第五話 マルゴ要塞
月明かりの山道をカンテラの淡い灯りが登って行く。
鬱蒼とした木々に囲まれた細い道。
輝鉱動力の苦しげに喘ぐ様な音が、遠くの方まで響き渡っている。
御者台の脇に吊り下げられた二つのカンテラだけでは、流石に視界が悪く、速度しか取り柄の無い『山猫』もそれを落とさざるを得ない。
レーヴル王国西の要衝、マルゴ要塞まではもう目と鼻の先。
いや正確に言うならば、実はもう到着していると言っても間違いでは無い。
この山道の真下には、マルゴ要塞の地下施設がある。
峻嶮なるイエルプ大陸の天井。
数千メートル級の峯が東西を断絶するマルゴ山脈において、最も低い山頂。
そこにマルゴ要塞がある。
山頂部がそのまま石作りの城砦に置き換わっている様なその部分を指して、人々はマルゴ要塞と呼ぶが、実際は地面の底、この山の大部分が蟻の巣のように掘削されて要塞化されているのだ。
外から見てそれと分かる城砦部分は、例えるならば海面に出た氷山の一角の様なものだ。
このマルゴ要塞は面積だけで言えば、一つの都市にも匹敵する。
内部には大きな貯水槽と食料庫が備わっており、数千人の兵士が最大で一年は持ち堪えられるだけの蓄えがあり、地下牢や沐浴場、製パン所にその他、娯楽施設なども充分に備えられている。
その堅牢さと備蓄の豊かさで難攻不落を謳われるこの要塞は、すでに二度に渡って帝国の侵攻を食い止めたレーヴル王国の盾、防御の要である。
この要塞の西側、裾野を下ってわずか数キロで帝国領。
まさに最前線であった。
「どうだ、ヴァン。他に分からない事は有るかね?」
『山猫』の荷台の上、シュゼットはここまでの道のりの間に、軍人としての振る舞い方をヴァンに語って聞かせていた。
もちろん走る車両の上で話せる範囲のこと。
ほとんど一般常識の話に終始して、軍人としての知識はほんのさわり程度でしかない。
だが、農奴として育てられた彼は、教育を受けた事など有る筈も無く、老人に教えられた簡単な読み書きができる程度。
「ごめんなさい。何を質問すれば良いのかまだ……」
急にたくさんの事を教えられても、ついていけない。
正直、少年は頭の中がぐっちゃぐちゃであった。
「ふふっ、まあそうだろうな。だが聞きたいことがあれば今のうちに聞いておけ。これでも一歩ゲートを潜れば、私も最高責任者だからな。気軽に話しをしてやる訳にもいかなくなる」
シュゼットはそう言った途端、「ん?」と考える様な素振りを見せた。
「いや、深夜にこっそり部屋を訪ねてもらえば……教えてやれんこともないのか?」
「ダメです。最高責任者自ら、周囲の誤解を招く様な真似は慎んでください」
ラデロが振り向きもせずに上司の発言を一刀両断にし、シュゼットは大袈裟に肩を竦めた。
「ラデロは真面目で困る」
「常識の話をしただけです。中佐が若い燕を囲っているとでも、噂になったらどうするおつもりですか!」
シュゼットは一瞬口を尖らせた後、悪戯っぽくニッと笑った。
「丁度良い、ヴァン。君はこれから魔女ばかりがいる要塞で生活するのだから、覚えておくといい。我々魔女の間にはこういう言葉がある。『どんな魔法を使うのか知りたければ、そいつの人間性を見れば良い』だ」
「人間性……ですか?」
「そうだ。魔女はそれぞれ一つの系統の魔術回路を身に着けて産まれてくる。火炎系統なら火炎系統、氷雪系統なら氷雪系統といった具合にな。そしてその系統と人間性は基本的に一致する。火炎系統ならば気性の激しい者が多く、氷雪系統ならば冷静な人間が多い」
「はい……覚えておきます」
「うむ、良い返事だ。で、さっき丁度良いと言ったのは……つまりそう言う事だ。堅苦しい人間が使う魔法と言えば……」
ニヤニヤしながら話を振ってくるシュゼットから、ヴァンは思わず目を逸らした。
……そこで話を振らないで欲しい。
それはヴァンの偽らざる気持ちである。
彼の尻の下で、クッション代わりにプルプルしているもの。
それは鉄製の円楯。
これは出発するときに、ラデロが魔法で柔らかくしてくれたのだ。
つまりラデロの魔法は『鉄』。
シュゼットの質問に答えてしまったら、「ラデロは堅苦しい」そう言ってしまうのも同然なのだ。
「中佐……中佐のお尻の下から魔法を解きますよ?」
「やめろ! こんな山道でダイレクトに振動を喰らったら、尻が壊滅的ダメージを受けるだろうが!」
慌てるシュゼットの様子にヴァンは、思わずくすりと笑う。
なんだかんだ言っても、この二人は上司、部下の立場を超えて仲が良いのだろう。
ヴァンの口元が緩むのを見て、シュゼットは優しく微笑み、
「なんだ、お前、笑えるではないか」
そう言って、ヴァンの髪を撫でる。
なんだか気恥ずかしくなって、ヴァンは思わず俯いた。
「しかし、ヴァン(vain)という名はやはりマズいな。それをネタにお前をからかう者も出て来そうだ」
「そうですね。我々の目が届かない場合もありますから……」
シュゼットは顎に指を当てて少し考える。そして、
「今日からお前はヴァン(vent)と名乗ると良い。少し発音は変わるが、まあ全く違う名前よりは違和感はなかろう」
「……あ、ありがとうございます」
「ふふっ、これで私はお前の名づけ親だ。さあ、お母さんと呼べ!」
唐突なシュゼットの要求に、ヴァンは思わず目を丸くする。
「おか……?」
「……中佐、ヴァン君が困ってます。戯れはそれぐらいにしてください」
ラデロが呆れる様にそう言うと、シュゼットはハハハと豪快に笑った。
「ところでラデロ。ヴァンを任せるのは誰が適任だと思う?」
「やはりリュシール中尉でしょうね」
「おいおい、またリュシールに任せるのか? ラデロ……お前、リュシールの包容力を頼りにするのは良いが、困ったら皆、十三小隊に放り込めば済むと思っていないか?」
「大丈夫ですよ。リュシール中尉の包容力(物理)は底無しですから」
今何か『包容力』という単語に、不穏なニュアンスが乗っていたような気がした。
「まあ、確かにリュシールは適任だとは思う。だがあそこの問題児どもは間違いなくヴァンに食って掛かるぞ。特にエステル准尉の男嫌いは酷いものだと聞いている」
「それで良いんです。この子は我慢する事に慣れすぎています。良いにしろ悪いにしろ、喧嘩を吹っ掛けてくるような人間と、衝突の一つも起こさなきゃダメですよ。あの騒がしい部隊を仕切れるリュシール中尉ならば、ちゃんとフォローしてくれるはずです」
「ふむ」
そう言ったきり、シュゼットは考え込む様に黙り込んでしまった。
やがて『山猫』は、苦しげに喘ぐ様な音を立てながらも、長い勾配を昇り切り、山頂の城砦へと辿り着く。
長い年月の間に苔むした城壁。
その回りをぐるりと一周するような周回路を走行しながら、ヴァンは城壁の巨大さに、思わず口を閉じるのを忘れて見上げていた。
盛大に軋むような音を立てて城門が開き、『山猫』はその内側へと入ると、そのまま石畳の通路を走って、何十台もの車両が停車している広場の様なところで停止した。
「着いたぞ。ヴァン」
「は、はい」
荷台から飛び降りたシュゼットは、ヴァンに向かって手を差し伸べ、ニコリと笑うとこう言った。
「さて、今日からここがお前の家だ。ようこそマルゴ要塞へ」