時、
「第三階梯 加重付与!」
浴場の方から、ザザの声が響いた。
「げへっ!?」
途端に、クルスが蛙が潰れるような声を上げて、無様な恰好で地面に突っ伏すと、ヴァンは思わず尻餅をつく。
「ううぅ……」
「あわわわわ……」
クルスは頬を床に押し付けられたような状態で、呻き声を上げながら手足をばたつかせ、ヴァンは尻餅をついたままの姿勢で慌てて後ずさる。
すると大浴場の方から、ロズリーヌの勝ち誇る様な高笑いが響き渡った。
「おほほほほほ! 愚かですわね、クルス大尉」
「て、てめぇ……上官に向かって、愚かはネェだろうが……」
苦し気に呻きながら、クルスが吐き捨てると調子に乗る様に、ロズリーヌがより一層、楽し気に声を上げた。
「おほほほほほほ! ざまぁありませんわね。ヴァン様を一人部屋に残しておきながら、『鷹の目』も展開せずに、のんびり湯に浸かっているとでもお思いでしたの? 貴女のしたことは最初から最後までぜーんぶ見ておりましたわよ」
「ズ……ズルいぞ」
「ズルい? 覗き魔が何を仰るやら。ヴァン様もヴァン様ですわ。そんなにワタクシの身体をご覧になりたいのでしたら、そう仰っていただければよろしいですのに」
「あ、あの、そういうわけでは……」
突然、話を振られて戸惑うヴァン。
だが、ロズリーヌはお構いなしに、話を続ける。
「そうですわ。せっかくですもの。後で二人っきりでお風呂に入り直しましょう」
「ちょっと! アンタなに言ってんのよ。ヴァンが見たかったのは私よ。でもね、ヴァン。ダメよ、そういうのは結婚して、ちゃんと夫婦になってからじゃないと……」
「あ、あの、そういうわけでも……」
「じゃあワタクシがヴァン様と結こ……って痛たたたた! エステルさん! 髪を掴まないでくださる! よくもやってくれましたわね。この小火女ァ!」
「何よ! やろうっていうの?」
「今日こそ、その赤毛をもっと赤く染めてさしあげますわ!」
途端に、浴場の方からビシッ! ビシッ! とちょっと引くぐらいの、ガチな打撃音が聞こえはじめた。
ヴァンが呆然と座り込んでいると、シュゼットが声を上げる。
「止めんか、バカ者ども! ヴァン、お前はとっとと部屋に帰ってろ! イタッ! ほう? 貴様らこの私とやりあう覚悟があるのだな!」
「ちゅ、中佐まで、や、やめてくださいでありますぅ!」
「あはは、たのしー!」
扉の向こうから、阿鼻叫喚の叫び声。
「じゃ……じゃあ、僕、部屋に戻ります」
ヴァンはそのままジリジリと後ずさると、ドレスの裾を翻して、脱兎の様に脱衣所を飛び出した。
そもそも、なんでこんなことになってしまったのか。
時間を少し遡る。
◇◆
女将に案内されて二階に上がると、そこには等間隔に七つの扉が並んでいた。
「手前の扉から五部屋をお使いください。大浴場はカウンター横の廊下を真っすぐにお進みいただければ、すぐわかりますので、いつでも入っていただいて結構ですよ」
「それは、ありがたい」
「では、食事のご用意をして参りますので……」
そう言って女将が階段を降りて行ってしまうと、シュゼットは皆の方を振り向いて口を開いた。
「では、各部屋に分かれて食事がくるまで待機。食事が終わったら、ロビーに集合だ。皆で風呂にいくぞ」
「えー、お風呂ぐらい、それぞれ勝手に入れば良くないですか?」
エステルが不満げにそう言うと、シュゼットは呆れたと言わんばかりに肩をすくめる。
「ちょっとは気を使え、バカ者。お前らがいつ入ってくるか分からんような状況では、ヴァンが風呂に入れんだろうが、それで婚約者を名乗ろうとは片腹痛いわ」
「……私は分かってましたわよ」
しれっと口を挟むロズリーヌを、エステルがキッと睨みつけた。
「我々が一斉に入った後、浴場の前の廊下に歩哨を立てて、ヴァンが入浴。で、最後にクルスが入るという順番でいくからな」
途端にクルスがシュゼットに食ってかかる
「ちょっと待て! なんでオレが最後なんだよ。オレも一緒でいいじゃねえか!」
「アホか。女もイケるとか宣う奴と、一緒に風呂なんか入れるわけなかろう!」
「安心しろ、シュゼット。お前は全くオレの好みじゃない」
「ああ、ホッとしたよ……でもダ、メ、だ!」
「横暴だ! そもそもシュゼット、お前という奴は昔から……」
尚も食い下がろうとするクルスを横目に、皆あきれ顔で、それぞれの部屋へと入っていく。
一番手前の部屋にエステルとロズリーヌ。
その隣にヴァンとミーロ。
以降ノエルとベベット、ザザとアネモネの順番に部屋へと入っていき、自動的に一番奥がシュゼットとクルスの部屋となった。
◇◆
食事はすぐに来た。
このあたりの名物だという、鶏肉とタロイモの煮込み料理と黒パンだけの簡素な食事。
それを食べ終わると、ミーロは着替えを手に大浴場へと出て行った。
「ふー……」
一人になると、ヴァンは、ドレスが皺になるのを気にしながら、仰向けにベッドに横たわって、脹脛を揉む。
慣れないパンプスを履いていた所為で、変な力の入り方をしていたのか、足が怠かった。
結局、王都に着くまでは女性のフリをしろと、軍服は取り上げられてしまった。
部屋着があるわけでもなく、ミーロが同室では、裸で寝るわけにもいかない。
結局このドレスのまま寝るしかないのかと、ヴァンは小さく溜息をつく。
だが、こうなってしまえば、ヴァンは別に抵抗はしない。
ただ、女性ものの服の頼りなさに、色々と不安を覚えるヴァンであった。
その時、がちゃりと扉が開いて、こげ茶色の髪の女性が、顔を覗かせた。
「クルス……さん?」
「……結局、他の連中が戻ってくるまで、オレはお前のお守りだとよ。お前に手ぇだしたらシュゼットがブチぎれるし、こんな田舎町じゃオネエちゃんのいる様な店もねぇしな。ったく、オレのこの欲求不満はどこで晴らしゃいいんだよ」
「……何だか……す、すみません」
入ってくるなり不満全開のクルスに、ヴァンは思わずたじろぐ。
だが、ヴァンのその様子に、クルスは少し考えるような素振りを見せると、にんまりと笑って言った。
「というわけで、風呂を覗きにいくぞ」
「は? ……という訳で、がどこにかかってるのか分からないんですけど……」
「バカかお前は。シュゼットは除いて、可愛い女の子達が裸できゃっきゃうふふしてるんだぞ。普通見たいと思うだろう?」
「いや、僕は別に……」
「かぁあああ……マジかお前。草食動物だって、もうちょっとアグレッシブだぞ」
「はあ……」
クルスは髪をガシガシと掻きむしって、呆れる様な素振りを見せる。
「ああもう、じれってえな! とりあえず来やがれ!」
クルスはそう言うと、ヴァンの腕を掴んで、否応なしに部屋の外へと連れ出した。
◇◆
脱衣所から逃げる様に部屋へと戻ったヴァンは、ベッドの上で膝を抱えて、じっと扉を見詰めていた。
しばらくすると、がちゃりと扉が開いて、ミーロが部屋へと戻ってきた。
ミーロはカンテラの薄明りに照らされた、怯える様なヴァンの表情に思わず苦笑する。
「ヴァン准尉、大丈夫でありますよ。誰も怒っていないであります。誰がどう見たって、クルス大尉が無理やりヴァン准尉を連れてきたことぐらい分かるであります」
「ク、クルスさんは……?」
「シュゼット中佐が連行されたであります。今晩一晩かけて、色々と言って聞かせる。そう仰られてたであります」
「うわぁ……」
「全く、クルス大尉殿にも困ったものでありますね。そもそもヴァン准尉が、積極的に女性に興味をもってくださるようなら、ロズリーヌ准尉も自分も何の苦労もないのであります」
そう言って、小さく溜息を吐くミーロ。
その意味が分かっているのか、いないのか、ヴァンはベッドを降りて立ち上がった。
「じゃ、じゃあ……僕、お風呂に行ってきます……ね」
だが、ミーロは小さく首を振った。
「それが……でありますねヴァン准尉。あの後、シュゼット中佐が躱した、アネモネ軍曹の一撃で、浴槽の底が抜けてしまったであります」
「は?」
シュゼットが、アネモネの一撃を躱す?
最後の方は一体どんな状況になっていたのだろうか……。
「請求書はマルゴ要塞に回るらしいので、ラデロ少佐に怒られると、シュゼット中佐は大分凹んでおられたであります」
「じゃ、じゃあお風呂は……」
「今日はもう無理でありますね……」
まあ、そうなってしまっては仕方がない。
その辺り、農奴としての生活が長すぎたせいか、ヴァンは諦めが早かった。
ヴァンが再びベッドの上に戻ると、ミーロがつまみを回して、カンテラの灯りを消す。
真っ暗な部屋の中で、ミーロの声がヴァンの耳に届いた。
「おやすみなさいであります」
◇◆
灯り一つない部屋の中、ヴァンはもう小一時間ほども、目を瞑ったまま寝返りを繰り返している。
どういう訳か変な胸騒ぎがして、目が冴える。
それでも更に時間が経って、瞼に眠気が居座り始めた頃。
暗闇の中で、突然、ミーロが激しく咳き込んだ。
「だ、大丈夫ですか……?」
ヴァンが暗闇の向こう、ミーロの方へと問いかけても、返事は返ってこない。
だが、暗闇の中から、ハアハアと熱っぽい呼吸音が聞こえる。
ヴァンは、慌ててカンテラに灯りを灯す。
そしてミーロの方へと目を向けると、目を見開いて絶句した。
隣のベッドの上、横たわるミーロの口元の辺りのシーツにどす黒い染み。
ミーロの口元からは、血が零れ落ちている。
眉を寄せて、苦しそうに横たわるミーロのその顔は死人の様な土気色で、額には玉の汗が浮かんでいた。
「ミ、ミーロさん!」
「ハァ……ハァ、ヴァ、ヴァン准尉、なにかがおかしいで……あります、く、苦しいであります。目が……目が見えないであります」




