第三十六話 突入
銀糸の様な雨に打たれて、道端の雑草がお辞儀を繰り返している。
ぬかるんだ大地。
柔らかい黒土をはね上げて、一両の馬車が疾走していた。
厚い雲の下、聳え立つマルゴの頂、そこを目指して、汗血を地に吸わせながら進む帝国の大軍隊。
その背を追って、たった一両の馬車が疾走していた。
額に張り付く髪。顔を打つ雨。霧に煙る戦場。
少年と少女は、緊張に顔を強張らせ、自らの行く先へと目を向ける。
「アンタも覚悟決めなさい!」
「わ、わかってます。だから約束……」
「約束?」
「約束します。エステルさんは僕が、きっと……きっと守りますから」
大人しい少年が、噛みしめる様に呟いた、不器用なその言葉に、少女は思わず苦笑する。
「男に守るなんて言われたら、女の立場が無いじゃない」
「あ、いや……そういうつもりじゃ……」
この国では戦争は魔女の仕事。
女が男を守ってやるものなのだ。
思わず慌てふためく少年に微笑むと、少女は少年の肩に頬を寄せて、囁きかける。
「わかってる。でも、ありがと。……ごめんね、巻き込んじゃって。でも私、こういう生き方しかできないの」
――これが最後になるかもしれない。
その想いが、自然に彼女を素直にさせた。
それは今までに聞いたことの無い。優しい声、柔らかい声音。
少年は高鳴る心臓に戸惑いながら、自らを誤魔化す様に遠くへと目を向ける。
そこにあるのは地獄の様な戦場。
間断なく響き続ける怒号、絶叫、悲鳴。
感情渦巻く地獄の陋巷に、地面を這いまわる虫の様な弱弱しい呻き声が蟠っている。
――あそこに飛び込むんだ。
そう考えて、少年は思わずゴクリと喉を鳴らした。
黒い壁の様な、兵士たちの背を見回して、少年は指を差す。
「一番薄いところは……たぶんあそこ……です」
「じゃ、行くわよ!」
「は、はい!」
少年は、少女の声に応じると、馬に強く鞭を入れた。
馬は嘶いて、速度を上げる。
突然背後から聞こえてきた馬蹄の響きに、兵士達は思わず振り返り、突っ込んでくる馬車を目にして驚愕の声を上げた。
「敵だあああ! 背後から敵襲ッ!」
「光弾狙撃!」
最初に声を上げた男の額を、光の矢が貫いた。
さらに速度を上げて、隊列の最後尾に二人を乗せた馬車が突っ込んでいく。
逃げまどう兵士。
「第三階梯 火炎幕!」
その背を狙って、少女が少年の肩越しに手を伸ばすと、掌から炎が生み出され、雨粒が気化して湯気が立ち上った。
炎はそのまま兵士達を追い立てて、真っすぐに道を作っていく。
不幸にも炎に巻かれた兵士たちは、周りの戦友に救いを求めてしがみつき、肩を並べてここまで一緒に来た者達に、まるで悪鬼の様に蹴り倒される。
突然の出来事とはいえ、たった一両の馬車の襲撃に、帝国軍の兵士達は混乱をきたし、突っ込んでくる馬車に、自ら道を開けていく。
まるで乾酪を裂くような容易さ。
予想以上の脆さに、少女の頬がわずかに緩んだ、その瞬間。
少女の目の前を一本の矢が横切り、大地に突き刺さる。
混乱しているのだろう。
味方に当たることも考慮せず、二人に向かって次々と石弓の矢が放たれた。
空に点描を描くかのような矢の雨。
少し先の方では、態勢を立て直した兵士たちが、槍を扱いて待ち受けている。
ヴァンは意識を集中する。今はエステルの身を守る、それが最優先。それ以上の物は何もない。
「光弾狙撃!」
次々に飛んでくる石弓の矢を、突き出される槍の穂先をヴァンは的確に、光の矢で貫き、弾き飛ばす。
流れ矢に当たって悲鳴を上げる帝国兵を馬が弾き飛ばし、更にヴァンは、光の矢で敵の足元を穿って追い立て、行く先の道を開けさせる。
「ど……どいてくだ……」
「死にたくなければ、どきなさああああああい!」
ヴァンのおずおずとした声を打ち消すように、エステルが声を限りに叫んだ。
だが、ここまで、わずか数百メートル。
目の前に聳え立つマルゴは、余りにも遠く、地を埋め尽くす敵兵の海原は、見渡す限り連綿と続いていた。
◇◆
「おお……凄まじいものだな」
やたら濃い顔をした男が、断崖から戦場を見下ろして呟いた。
後ろを続く部下達は、上官の言うその『凄まじい』の指すところが、魔女達の魔法の威力なのか、それとも味方の大部隊を指してのことなのか、判断がつかずに押し黙る。
やたら濃いこの男の名はカスタネダ。階級は中尉。
第十三小隊の乗った『LV-05犀』を散々追い回した、騎兵団の団長であった。
カスタネダ率いる騎兵団は、戦闘開始時点から一旦戦場を離脱し、尾根伝いに馬を走らせた。
マルゴ要塞の内通者から齎された情報によれば、尾根を乗り越えてマルゴ山脈を一旦東に抜け、王国側からマルゴ要塞の城門へとたどり着ける隠しルートがあるのだという。
その情報を元に、少人数でマルゴ要塞に侵入し、敵の司令部を占拠する。それが彼らに与えられた任務であった。
だが今、指示された通りに来たというのに道は途切れ、目の前には、目もくらむような断崖絶壁が行く手を阻んでいた。
「本当にこの道で合っているのだな」
「はい、地図によれば、ここには橋が架かっているはずなのですが……」
「なるほど、魔法で橋を見えなくしておる。つまりそういう事か、おい! お前、渡ってみろ」
「えっ!?」
上官の突然の無茶ぶりに、兵士は思わず硬直する。
だがその時、
「ではワタクシが、渡らせていただきますわ」
誰もいない筈の、その兵士の背後から鈴のなる様な声がした。
次の瞬間、男の背から、ヌルッと黒いものが滑り落ちる。
それは影。
男たちのものよりも、一回り小さな影だった。
突然の事に思考が追いつかず、呆然と見守るカスタネダと兵士達。
その目の前で、影から、三人の少女が這い出てきた。
「あはは、ここまでくればマルゴは目と鼻の先だよー」
明るい髪の少女が、頭の後ろで手を組んで、能天気に笑う。
「ラッキーだった」
黒髪の少女が、無表情に頷いた。
「き、貴様ら! 魔女か!」
声を震わせるカスタネダの問いかけを、もう一人の鮮やかな金髪を縦に巻いた少女が鼻で笑う。
これほど意味のない質問も、そうは無い。
それは笑いもする。
「まずはお礼を申し上げますわ。偶然とはいえ、こんなに近くまで連れて来てくださった事に感謝を」
しかし、少女のその言葉を遮る様にカスタネダは声を上げる。
「か、構わん! こいつらを倒せ!」
一斉に抜剣する兵士達の無粋さに、金髪の少女は思わず鼻白み、大げさに溜息を吐く。
「しかたありませんね……。ノエルさん、ベベットさん」
そして、少女は、ニヤリと嗤った。
「殺っておしまいなさい」