第三十八話 それはまるで、井戸の底から見上げた青空の様で。
「急ぐぞ、兎ちゃん!」
「ま、待ってくださいでありますぅ」
滝の裏側に隠された非常用の脱出口を潜り、谷底から続く階段を駆け上がる。
山の中、土中を掘りぬいて作った階段である。
天井は歪に波打ち、階段の一段一段の高さもバラバラ。
空気は湿って、壁面は苔で滑っていた。
――完全に出遅れた。
谷底にいる時から、ザザは間断なく聞こえる戦闘の音に焦っていた。
「ま、魔力はともかく、自分はもう体力がもたないでありますぅ」
ミーロが泣き出しそうな顔で訴える。
それもそのはず、只でさえ歩きにくい水の中を歩き詰めに歩いて一昼夜。
途中一か所岩場になっていたところで、一時間ばかり休んだだけ。
夜通し足場の悪い川の中を歩いてきたのだ。
いくら軍人とは言っても人間である。
実際、ミーロは気を抜けば、眠ってしまいそうな程にふらふらになっていた。
その状態で、千メートル近くも続く、この長い階段を駆け上がれと言う方が、無茶苦茶なのだ。
既に足が上がり切らず、ミーロは何度もつま先を段差にひっかけては、つんのめって転びそうになっている。
先行していたザザは、ミーロのところまで降りて来て、手を差し伸べる。
「手を貸そう、もう少しだ、頑張れ」
「ザッ、ザザ上級曹長は、平気なのでありますか……」
ミーロが、肩で息をしながら問いかける。
此処までの道のりを思えば、並大抵の体力ではない。
「そう見えるか? 平気ではないさ。私だって、膝はがくがくしてるし、腰から下が抜けそうなぐらいに怠い。実際、昨日使った分の魔力が、ほとんど回復していないのだ。上に辿り着いても、正直、役に立てる気はしない……が」
「が?」
「自分のいないところで、全てが終わってしまうのは、もう沢山なのだよ」
ザザは第十三小隊に配属される前は、王宮武官だったと聞く。
王宮武官と言えば、エリート中のエリートだ。
そこで、ザザに今の言葉を言わせるような何かがあったのだろう。
ミーロはそう想像して、思わず口ごもった。
その時――。
コツン、コツンと、階段の上から、降りてくる足音がする。
足音は一人分。流石にマルゴが陥落したとしても、ここに敵が来るには早すぎる。非常口の見張りが居なかったことを考えると、交代の魔女が来たのだろう。
ミーロはそう考えて、薄暗い階段に目を凝らす。
誰だか判別がつくより前に、向こう側が二人に気づいて足を止めた。
「あらぁ、二人とも無事だったのねぇ」
階段を一段降りる度に、胸元の圧倒的な振動が暗闇の中でも見てとれる。
「リュシール中尉!」
思わずミーロは、ホッとしたような声を上げた。
◇◆
飛び込んで来た丸太が馬を打ち倒し、二人は馬車から投げ出された。
「きゃああ!」
「うわああああ!」
ヴァンの視界の中で、天と地の位置が入れ替わる。
時間感覚が引き伸ばされて、何もかもがゆっくりに見えた。
蟻が塚をつくるかのような遅々とした時間の流れの中で、ヴァンはエステルの姿を探し、必死に手を延ばす。
届くか? 届けぇぇぇえ!
空中でエステルの身体を掴んで引き寄せると、ヴァンはその頭を胸に抱いて、肩から地面へと落下する。
「ぐッ!?」
思わず蛙を叩きつけたかのような声が漏れる。
肩の次には顔をぶたれる様な衝撃。
体がぐにゃりと回転し、そのまま背中を地面に打ちつけられる。
だが、それはヴァンが想像していたほどの衝撃ではなかった。
元々柔らかな黒土であったところが、長く続く雨でぬかるみ、|泥沼の様になっている。
痛みはそれほどでもなかったが、バシャッと音を立てて、盛大に泥が跳ねあがり、二人は泥まみれ。
ヴァンは口の中に入った泥を、顔を顰めて吐き出すと胸に抱いたままのエステルに呼びかけた。
「エステルさん! だ、大丈夫ですか! 怪我は?」
「な……なんとか大丈夫。アンタは?」
「は、はい。下がぬかるんでたお陰で……」
だが、互いの無事を喜んでいる場合ではない。
二人が落ちたのを見ていた帝国の兵士たちが、槍を手にして殺到してくる。
ヴァンはエステルを胸に抱いたまま、身体を起こすと長く伸びた前髪の間から周囲を睨みつけた。
「光弾狙撃ッ!」「光弾狙撃ッ!」「光弾狙撃ッ!」「光弾狙撃ッ!」
狂った様な全方位に向けての乱れ撃ち。
近づきつつあった兵士たちは、蹈鞴を踏んで後ずさり、二人を環状に囲んで眺める格好となる。
しかし、敵陣のど真ん中、二人を中心にぽっかりと開いた空間のその周りは、溢れんばかりの帝国兵。
十重二十重どころか百重二百重といった状況である。
このまま光弾狙撃だけで、ここを脱出することなど出来そうにない。
――どうする? どうやったらエステルを死なせずに済む?
ヴァンは頭を振った。
焦りの所為で、鼓動が早鐘を打つ。
思考が渦を巻き、思い浮かべた言葉や感情を巻き込んで、ぐちゃぐちゃにしていく。
その時、エステルが寂しそうに笑った。
「もう、無理なのかな……」
それはヴァンが十五年生きてきた間に、最も多く見てきた表情。
農奴達が、常に顔に張り付けた力無い笑い。諦めの笑顔。
無力さへの嘆きを、ただ誤魔化すだけの弱弱しい笑顔だ。
それを目にした瞬間、ヴァンの身体の奥で得体の知れない感情が膨れ上がった。
――良いのか! 本当に良いのか?
何かがヴァンの魂へと、吼え立てる。
だがその途端、その激しい感情を何かが、次から次へと打ち消していく。
それは不要な感情なのだと、持つべき感情ではないのだと、それを押さえつけていく。
――一緒に死ねば、彼女の死を悲しまずに済むのだから。
激しい想いは全て重しを付けられて、胸の奥底へと沈められた。
虚ろな表情で空を見上げたヴァンの顔を、雨粒が叩いた。
ヴァンの胸に頬を寄せたまま、エステルが空を見上げる。
「あーあ……帰りたかったなぁ、マルゴへ……みんなのところへ」
彼女の頬を一粒の涙が伝った。
その瞬間の事である。
ヴァンの胸の奥の奥。雁字搦めに縛られて沈められた感情が、鎖を断ち切って再び浮上してくる。
――良いのか! 本当に良いのか?
しつこいほどに耳朶の奥で問いかけてくるその声に、ヴァンは遂にキレた。
「良い訳ないだろおぉぉぉぉお!」
その瞬間、頭の中に広がる風景があった。
マルゴの城壁の上、夕闇の中で冗談めかして笑ったエステルの表情。
それはまるで、暗い井戸の底から見上げた青空の様で。
ヴァンが焦がれ続けてきたもの……そのものだった。
突然、吼えたヴァンに目を丸くするエステル。
それを唐突に抱き寄せると、ヴァンはその頬へと指を這わせる。
汚れた指先、泥まみれの指が、エステルの頬に一筋の線を描いた。
「エステルさん、僕とキスしてください!」
少し呆気に取られる様な表情を見せた後、エステルは呆れた様に笑う。
「い・や・よ。私は娼婦じゃないもの、結婚相手にしかそういうのは許さないの」
エステルには分かっている。
ヴァンが訓練の時の様に暴走して、マルゴ要塞そのものを犠牲にしてでもエステルを救おうとしている事を。
だが、ヴァンにはもう迷いはない。
目の前にいる一人の女の子。
それはまるで、井戸の底から見上げた青空の様で。
手を伸ばすなんて、考えもしなかった。
求めることなど許されない。そう思っていた。
不器用でどうしようもない人。
それでも、それでも、ただ一人、彼女はヴァンの魂を揺さぶる女の子で、ただ真っすぐなだけの女の子。
ヴァンは力任せに首のチョーカーを引きちぎり、生まれて始めて、自分が本当に欲しいものを求めた。
「じゃあ、エステルさん、僕と結婚してくださいッ!」
「えっ?」
その瞬間、時間が止まった。
「……えーと……はぃぃぃぃい!?」
一瞬、目を泳がせた後、ヴァンの言葉の内容を理解して、エステルが思わず目を見開く。
「ア、アンタ、なっ! ななな、何言ってんのよ、突然! 自分が何言ってんのか分かってんの!?」
「もちろん分かっています。物の弾みなんかじゃありません。僕はあなたが、エステルさんが好きなんです。あなたの事が欲しいんです」
真剣な表情で見つめてくるヴァンを見つめ返しながら、エステルは首の付け根まで朱を注いだように顔を真っ赤染めて、あたふたと宙を掻く。
戦場のど真ん中、万単位の敵に取り囲まれ、矢の飛び交う中でのまさかの求婚。
周囲を取り囲む帝国兵達も、思わず目を丸くする。
だが、エステルは小さく咳払いをすると、ヴァンの鼻先に指を突きつけて、言い聞かせる様に語り掛けた。
「あのね。アンタみたいなのはたぶん、生きているだけで毎日毎日必死だから、アタシみたいにかわいい女の子を見てのぼせちゃっただけよ。輝鉱石の採掘現場から出てきたばかりの作業員が、日の光にうっとりするようなもの。要は勘違いなの!」
「勘違い?」
首を傾げるヴァンに、エステルはなぜか少し拗ねた様な口調で問いかける。
「だって、前に言ってた赤い髪の娘の代りなんでしょう?」
ヴァンは、少し考える様な素振りを見せた。
「……わかりません。でも彼女はもういなくて、僕の目の前にいるのはエステルさんです」
「……馬鹿、そういうときは、嘘でも違うって言いなさいよ」
「ご、ごめんなさい」
思わず項垂れるヴァン。
だが、
「でも……今の言葉は信じられる」
そう言ってエステルはヴァンの首に手を回す。
「勝算はあるの?」
「大丈夫です。エステルさんも、エステルさんの大切なものも、みんな守って見せます」
真剣な表情で頷くヴァンに、エステルは優しく微笑みかける。
そして、
「私の事大事にしなきゃ、許さないんだからね」
そう言って、エステルはヴァンの唇へと、自らの唇を押し付けた。