第四十七話 スぺイロ渓谷 高速悪魔との死闘(前編)
壊れたカンテラから漏れ出した油が、地面で明々と燃えている。
ノエルとヴァンは『山猫』の荷台から飛び降りて、御者台で硬直している白衣姿の少女を守る様に身構えた。
「あはは! びっくりしたぁー! リル! どう? 何か見えた?」
「暗くて全然、分かんないよぉ」
ノエルの問いかけに、宙空に浮かんでいる小さな女の子が泣きそうな顔で応じる。
両側を切り立つ崖に挟まれた街道。
カンテラの灯りより他に、光の無い暗い一本道。
耳を澄ませば、タッ! タッ! という獣特有の接地時間の短い足音が、四方八方から聞こえてくる。
だが、数は一つ。
時折、カンテラの灯りに照らされて、黒い影が過る。
崖の壁面を恐ろしい速さで、飛び回る影。
ノエルは、両手の人差し指を立てて身構え、ヴァンも掌を翳して、周囲を警戒する。
獣の足音がする方へ眼を向けると、次の瞬間には、真逆の方から足音がする。
じりじりと追い詰められる様な感覚に、笑顔を浮かべたままのノエルの頬を、冷たい汗が滑り落ちた。
――グウウゥ……
突然、ノエルの耳元で唸り声がした。
獣特有の生臭い臭いが鼻を衝く。
「ッ!?」
慌てて背後に飛ぶノエル。だが、一歩遅い。眼前を過った黒い影に、胸元を斜めに切り裂かれて、カンテラの灯りの中、ノエルの赤い血が跳ねた。
「ノエルさんッ!」
「あはは! 大丈夫! かすり傷だから」
ヴァンはホッと息を吐くと、暗闇を睨みつけて、地面へと掌を押し付け、声を張り上げた。
「わが胸の奥より来たれ! 汝の名は――」
赤い炎が走って、地面に火炎系統の魔術回路を描いていく。
「――灰燼の王、パイロス!」
地面に描かれた炎の魔術回路、そこから鋭い爪を持った獣の腕が飛び出し、巨体をくねらせながら、炎に包まれた獅子が這い出てくる。
燃え盛る鬣を持つ、紅蓮の獅子。
周囲がその身体に纏う炎で一気に明るくなった。
黒い影が、街道の両脇の壁を飛び跳ねるのが見える。
跳ねる瞬間を、何とか目で追えるぐらいの凄まじい速さ。
未だに、どんな化物なのかもわからない。
足音のする方を目で追うヴァンに、背後からマセマーが叫ぶ。
「ヴァン兄ィ! でっかい魔法は使っちゃだめだよ! この街道が使えなくなったら、南の方の町が干上がっちゃうんだから!」
「わ、わかってます!」
ヴァンはパイロスの背に飛び乗って、耳に神経を集中させる。
タッ! タッ!という足音を意識の中で捕まえて、次の音のするであろう方向を予測する。
「そこだッ!」
「ガァアアア!」
鋭い咆哮と共に、パイロスが爪を立てて壁面を薙ぎ払う。捉えた! ヴァンの目にもパイロスの爪が、飛んでくる影を捉えた様に見えた。
だが、影はあっさりとパイロスの爪を躱して、ヴァンの方へと飛び掛かってくる。
「は!? 速い!」
反射的に、眼前に構えたヴァンの腕から、血が噴き出る。
そのまま、ヴァンはパイロスの背から跳ね飛ばされて、二度、三度と地面をバウンドした。
◇◆
時間を少し遡る。
「なんだそれは……馬鹿馬鹿しい」
シュゼットはソファーの背もたれに頭を乗せて、呆れる様に天井を見上げる。
「確かに馬鹿馬鹿しいのは否定しませんが、そういう要請が来ておるのは事実ですから」
正面に座るラデロが、書面に目を落としたまま応じた。
「高速悪魔? なんだそのバカげた名は。いつからこの国は、そんなおとぎ話みたいな代物が跳梁跋扈する様になったのだ」
「まあ、ヴァン君のパイロスの例もありますから、一概に迷信だと断じるのは憚られますが……。大方、野犬か何かに怯えた商人が、大げさに吹聴したのでしょう」
シュゼットはひらひらと手を振る。
「ヴァンのは例外中の例外だ。あんなのが次から次へ出て来られては、堪ったものじゃないぞ」
ラデロは書類から顔を上げて、くいっと眼鏡を押し上げる。
「ですが、スペイロ渓谷で隊商が幾つも襲われているというのは事実でしょう。流通に目に見えて滞りが出たからこそ、我々に討伐の指示が降りてきたのでしょうから」
「まあ、放置する訳にもいかんか……」
「そうです」
「で、その高速悪魔とやらは、何匹出るのだ?」
書類をペラペラと捲りながら、ラデロが答える。
「一匹の様ですが、速すぎて真面に確認出来た者は居ないようです」
「小隊を差し向ける規模ではない……か」
「そうですね。速さに対応できる人員を選抜しての対応が望ましいかと」
「ラデロ、人員の選抜はお前に任せる」
シュゼットがそう言った途端、けたたましく扉が開いて、白衣姿の少女が執務室へと飛び込んできた。
「話は聞かせてもらったよ!、興味深い! ロウも同行させてもらうよ。高速車両の運転ぐらいするからさ」
一瞬の静寂の後、ラデロが小さく肩をすくめると、シュゼットがおもむろにソファーから腰を上げる。
そして、興奮気味に騒ぐ姪の方へと歩み寄ると、
「えっ!? シュゼ、なんでそんな怖い顔して……え、うそ、ぎゃああああああ」
無言でマセマー=ロウのこめかみを、拳で挟んでグリグリした。
◇◆
「あはは、ひっどい乗り心地だねぇ、これ」
「うええ、リル……気持ち悪くなってきちゃった」
「お尻が……痛いです」
「速さ以外はもう、全部投げ捨てちゃってるからね、これ」
三輪の荷馬車のような高速車両
LV―03 『山猫』
御者台にはマセマー=ロウの姿があり、荷台の上には三人の選抜メンバーの姿が見える。
一人は明るい色をしたショートカットの少女、ノエル。もう一人は泣きそうな顔をした幼女、第八小隊のリル。そしてヴァン。
一人だけ平気そうな顔のマセマーは、背後で呻く三人の様子に構うことなく速度を上げていく。
「スぺイロ渓谷は、ロウも行った事ないけど、ここからなら多分八時間ぐらいかなぁ。夜には着くとおもうよ」
「よ……夜まで。八時間もこれに乗るの!?」
「あはは、独居房の地獄を思えば耐えられるよ」
思わず、涙目になるリルに対して、ノエルは楽し気に声を上げる。
ノエルは今朝、第十一小隊を襲撃した罰として閉じ込められていた独居房から、解放されたばかりであった。
「でも……悪魔なんて、ホントにいるんですかね」
ヴァンがおずおずと問いかけると、マセマー=ロウは腹を抱えて笑い転げる。
「はははは、ヴァン兄ィがそれを言うの? でも今回のは、なんかトリックを感じるよね。荷物をおいて逃げた隊商が、朝になって戻ってみたら、根こそぎ荷物は無くなってたってんだから、少なくとも人間が、裏で糸を引いてるとみて間違いないと思うよ」
◆◇
やがて、日が沈み、夜の帳が世界を覆ってしばらく経った頃、LV―03 『山猫』が軽快な輝鉱動力の音を響かせて、スペイロ渓谷へと差し掛かる。
道の両側を切り立った崖に挟まれた、南北を結ぶ街道。
道幅は馬車が二台、どうにかすれ違えるほどしかない。
「ううっ……真っ暗……」
リルが不安げにそうつぶやくと、ノエルがよしよしと頭を撫でる。
年の離れた妹を宥める姉とでもいう様な、微笑ましい風景ではあったが、実際はリルの方が、ノエルより八歳ほど年上だったりするのだから、世の中、油断も隙もあったものでは無い。
だが、実際切り立った崖に遮られて、月明かり、星明りもほとんど届かないこの街道には、真の闇が蟠っている。
御者台の脇に吊り下げられたカンテラだけが、唯一の光源であった。
マセマー=ロウは操縦桿を巧みに操りながら、背後へと声を掛ける。
「しっかし、本当に夜にここを通ろうって方が、間違ってる様な気がするよね。でも、これが二十キロぐらい続くっていうんだから、差し掛かるタイミングによっては、通っている内に夜になっちゃうってことなんだろうね」
マセマーが呆れ気味にそう言った途端、正面に目を向けていたノエルが大声で叫んだ。
「みんな! 気をつけて! 何か来ちゃうよ!」
その声に弾かれる様に、マセマーが慌てて車両を急停車し、リルに向かって声を上げる。
「リル姉は、上から周りを警戒して!」
「了解ですぅ!」
宙に浮き始めるリルを他所に、ヴァンは正面の暗闇の方を睨みつける。
耳を澄ませば、街道の奥の方から、タッ! タッ! という接地時間の短い、獣特有の足音が近づいてくるのが聞こえた。
緊張の面持ちで、足音の主が現れるのを待つ。
だが、突然、数メートル先で足音が消えた。
――止まった?
ヴァンがそう思った次の瞬間、真横の壁面でタッ! という短い足音が響く。
途端に微かな獣の息遣い、眼前を過る黒い影。
御者台に吊られたカンテラが跳ね飛んで、ガシャンと壊れる音と同時に、漏れ出した油に引火して、赤く炎を上げた。