第四十八話 スぺイロ渓谷 高速悪魔との死闘(後編)
「第二階梯 光速指弾ぉ!|」
紅蓮の獅子から転げ落ちて、蹲るヴァンの身体のすぐ上を、ノエルの光の槍が掠めて地面を穿つ。
敵の姿が見えた訳でも無ければ、もちろんヴァンを狙った訳でもない。
敵は、地面に転げ落ちたヴァンを狙ってくるはず。
それを見越しての牽制攻撃だ。
ノエルの光の槍のすぐ後に、紅蓮の獅子がヴァンを守る様に覆い被さるのを見て、ノエルはホッと安堵の息を吐いた。
だが、それとほぼ同時に、今度は背後で、タッ! と獣の足音が響いて、ノエルは思わず身体を強張らせる。
「第二階梯 光速指弾ッ!|」
ノエルが振り向き様に光の槍を放つと、それを躱すように、足音が遠ざかった。
光の速さで飛んでくるものを躱す事など、普通の生物ならば、考えられないことだ。
「うわぁ……マジで悪魔なのかな、それは流石にシャレになってないよぉ」
ノエルは明るい色の髪を掻きあげながら、いつもの笑顔に困惑の色を滲ませる。
その時、高速車両の御者席から、マセマーが声を張り上げた。
「ノエ姉ちゃん、ヴァン兄ィ! 乗って! とりあえず逃げるよ!」
「がってん!」
ノエルが荷台に飛び乗り、駆け寄ってきたヴァンが、荷台に手を掛けた途端、ギャギャギャ! という暴れる鳥の鳴き声の様な音を響かせて、LV―03『山猫』が前輪を浮き上がらせる。
「ちょ、ちょちょ、ちょっと待ってください!」
思わず声を上げるヴァン。
ノエルは慌てて荷台から身体を乗り出すと、ヴァンの腰のベルトを掴んで、「よっこらー!」と引っ張り上げる。
ヴァンは荷台に転がり上がると、どきどきと脈打つ胸を押さえて、思わず深く息を吐いた。
「大丈夫?」
「は……はい、なんと……かっ!?」
ヴァンはノエルの方へと目を向けた途端、驚愕に思わず目を見開いた。
敵の最初の一撃で切り裂かれたのだろう。
ノエルの胸元からおへその辺りにかけて、薄っすらと赤い傷が走っている。
傷は皮を傷つけた程度の軽傷、問題はそこではない。
なんで、それが分かったかだ。
ノエルは切り裂かれた上着を投げ捨て、前の開いたシャツをボタンも留めず羽織っているだけ。
フリルで飾られた水色の下着が、ヴァンの目に飛び込んできたのだ。
顔を真っ赤にしながらも、釘付けになっているヴァンの視線。
それを気にする様子もなく、ノエルはマセマーの方へと顔を向けた。
「あはは、で、マセマーちゃん、逃げてどうすんの?」
「うーん、本当は一度戻って態勢を立て直したいんだけど、こんなところじゃターンも出来ないし、こうなったら逃げながら対策を考えるしかないよねー」
「えー! 無計画なの!?」
「厳密には無計画ってわけじゃないんだけど、ちょっと賭けの要素が大きいんだよねー」
「賭け?」
マセマーは、背後を走っている炎の獅子に、ちらりと視線を走らせる。
「そう、賭け。最悪、後でめっちゃ怒られる事を覚悟すれば、ヴァン兄ィに大規模な魔法を使って貰うって、手が残ってるんだけど……その最後の手段を捨てるかどうかって賭けだよ」
マセマーの言わんとする事が飲み込めず、ノエルは首を傾げた。
マセマーは、アクセルを踏み込んで更に速度を上げると、宙にいるリルの方へと、声を張り上げる。
「リル姉ちゃん! なんか気づいたことなーい?」
「わっかんないよぉ! 目で追いかけても、全然追いつけないんだもん!」
泣きそうな声で返事をするリルに、マセマーは溜息を吐く。
「しゃーないなぁ、ねぇ、ヴァン兄ィ! チョーカー持ってきてるよね?」
「はい、も、持ってます」
「じゃあさ、その子引っ込めて、それ着けてよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ、マセマーちゃん! 今、この子が消えたら、『高速悪魔』がすぐに襲い掛かってくるんじゃないの?」
「だから、ノエ姉ちゃんはヴァン兄ィがチョーカー付けたら、足音のする方を適当に撃って、牽制しといて」
「適当って……」
ノエルが困惑気味に呟くと、マセマーはそれを無視して、再び宙へと顔を向ける。
「リル姉ちゃん、降りて来てよ」
「……はぁい」
マセマーのすぐ隣に降り立ったリルは、目尻に涙を溜めてしょんぼりしていた。
どうやら双子とはいえ、ルルとはかなり性格が違うらしい。
「ごめんねぇ、あんまり役に立てなくて……くすん」
「いいのいいの、これから役に立ってもらうから」
「え、なに?」
「ヴァン兄とちゅーして」
その瞬間、高速車両の上で、空気が凍り付いた。
「「えええええっ!?」」
リルとヴァンが、同時に声を上げる。
最近では、ヴァンもキスされる事に、若干慣れてきた節もある。
だが実年齢はさておき、リルはこの見た目である。
幼女とのキスなど、想像するだけで背徳感が半端ない。
「いいじゃん。親戚のお兄さんと挨拶替わりに、キスするような感じだよ」
「し、しないよ! 普通」
リルが怯える様に、身を捩る。
「まどろっこしいなぁ。じゃお父さんでもいいからさ。そもそもリル姉ちゃんを副官の人に推薦したのは、ヴァン兄ィの中で混ぜたら、高速移動出来そうな魔法を持ってるから。要はキス要員なんだよ」
「ええッ、ひどぃい!」
「あはは、なるほどね、なんでこんなメンツなんだろうと思ってたんだよね」
泣き出しそうなリルとは対象的に、ノエルが楽しそうに笑った。
だがリルも、いつまでも嫌がっている場合ではない事ぐらいは分かる。
今にも泣き出しそうな顔で、荷台の上に座り込んでいるヴァンの前へと歩み寄ると、蚊の鳴くような声で囁いた。
「お兄ちゃん、目を瞑って……ください」
「は、はい」
ヴァンがチョーカーを付けると、溶ける様にパイロスの姿が掻き消える。
そして静かに目を瞑った次の瞬間、ヴァンの唇にチュッと、軽く触れる柔らかい感触があった。
途端に激しい頭痛がヴァンを襲い、頭の中に新しい魔法の全容が刻み込まれる。
「どうヴァン兄ィ? これで『炎』と『翼』が混じった筈だけど……」
頭痛に顔を顰めながらヴァンが頷く。
「は、はい。『高速噴射』っていう魔法になったみたいです。たぶん、凄い速さで飛べるんだと思うんですけど……」
「けど?」
「直線的な動きしか出来ないみたいで、此処だと早すぎて壁に激突します」
マセマーが思わず天を仰ぐ。
「あちゃー、そういう感じか。あくまで長距離移動用の魔法なんだね」
「ふええ……ごめんね、役立たずでごめんねぇ」
マセマーのがっかりした様子に、リルがべそを掻いた。
「あ、大丈夫、大丈夫。本命はこれからだよ、というわけで、ノエ姉ちゃん。よろしく」
「あはは、わかってたよ。ボクもキス要員って事だね。ヴァン君、覚悟してよね」
そう言いながら、ノエルは座り込んだままの、ヴァンの前に跪く。
能天気な笑い声とは裏腹に、頬がほんのりと赤く色づいているのがわかる。
シャツの前がはだけている所為で、水色の下着に包まれた膨らみが目に飛び込んできて、ヴァンは思わず目を泳がせた。
「あはは、ヴァンくんのえっちぃ。そんなに見たい? 見せたげよっか?」
「えっ!? いや、その、そんなつもりじゃ……」
盛大に慌てるヴァンの様子に、マセマーが呆れた顔をする。
「ノエ姉ちゃん、からかってる場合じゃないんだって」
「ちぇ、おもしろかったのになー」
ノエルは一瞬、不満げに唇を尖らせた後、すぐにヴァンに向かって悪戯っぽく微笑んだ。
「じゃ、マセマーちゃんがうるさいから、ちゃっちゃと済ましちゃうね」
その途端、ヴァンの返事を待つことなく、ノエルは唇を押し付けた。
「どうヴァン兄ィ?」
「……は、はい。たぶん行けます」
こめかみを指で押さえながら、ヴァンが答える。
「今度は、どんなの?」
「『光速跳躍』って言うみたいです。距離は短いですけど、目で見た場所に瞬間で移動でき……」
ヴァンがそこまで言い掛けた途端、『山猫』の荷台のすぐ後ろで、タッ! と短い獣の足音が響いた。
「マセマーさん! 止めて!」
ヴァンの突然の声に、急停車する『山猫』。
「わわわわ!」
「ひゃあ」
思わず、転げ落ちそうになって声を上げるノエルとリル。
『山猫』が突然止まったせいで、勢いあまって上を飛び越えたのだろう。
次に獣の足音が響いたのは、『山猫』の進行方向から。
獣の足音が響いたその瞬間、ヴァンは魔法を発動させる。
――跳ぶ!
そう考えた時には、既に視線の先へと移動し終わっている。だがそこに敵の姿はない。再びタッ! と足音が聞こえた瞬間、ヴァンはそこへと視線を移す。
今度は少しタイミングが早い。いままで見えなかった敵の姿、その一部が見えた。それは犬の様な後ろ足。そのまま今度は、そいつが跳んだ方向へと、足音がするより先に跳ぶ。
タッ! という足音がすぐ傍で聞こえて、今度は下半身全体が見えた。犬? 狼か? 微かに見えたその毛の色は明るい黄土色。次こそはと、ヴァンは再び跳躍する。
そして、
――捉えた!
眼の前に黄土色の獣の背が見えた。想像していたよりもずっと小さい。中型犬ぐらいの大きさだ。
「うぉおおおおおお!」
ヴァンは雄叫びを上げて、背後から獣の背に組み付いた。
思わず振り向いた獣のその首に、腕を回して体重をかけ、上から押さえつける。
だが、獣もじっとしてくれる訳ではない。
後ろ足で土を跳ね上げ、首を伸ばしてヴァンの肩に喰いつこうと必死で暴れる。
至近距離で睨みあう少年と獣。
だが、ヴァンも特段、腕力に秀でているという訳ではない。
絡みついていたヴァンの腕を跳ね上げると、獣はヴァンを馬乗りに押し倒して、鋭い牙がヴァンの眼前に迫る。
だが、その瞬間
「光速指弾ッ!」
ノエルの声が闇を切り裂いて、ヴァンの顔の至近距離でシュボッ! と火の灯るような音が響く。
獣の三白眼がぐるりと、ひっくり返って白目を剥いた。
獣の眉間に開いたコイン程の大きさの穴から、ヴァンの上へボトボトと生暖かい液体が滴り落ちた。
ヴァンは、もがく様に獣の身体を払いのけると、肩で息をしながら身を起こし、顎を上げて荒い呼吸を整えた。
「あはは、やったね! お疲れぇ!」
駆け寄ってきたノエルが、満面の笑顔をヴァンに向ける。
「は、はい……ノエルさんのおかげでなんとか……」
「あはは、最後だけね。でも、かっこよかったよ。エステルがメロメロになってるのも、ちょっと分かった気がしたかも」
「そんな……」
そう言って口ごもると、ヴァンはモジモジと俯いた。
そんなノエルとヴァンを他所にリルは、獣の死体をツンツンと指で突いてマセマーに問いかける。
「結局ぅ、何なのこれ? 犬?」
「コヨーテだね、ま、狼と犬の中間。親戚みたいなもんだよ」
「へぇ……でも、コヨーテって普通、こんな早く動けるものなの?」
マセマーは、ゆっくりと首をふる。
「よく訓練されたコヨーテを、何らかの魔法で強化したってとこかな。どんな魔法だか分かんないけどねー」
「誰がそんなことを?」
「まあ、山賊の類だったらいいなとは思うね、単純で」
「じゃなかったら?」
「たぶん実験」
「実験? 何の?」
「まあ、その辺は後で調査にくる人達にまかせるとして、とっとと戻ってどこかで野宿の準備をしようよ。お腹減ったし」
マセマーがそういった途端、ノエルのお腹がぐーーーっと大きな音を立てた。
「うわああああ、見ないで!?」
途端にノエルは顔を真っ赤にして、両手で顔を覆う。
下着は平気なのに……。
ヴァンは、やっぱり女の子は良くわからない。と、溜息を吐いた。