第四十五話 ヴァンが出て行っちゃった(後編)
「しっかし、危ない魔法だなぁ。破壊工作でも暗殺でも、やりたい放題じゃん。例えば、夜のうちにシュゼの椅子に印つけといて、昼間にいきなり発火とか、そういう事も出来るんでしょ?」
マセマーがニヤニヤしながらそう言うと、シュゼットが不愉快そうに顔を顰める。
「こらこら……物騒なことを言うんじゃ……」
「で……できます」
「お前も真面目に答えなくて良いから!」
まさか、今、キスしたばかりの相手に「殺せる」などと言われては、シュゼットと言えど、流石に心穏やかではない。
「じゃあ、そういう危ない魔法は、とっとと消しちゃった方がいいね。次、ロズ姉ちゃんがキスしちゃってよ。二つ目までは混ざったけど、三つめはどうなるの? って実験だね」
マセマーがロズリーヌにそう促すと、待ってましたとばかりに、彼女は、ヴァンの傍へと歩み寄る。
ヴァンは椅子に後ろ手に縛られたまま、少し怯える様に身を反らす。
それもその筈、ロズリーヌには過去に一度、夜中に襲撃を受けているのだ。
だが、そんなヴァンの様子を気にもかけず、ロズリーヌは嫣然と微笑むと、
「それでは、ヴァン様、失礼いたしますわ」
そう耳元で囁いて、いきなり膝の上に跨った。
そしてやおらに首に手を回すと、腰をくねらせながらヴァンの耳に舌を這わせる。
「ヒッ!」と、ヴァンが喉の奥で詰まった様な声を上げると、シュゼットが慌てて、ロズリーヌに詰め寄った。
「待て待て待て! おまえ、それもう実験のレベルじゃないだろうが!」
「いえ、折角ですので、気分を高めた方が良いかと思いまして」
「そんなものは要らん!」
「う、うん、そこまでは必要ないかな……ははは……」
見れば、マセマーも少し顔を赤らめて、もじもじしている。
お子様には刺激が強かったらしい。
ロズリーヌは「ハァ……」と小さく溜息を吐くと、少し残念そうに頷く。
「わかりましたわ、ちゃんと唇へのキスに留めます」
但しそれでも、ヴァンの膝の上から降りようという素振りは、見せなかった。
「じゃあ、参りますわよ」
そう言うと、ロズリーヌの唇が、ゆっくりとヴァンの方へと近づいていく。
ヴァンの喉がごくりと音を立てた次の瞬間、ロズリーヌの唇がヴァンの唇に重なった。
思わず顔を赤らめながらも、目を見開いて凝視するシュゼット。
しかし、いつまで経っても、ロズリーヌが離れる様子は無い。
ヴァンの口から呻くような声が漏れて、ぴちゃぴちゃという水音が響く。明らかに舌が入っている。ロズリーヌの舌がヴァンの口の中を嘗め回している。
最初は逃れる様にもがいていたヴァンも、次第にされるがままに動かなくなり、体中から力が抜けてしまったかの様に、縛られたままの腕が力なく垂れ下がる。
「ス……ストーップ! ロズ姉ちゃん、も、もう十分、十分だから!」
たまらずマセマーが止めに入ると、ロズリーヌは名残惜しそうに唇を離し、二人の唇の間を白い糸が引いた。
ちなみにシュゼットは、この時点で既に白目を剥いて固まっていた。
「はあ……びっくりしたよ」
「大袈裟ですわね。ただちょっと、愛が溢れそうになっただけですのに……」
ロズリーヌの意味不明な言葉を聞き流して、マセマーはヴァンの顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「は……はい、でも、やっぱり頭が痛くて……」
確かにヴァンは、痛みを堪える様に、頬を歪めていた。
「頭痛かぁ……それも何とかしなくちゃね。それはともかく、キミの中の魔法、今どうなってるの?」
「は、はい、『過去視』っていうのに、か、変わったみたいで……す」
「過去視?」
「そ、その場所で、過去に起こった事が見える魔法みたいです」
「ふーん。どうやら火炎系の要素は無さそうだね。ということは混じっちゃうのは二つまで、で、先に宿った魔法が押し出されちゃうって事かな。それってさ、見えるだけ? 音は? あと、どれぐらい過去に遡れんの?」
「わ、分かりません。……ちょっとやってみます」
ヴァンの瞳に、光彩を取り囲む様に茨の様な文様が浮かび上がる。
「音も聞こえ……ます。い、一時間が、限界みたいです」
「ふーん、今、何が見えてんの?」
「えーっと……。ほ、他の部隊の人が、は、話をしています」
そう言った途端、ヴァンの身体が小さく跳ねて、そのままピタリと動きを止める。
「どうなさいまして?」
ロズリーヌが怪訝そうに、ヴァンの顔を覗き込む。
「あ……いえ、なんでもありません」
ヴァンは首を振って、ロズリーヌに微笑み掛けた。
◇◆
「あの時、ヴァン様は一瞬、ほんの一瞬でしたけど、怒った様なお顔をされていましたわ」
「ヴァンが怒った? それは、ちょっと想像がつかんな」
シュゼットは考える。
ヴァンがエステルの為に必死になる姿を見たことはあっても、怒る様な姿は見たことがない。
正直シュゼットは、ヴァンにはそういう感情が欠落しているとさえ思っていたのだ。
「気になったので、ワタクシ一応、その時間帯にどの部隊が会議室を使っていたか調べてみましたの……第十一小隊でしたわ」
最後の方は声を潜める様に、ロズリーヌは囁いた。
途端にシュゼットは皆の方へと向き直ると、大きく声を上げた。
「こうしていても仕方がない。皆、自分の職務に戻れ! ヴァンのことは私に任せておいてくれ。あと……ロズリーヌは少し残ってくれ」
「ちゅ、中佐! 任せろと言われても……」
「雁首揃えてうんうん唸ったところで、どうこう出来る訳でもないだろうが! 解散だ! 解散!」
戸惑うエステルたちを追い出すと、シュゼットは大きく溜息を吐いて、ロズリーヌに向き直る。
「大体想像がついた。どうだ元第十一小隊の人間ならば、おまえにも何が起こったか、想像がついているのではないか?」
「……うすうすは。あそこは、中途半端に地位の高い貴族の集まり。貴族社会の悪い部分の吹き溜まりですもの。まあ、構成員を爵位でしか判断しない、サザラント中尉殿に問題があるのですけど」
シュゼットは小さく溜息を吐く。
「エステルは平民上がりだからな。あれだけ目立てば中傷もされるだろう。ましてや結婚できなかったという話は、どういう訳か、あっさり要塞中に広まったしな」
「……ノエルさんですわよ。悪気はないんでしょうけど」
「ヴァンのことだ、自分といることで、エステルが貶されているとでも受け取ったのかもしれん。出ていくのが良いという結論に至ったとしても不思議ではない」
「どうなさいますの?」
「サザランドには言い含めておくが、今日一日待って、戻って来なければ、捜索隊を出さねばならんだろう。大事にしてしまえば逃亡兵として、罪を問わねばならなくなるが、背に腹は代えられん」
その時ノックする音とともに、扉を開けてラデロが入ってきた。
「どうしたんです? 二人して深刻な顔をして」
◇◆
茜色の空、いつもと変わらぬ夕暮れ時。
エステルは城壁の上へと歩み出た。
今日一日、上の空で職務について、エステルは彼女らしくもない失敗をしまくった。
気を使ってくれるミーロとザザに申し訳ないと思いながらも、どうしようもなかった。
もうすぐ沈もうとしている太陽が、帝国の空中戦艦の残骸の向こう側に墜ちて行こうとしている。
『炎龍轟来』で全く地形の変わってしまった、西側の平野を見下ろしながら、エステルは溜息をつく。
赤から黒へと上に向かってグラデーションを描く空、真上を見上げれば、気の早い星たちが瞬きはじめていた。
エステルの頬を静かに涙が伝った。
この場所だ。
ヴァンはここで『ずっと一緒にいたい』、そう言ったのだ。
それなのに突然消えてしまった。
一言の言葉も無く、煙のように消えてしまったのだ。
ぐずぐずと洟を啜りながら、エステルは呟いた。
「嘘つき……」
思い起こせば、母も男が出て行ってしまった後は、ぐずぐずといつまでも泣いていたものだ。
そんな母親の姿を目にして、子供心にああはなるまい。そう思っていたのに、気が付けば自分は今、あの情けない母親と同じ事をしている。
「ヴァンのばかあぁぁぁぁぁあ!」
エステルは城壁の上から声を限りに叫んで、その場に座り込む。
そして、声を上げて泣きはじめた。
その時、エステルの上に黒い影が落ちた。
思わず見上げると、真上に炎を纏った獅子が浮かんでいるのが、目に入る。
「ヴァ……ヴァン!?」
「は、はい?」
獅子の背から覗き込みながら、ヴァンは間抜けな声を出した。
紅蓮の獅子は城壁の上に降り立つと、溶ける様に姿を消す。
ヴァンは、慌ててエステルの方へと駆け寄ると、おろおろしながら問いかけた。
「エ、エステルさん。なんで泣いてるんです。誰かに泣かされたんですか?」
「アンタよ!」
「は?」
「アンタに泣かされてんのよ、私は!」
「え、あ、その、あ、あの……そのすみません」
戸惑うヴァンに、エステルは、ひしとしがみついて、その胸に顔を埋めて泣いた。
◆◇
「お、落ち着きましたか?」
「どこに行ってたのよ……心配したんだから……捨てられちゃったんじゃないかって怖くて、怖くて……」
「すみません……みんなにもわかる様に、ちゃんとしておこうと思って……」
「ちゃんと?」
「……僕は、たぶん、みんなが言ってるようなシュバリエなんとかって、偉い人ではないと思うんですけど、みんなそう思い込んでるみたいなので……身分で言えば本当は農奴なので……僕の方が身分は低いんですけど……」
ヴァンの言葉は、今一つ要領を得ない。
エステルが言葉の続きを待っていると、ヴァンはポケットを弄って、掌をエステルの方へと差し出す。
そこには、紅い石の填った、傷だらけでくすんだ色をした銀の指輪が乗っていた。
「僕が結婚したいのはエステルさんだって、みんなにも分かる様に……指輪を……」
エステルは目を見開いて、それを眺める。
「心配かけて……すみません。指輪を売っている場所が分からなくて、幾つも村を飛び回って、小さな村の古道具屋でやっと一つ見つけたんです。新しい指輪じゃなくて……すみません」
エステルはそっとそれに手を伸ばし、指に嵌めた。
「……ぶかぶか」
左手の薬指に嵌めると、指輪がくるりと回った。
「す……すみません、サ、サイズって、ど、どうやったら……」
慌てるヴァンに、涙で晴らした目を細めて、エステルが微笑み掛ける。
「ふふっ、ありがとう。だーいすき!」
そう言って、エステルはヴァンの首筋へとしがみついた。
◇◆
夕闇の中に一つに重なる二つの影を眺めながら、城壁の入り口、その扉にもたれ掛る様にして、シュゼットがすぐ隣の副官に囁いた。
「全く……人騒がせな」
「ちゃんと事前に休暇として処理してありますよ。お金も俸給の前借として、ちゃんと出納部に通してあります」
「ラデロ、お前らしくもない。ヴァンにちょっと甘いんじゃないのか?」
「中佐がそれを言いますか?」
ラデロは苦笑して、再び二人の方へと目を向ける。
「私はただ真っ直ぐな物が好きなだけですよ。たぶん、私達もあの年頃の頃には持っていた筈の、あの真っ直ぐさが羨ましかっただけです」