第四十六話 猫とベベット
ヴァンの失踪事件の翌日の事。
要塞内部の警備任務を割り当てられたベベットは、内なる魂の要求に応えて、可及的速やかに、休息行動を取ることにした。
平たく言えば、サボって居眠りをしていた。
中庭に停まっている高速車両の荷台の上。
ベベットは、ベゴニアの香りと、ぽかぽかと温かい午後の日差しの中で、気持ちよく眠っていたのだが、なんだか胸のあたりが圧迫されるような感じがして、うっすらと目を開けた。
するとそこに、黒い塊が乗っかっていた。
薄いとはいえ、ベベットも女の子である。
その膨らんだ女の子な部分を枕にして、ねこがねころんでいたのだ。
断じてダジャレではない。違うから、本当に。
ともかく、ベベットが目を開くと、猫がピクリと髭を震わせて、片目を開けた。
「猫さん……」
「にゃー」
「そこにいられたら、起きられない」
だが、ベベットの必死の説得も空しく、猫は再び彼女の胸を枕に目を細めて眠りにつく。
仕方がないので、ベベットも目を瞑る。
不可抗力。しかたがない。
職務に戻りたかったが、圧倒的な力で押さえつけられては、抵抗のしようもない。
恐るべし黒い猛獣……ということで、おやすみなさい。
ベベットは、再びすやすやと寝息を立て始めた。
◆◇
「にゃー」
「……猫さん?」
次にベベットが目を覚ました時には、猫は胸の上に座っていた。
夕暮れ時というにはまだ早いが、太陽が少しだけ傾き始めたそんな時間帯。
狂暴な黒い猛獣は、ベベットの顎を、肉球でグイッと押して起こすと、悠然と体の上から降りて、そのまま荷台の上からも飛び降りる。
「……猫さん」
「にゃー」
「……どこいく?」
「にゃー」
猫は、ベベットの方を振り向いて鳴いた後、屋内への入り口へと悠然と歩いていく。
ベベットはゆっくりと起き上がって、荷台から降りると、ぽてぽてとその後について歩き始めた。
猫はついて来ているのを確認するように、時折、ベベットを振り返りながら、階段を降りて、廊下を悠然と歩いていく。
やがて、地下の一階、わずかに開いたままになっている扉の隙間を抜けて、倉庫の方へと入っていった。
後を追って、ベベットも倉庫の中へと足を踏み入れる。
そこは、いわゆる日用品の備蓄倉庫。
山と積まれた木箱、階段状に積まれたその木箱の上を、猫は器用に跳ねて、山の上の方、天井にほど近いところまで登っていく。
そして、ベベットを振り返って一声鳴くと、天井近くの壁に開いた穴へと入っていった。
「うんしょ……」
ベベットは木箱の上に登って、その穴を覗き込む。
直径十五センチほどの穴。
結構奥まで長く続いてるようで、中は真っ暗。
「猫さんのおうち?」
普通なら、これ以上どうしようもないところなのだが、ベベットには『暗い部屋』の魔法がある。
そのまま自分の影の中へと沈み込んでいくベベット。
彼女の姿が見えなくなると、影はゆっくりと這うように移動して、壁の穴へと入っていった。
穴の奥は、いわゆるパイプスペースなのだろう。
きちんと固められた土壁の中を、鉄製のパイプが何本も走っている。
それをさらに奥の方へと進んでいくと、高さ五十センチほど、広さは二メートルほどの空間に出た。
ベベットがそっと影から頭を出すと、目の前で猫が「にゃー」と鳴いた。
「ここに住んでる?」
「にゃー」
ベベットが手を伸ばしても、猫に逃げる様子はない。
それどころかゴロゴロと喉を鳴らしながら、ベベットの手に頬ずりしてくる。
「……かわいい」
よく見れば、どことなくラデロ少佐に似ている。
「ニャデロ」
どうやら猫の名前が決まったらしい。
ベベットは影の中から這い出ると、その狭い空間に横たわる。
高さは無いので寝ころんだ姿勢しか取れない。
ニャデロは横たわるベベットの身体の上によじ登ると、大あくびひとつ。
そして再び、ベベットのささやかな胸を枕に丸まった。
どうやら、ベベットのその部分が特にお気に入りらしい。
「仕方ない」
何が仕方ないのかはさておき、ベベットも小さくあくびをすると、再び寝息を立て始めた。
◆◇
その頃、
「ヴァン様に続いて、今度はベベットさんが行方不明だなんて、一体どうなってますの?」
「あはは、おかしいなぁ。ベベットのことだから、中庭で居眠りしてると思ってたんだけど……」
昼間に割り当てを決めて、それぞれに巡回に出たロズリーヌ班の三人であったが、集合時間になっても一向にベベットは姿を現さない。
だが、それも今に始まったことではない。
実に残念ではあるが、よくあることなのだ。
どうせ居眠りでもしているに違いないと、ロズリーヌとノエルは、中庭へと探しに来たのだが、そこにベベットの姿はなかった。
「仕方がありませんわね」
ロズリーヌは溜息を一つ吐くと『鷹の目』を発動させる。
範囲はマルゴ要塞全域。
宙空から視線を落としていくと、マルゴにいる、数多くの魔女達の姿が見えてくる。
魔女の多くは既に任務を終え、談笑したり食堂や沐浴場の方へと向かったりしている。
その中からベベットを探すとなると、正直かなり面倒くさい。
だが、ロズリーヌは突然、ビクウウッ! と大きく身体を跳ねさせると、目を剥いて顔を強張らせた。
「えっ? なに? どうしたの?」
ロズリーヌのただならぬ様子に、ノエルが慌てて声をかける。
「たたた、大変ですわ! ベベットさんが第十一小隊の隊舎の床下に埋まっていますわ!」
「へ?」
「ぐったりしてるみたい。胸の辺りが黒く見えるのは……血なのかもしれませんわ」
「な、なんでそんなことに?」
珍しく、ノエルが取り乱すと、ロズリーヌは頬を滴る汗を拭って呻くように答える。
「昨日のことでサザランド中尉は注意されていますし……それに」
「中尉を注意……それに?」
断じてダジャレではない。違うから、本当に。
「ワタクシとベベットさんは第十三小隊に異動する直前には、第十一小隊の皆さんとはかなり揉めてますから、その仕返しなのかもしれませんわ」
「揉めた?」
「ええ、どうせ異動するのだからと、二人で小っちゃい嫌がらせをいたしましたの……具体的にはナマコを……」
ノエルが思わず呆れた顔をする。
ロズリーヌとしては、ノエルに呆れられるのは心外ではあったが、今はそれどころではない。
「ノエルさん、乗り込みますわよ。急がないとベベットさんの命があぶないですわ」
「がってん! 第十一小隊の連中なんか叩きつぶしてやるよ」
◆◇
「な、なにをするお前ら! 軍規違反だぞ!」
「軍規なんか知らないよ! ぶっ殺してやるッ!」
上の方が何やらドタバタと騒がしい。
目を覚ましたベベットは、眠い目を擦りながら手を伸ばすと、ニャデロは「にゃー」と一声鳴いて、手に頬を摺り寄せてきた。
「ここ……騒がしいね……一緒にくる?」
ベベットがそう言って首を傾げると、ニャデロも一緒に首を傾げた。
穴を抜け、倉庫を出てベベットはニャデロを抱えて廊下に出た。
廊下に出ると何やら騒然とした空気が流れていて、廊下を走っていく魔女達がばたばたと廊下を走っている。
ベベットは、廊下を慌ただしく走る魔女の一人を捕まえて、声をかけた。
「どうしたの?」
「私らは野次馬よ。何だかわかんないけど、第十一小隊の隊舎に殴り込み掛けたのがいるらしくて、中佐と少佐が鎮圧に向かったんだって!」
「……なにそれ、こわい」
第十一小隊に殴り込みをかけて、シュゼットとラデロに鎮圧されるとか、命知らずもいたものだと、ベベットは呆れた顔をする。
その途端、ベベットのお腹が、ぐぅと不満げな音を立てた。
そろそろ夕飯の時間だ。
「お前にも分けてあげる」
「にゃー」
猫を抱いて、ベベットは、食堂の方へとぽてぽてと歩いて行った。