第三十九話 鳴動
それは啄む様な、軽い接吻。
厚い雲の下、泥まみれの身体を雨に打たれながらの、誓いの口づけ。
静かに唇を離すとエステルは、はにかむ様に微笑んで、ヴァンの額に自らの額を押し付ける。
そして祈る様に目を瞑り、微かに声を震わせた。
「私も……ずっと一緒に居たい」
ヴァンが静かに目を開く。
そして、その唇から、ぼそりと呟くような声が零れ落ちた。
――第七階梯 炎龍轟来。
◆◇
リュシールが、胸元に上下動の振り子の法則を体現しながら、薄暗い階段を降りてくる。
その姿を目にして、ザザとミーロはハッと息を呑んだ。
「ちゅ、中尉! どうしたでありますか、その怪我は!」
「まさか! 要塞の中まで侵入を許したのか!」
リュシールは唇を噛みしめながら、小さく頷く。
「……司令部が占拠されたわぁ、中佐が人質になってるのよぉ」
ザザは、表情を強張らせて、ミーロを振り返る。
「兎ちゃん、急ぐぞ!」
「は、はいであります!」
しかし、リュシールはそんな二人を冷ややかな目で眺めて、眉を顰める。
「急ぐのはいいけどぉ……。アナタ達、それ……戦える状態なの?」
それもその筈、一昼夜の強行軍を終えたところなのだ。
二人共、見るからに疲れきった表情をしている。
「魔力は、ほぼ底をついているが仕方あるまい。途中、武器庫に寄って剣を手に入れれば、それなりに戦える。私は、これでも武官上がりだからな」
「提案があるであります」
ミーロは少し迷ったような様子を見せた後、何かを決意した様な表情で二人に目を向ける。
「自分の体力と魔力を、昏倒ギリギリまで絞りだして、お二人にお渡しするのはどうでありましょうか?」
「体力と魔力をか?」
「そうであります。ただ、そうすると自分は同行出来なくなってしまいますので、この辺りで転がっていることになるでありますが……」
ミーロの魔法系統は『吸収』。
第一階梯で体力を、第二階梯で魔力を吸収、もしくは放出することが出来る。
「ふむ……」
ザザは考える。
確かにミーロは戦闘向きでは無い。
それならば、一回でも多く、リュシールの雷撃か、ザザの重力魔法を使える方が、勝算が高くなる。
「頼めるか? 兎ちゃん」
「もちろんであります!」
ザザが申し訳なさげな顔をすると、ミーロは屈託なく微笑んだ。
「じゃあ、私からお願いしていいかしら? ザザ程は消耗してないから、ある程度でいいわよぉ。体力は大丈夫だから、ザザに渡してあげて」
そう言ってリュシールがその場に座り込むと、ザザもその数段下のあたりで腰を下ろす。
ミーロは歩み寄ると、
「じゃ……始めるであります」
そう言って、リュシールの背中に手を当てた。
「放出」
ミーロの手に淡い光が灯る。
リュシールへとゆっくりと魔力が流れ込んでいく。
ゆっくりと流し込まないと魔力に酔ってしまうのだ。
魔力の供給を受けながらリュシールが静かに口を開いた。
「二人とも無事で良かったわぁ」
「えへへ、ザザ上級曹長が手を曳いて、此処まで連れ帰ってくださったので、何とか戻って来れたであります」
「手を曳いて……か。私ね、昔、とてもとても好きな人がいたの。二人で手を取り合って逃げることになっていたんだけど……」
リュシールは、遠くを見るような目をした。
「逃げる? まさか、駆け落ちでありますか?」
「駆け落ち……そう、そうね」
リュシールは、苦笑する様な表情を見せた。
「その人は優しくて、少し頼りないけれど、とても美しい男の人だったわ」
「失敗したでありますか?」
思わずそう問いかけて、ミーロはハッと口を押える。
成功していれば、リュシールがこんなところに居る訳が無いのだ。
「す、すみませんであります」
慌てるミーロの手を掴んで、リュシールはその耳元に囁きかけた。
「ヴィルヘルム=アパン――それがその人の名前よ」
ミーロは思わず、目尻が裂けそうになる程に、目を見開いた。
それは、アパン家が取り潰される原因になった人物。
死刑になったという年の離れた長兄。
ミーロがまだ一歳の頃、物ごころが付く以前の話だ。
「おい! どうした兎ちゃん!?」
ミーロの様子がおかしいことに気づいて、ザザが立ち上がる。
そんなザザを振り返ることもせず、リュシールはミーロへと囁き続ける。
「おかしいと思わない? あの人は何も悪くなかった。追い詰められてやったとはいえ、命を取られるような事はなにもしていない。腐っているのよ、この国は。呪われているのよ、この国は。あなたも苦労して生きてきたのでしょう。今もお金のために自分自身の命を軍に売った。理不尽でしょ? 理不尽よねぇ? そんな目にあわせたこの国に復讐したいと思うでしょう? 無茶苦茶にしてやりたい。そう思うわよねぇ? あなたが望むなら、一緒に連れて行って上げるわよ」
「ちゅ。中尉、あなたは一体、な……なにを?」
驚愕と戸惑いの入り混じった表情で、後ずさるミーロ。
「兎ちゃん! そいつから離れろッ!」
ザザは一気に階段を駆け上がり、リュシールに蹴りを放つ。
しかし、リュシールは顔色を変えもせず、跳ね起きるとその蹴りをあっさりと躱し、一気にザザに詰め寄る。
「足癖の悪い子ね」
「ッ!?」
リュシールがすばやく軸足を払うと、ザザはそのまま階段を転げ落ちた。
「ザザ上級曹長!」
ミーロが慌てて声を上げたその瞬間。
――突然、大地が鳴動した。
突き上げるような衝撃が走り、目の前の景色がブレる。
「あらあら、これは……」
「まさか……ヴァン軍曹が!」
慌てるミーロを眺めながら、リュシールは、さも楽し気に笑った。
◇◆
――すごく怖い顔してるううぅ。
突然、シュゼットに呼び出されたルルとリルは、シュゼットの鬼気迫る様子に怯えていた。
「ルル! リル!」
「「ハ、ハイッ!」」
「今すぐ、ここを出て、空からヴァンを救出するのだ!」
「「はい?」」
何か叱責されるものだと思い込んでいた二人は、思わずぽかんとした表情を浮かべる。
「貴様らも戦場で無数の光が走るのを見ただろう。あれはヴァンの魔法だ。窓の外を見てみろ。敵陣のど真ん中に、ぽっかりと空いている場所があるだろう。あそこにヴァンがいる。貴様ら、今から、ちょっとあそこに行って、ヴァンを救出してこい!」
「ちょっとって!? ちょっとで敵陣のど真ん中に突っ込ませるとか、あり得なくない!?」
思わず、我を忘れて抗議するリルを、シュゼットが下から抉るように睨みつける。
「ア゛? 何か言ったか?」
「あわわわ……な、なんでもないですぅ」
そのまま半べそになって、へたり込むリルを助け起こしながら、ルルが声を上げた。
「お、お言葉ですけどぉ、流石にそれは危ないんじゃないかなー、あんな高さまで降りたら狙い撃ちされるんじゃないかなー、なんて思ったりするんですけど……」
「大丈夫だ! たぶん」
「リルぅ……たぶんって言ったよぉ、この人」
「ルルぅ、ダメだこの人、目が据わっちゃってるよぉ」
ルルとリルが身を寄せ合って怯えたその瞬間、
突然、突き上げるような衝撃が、マルゴ要塞全域を揺らし、作戦卓の上にあったものが飛び散って、床で大きな音を立てた。
ルルとリルは、抱き合ったまま床を転がり、
「こ、これは……まさか!」
と、シュゼットは声を上げて、窓の方へと駆け寄る。
鳴動を続ける大地。
窓から見える平地では、帝国の兵士達が立っていることもできずに、地面に這いつくばって右往左往している。
唐突に地面に巨大なひび割れが走ると、巨大な火柱が立ち昇り、空を真っ赤に燃やした。
あちらこちらで亀裂が入り、そこから次から次へと、黒煙とともに真っ赤に赤熱した溶岩が噴き上がる。
アーチを描いて地面に降り注ぐ溶岩に、声を上げる暇もなく帝国兵達が飲み込まれていく。
間違いない。これはヴァンが初めて暴走した時に使った魔法だ。
確か火炎系統の第七階梯――炎龍轟来。
遠くて見えなかったが、どうやらヴァンと一緒にエステルが居たらしい。
そして、意図してか、何かの弾みなのかは分からないが、二人の唇が触れて、またヴァンが暴走を始めた。
「……なんということだ」
ぐつぐつと煮えたぎる溶岩が、帝国兵を飲み込みながら、マルゴ山脈の方へと押し寄せてくる。
「ははは……」
思わず乾いた笑いが、シュゼットの口からこぼれた。
だが次の瞬間、シュゼットは唖然とした表情で硬直する。
マルゴ山脈の手前で、溶岩が不自然にもその動きをピタリと止めたのだ。
「まさか……制御している……のか?」
信じられないことだが、ヴァンは正気を保っているらしい。
まさか、まさかこれは……
「……愛の力なのか?」
「そんな訳無いじゃん」
シュゼットのとち狂った発言を、間髪入れずに否定する声。
シュゼットが、思わず背後をふり返ると、くるくる巻き毛に白衣姿の天才魔女――マセマー=ロウが、じとっとした目をシュゼットに向けていた。