第四十四話 ヴァンが出て行っちゃった(前編)
「お金を貸してください」
ヴァンの口から出た、余りにもらしくない言葉に、ラデロは思わず首を傾げる。
まだ、目を覚ましている者も殆どいない、夜明け前の薄暗い廊下。
自主訓練の為に、中庭へと向かう途中で、ラデロはヴァンに出会った。
「おはよう」
そう声を掛けた返事が、「お金を貸してください」だったのだから、それは当然、戸惑うに決っている。
ラデロは考える。
――お金を見た事が無いので、見せてください。
もしや、ヴァンが言ったのは、そういう意味ではないか?
彼は、つい先日まで農奴だったのだ。
お金を見たことがないとしても、十分に有り得る。
それでも、こんな朝早くにばったり合った人間に、頼むようなことではないのだが……。
「見てみたいという事ですか?」
「見て? ……僕、欲しい物があるんです」
ラデロは、顎に指を当てて考える。
いわれて見れば、ヴァンは身一つで、マルゴ要塞に来たのだ。
確かに足りないものも、あるだろう。
だが、組織内での金銭の貸し借りは、堅苦しいラデロの感覚で言えば、許される事ではない。
「じゃあ、お母さん(自称)にねだってみたらどうです? 屋敷の一軒ぐらいまでなら、寧ろ喜んで買ってくれると思 いますけど」
「や、屋敷!?」
「ああ見えて、大貴族の跡継ぎですからね、あの人」
シュゼットは三大貴族に次ぐ家格を誇る、マルゴット伯爵家の長女。ヴァンが頼めば、屋敷どころか適当な爵位すら買い与えかねない。
だが、ヴァンは逡巡するような表情を見せた後、小さく首を振った。
「いや……あの、それじゃダメなんです。お願いします。お金を貸してください。絶対に返しますから」
深く頭を下げるヴァンを、困った顔で見下ろして、ラデロは問いかける。
「……何を買いたいのか、ちゃんと教えてくれませんか? そうでないと良いも悪いも判断できませんよ」
「言わなきゃダメ……ですか?」
「ええ」
「実は……」
戸惑いながら、ヴァンはおずおずと口を開いた。
◆ ◇
「エステル少尉! た、大変でありますッ!」
ミーロが、エステルのタオルケットを引っぺがす。
赤ん坊の様に丸まって眠るエステルの寝相は、ザザが言っていたとおり、相当酷かった。
寝間着のズボンは、膝のあたりまでずり落ちて半脱ぎ状態、下着をつけていない胸元は、はだけて露わになっている。
何より、眠りについた時と、頭と足の位置が入れ替わっているあたり、一体夜の間にベッドの上で何があったのかと、呆れるしかない。
寝ぼけきったエステルは、顔を引き攣らせるミーロの首に唐突にしがみつくと、
「んん……おはようのチュー」
と、タコの様に唇を尖らせて迫ってくる。
「寝ぼけないでください! 自分でありますッ! エステル少尉!」
ミーロが掌で、エステルの頬を押しやりながら、大声を上げると、エステルの寝ぼけ眼に、次第に理性の光が現れ始めた。
「んぁ……あれ? 兎ちゃん? ヴァンは?」
エステルは寝ぼけ眼で、キョロキョロと部屋を見回す。
だが、どこにもヴァンの姿は見当たらない。
「落ち着いて聞いて下さいであります……」
「なあに? 兎ちゃん」
ミーロは、エステルの肩をがしりと掴むと、真剣な表情で言った。
「ヴァン准尉が、マルゴを出ていってしまったであります!」
「………………へ?」
エステルの気の抜けた様な声が、壁にぶつかって、ベッドの下に転がった。
◆◇
エステルとミーロ。
二人がシュゼットの執務室に駆け込むと、そこには既に第十三小隊の面々とシュゼットが、ソファーに掛けもせず、立ったまま顔を突き合わせていた。
「遅いぞ! 貴様、それでよく妻を名乗れたものだな!」
シュゼットはエステルをギロリと睨みつけると、いきなり怒鳴りつけた。
だが、エステルはいつもの様に食ってかかる事もせずも、息も吐かずに問いかけた。
「ヴァンが出ていったって、どういうことなんです!?」
「どういう事も何も、今朝早くに例の炎の獅子……パイロスだったか、あれに跨って、城壁から飛び出して行くのを見た者がいるのだ!」
その回答にエステルは、微妙な表情をする。
「それって散歩に出ただけなんじゃ……」
「バカか貴様は、ヴァンは今日の午前、びっちり予定が入っているのだぞ! サボる様な人間で無いのは、貴様もよく知っておるだろうが!」
「あはは! 中佐が結婚させてあげないからじゃないの?」
「ヤケを起こした」
ノエルが相変わらず、考えなしに口を開き、珍しくベベットがそれに同意する様に頷く。
「わ、私が結婚させない訳ではないからな、婚姻届を出しても女王陛下がお認めにならない。そう言っておるのだ!」
急に矛先を向けられて、たじたじと後ずさりながら、シュゼットが主張する。
だが、その主張を前に、ミーロはどうにも腑に落ちないといった様子で首を傾げた。
「おかしいであります。どうにも自分には、逃げるとか、出ていくとか、ヴァン准尉が主体的な行動をとったというのが、信じられないであります」
「ああ、なるほど……言われてみればそうだな」
ザザが頷く。
「腹立たしい話でありますが、ヴァン准尉が今まで自分から行動する時は、いつもエステル少尉の為でありました。腹立たしい事でありますが」
ミーロはまだ少し、暗黒面を引きずっていた。
「エステル少尉。何か、思い当たる事はないでありますか?」
「そんなことを言われても……」
戸惑うエステルに、ザザが助け舟を出す。
「私は、やはりエステルの為に、出かけたのだと思う」
「どういうこと?」
「多分、結婚を邪魔する連中を、王都ごと滅ぼしにだな……」
残念、助け船だと思ったら、泥舟だった。
「ヴァンがする訳ないでしょ、そんなこと!」
その時、ロズリーヌが、何かを思い出した様にポンと手を打つ。
「そういえば、昨日のチョーカー調整試験の時、ヴァン様が少しおかしな態度を取られた事がありましたわ」
「おかしな態度?」
「中佐はお気づきになりませんでした?」
「ん……何かあったか?」
シュゼットは、顎に指を当てて、昨日のチョーカー調整試験の様子を思い浮かべた。
◆ ◇
場所は、第十八会議室。
ヴァンとエステルが初めて顔を合わせた、あの会議室。
後ろ手に椅子に拘束されたヴァンを取り囲む様に、白衣を纏った少女――マセマー=ロウと、シュゼット、それとロズリーヌが立っていた。
「いやぁー悪いね。拘束させてもらっちゃって。まあ、大丈夫だと思うんだけどさ、念の為にねー」
いつも通りの軽い口調で喋りながら、マセマーが椅子の背後へと回る。
「は、はい。大丈夫です」
「で、君の引きちぎったチョーカーなんだけどさ。改めて作り直したんで、試験しようってのが今日の主旨。それと、魔法が混じるっていうのを、ちゃんと検証してみようっていうのが、今日のおまけかな」
そう言いながら、マセマーは、背後からヴァンの首にチョーカーを巻き付けた。
「今、君の喉に描かれているのは、火炎系統の魔術回路で間違いない?」
「はい、そうです」
「じゃ、これから順番に二人にキスして貰って、都度ヒアリングするから答えてね」
「は、はい」
「じゃ、最初はシュゼ、よろしくー」
「ちょ! ま、待て! マセマー! こここ、こんな実験だなんて聞いてないぞ」
シュゼットは、完全に挙動不審に陥っている。
だが、そんなシュゼットを、さも面白い物でも見るような目で眺めながら、マセマーは言った。
「だって、言ってないもの」
「貴様ァ!」
「まあまあ、シュゼは母親のつもりなんでしょ? 愛するわが子にキスするなんて、当たり前じゃん。スキンシップだよ、スキンシップ」
「ス……スキンシップ?」
「そう、なにもやましいことじゃない。ヴァン君の為さ」
「ヤマシイコトジャナイ……、ヴァンノタメ」
体中に緊張感を漲らせながら、ごくりと喉を鳴らすシュゼットの様子は、むしろやましい感じしかしなかった。
「いいから早くしなよ。これは実験、実験だよ?」
「う、うむ、ではヴァン。いくぞ」
「は、はい」
シュゼットはプルプルと震えながら、ヴァンへ顔を近づけていく。
シュゼットの緊張がうつったのか、ヴァンも緊張の面持ちでそれを待ち受けた。
そして、チュッ! と唇が軽く触れた途端に、シュゼットは「わああああ」と声を上げて飛びのく。
その余りの大袈裟さに、マセマーとロズリーヌは顔を見合わせて苦笑した。
顔を赤らめてボーっと立ち尽くすシュゼットに対して、一方のヴァンは苦し気に顔を歪めている。
マセマーは、ヴァンの顔を覗き込む様に問いかけた。
「どうしたんだい?」
「チョーカーをつけてキスをすると、いつも頭痛が……」
「頭痛……頭痛ねえ……。ロウはてっきり シュゼの毒でも回ったのかと思ったよ」
「毒なんか持っとらんわ!」
遠くからシュゼットが激昂する。
「で、魔法は混じったのかい?」
「は、はい……『放火の時間』という魔法になったみたいです」
「うわ……なんか物騒だね」
マセマーが思わず体を一歩引く。
「えっと……印をつけておけば、事前に指定した時間にその印の場所に火を付けられるみたい……です」