第三十四話 終わりの始まりを見せてあげる。
「……何の音ですの?」
地鳴りの様な響きに、ロズリーヌは目を覚ました。
土の匂い。
寝ぼけ眼を擦りながら、辺りを見回す。
土壁にもたれ掛って眠るノエルの膝を枕に、ベベットが赤ん坊の様に体を丸めている。
洞穴の外からわずかに差し込む陽光は赤く、薄暗い洞穴の中に仄かに色彩を齎していた。
眠りに落ちたのは午前のこと。
体感としては、随分良く寝たような気がするが、実際は五、六時間といったところだろうか。魔力は、ほぼ完全に回復している。
先ほどから、途切れる事なく続いている地鳴りの様な音が気になって、ロズリーヌは魔法を展開する。
「鷹の目」
視界は洞穴の外へと飛び出して、直上へと上がっていく。
そして、
「なんですの……これ!?」
ロズリーヌは思わず息を呑んだ。
空中から見下ろす視線。
約千二百メートルの視界一杯を、帝国兵が埋め尽くしている。
今、この祠は、まさに進軍する帝国兵達のど真ん中。
行軍の最中だけに、隊列を離れて洞窟を覗く者が居なかっただけで、ロズリーヌ達は明らかに危機的な状況下にあった。
息を殺して、ベベットとノエルを揺り起こす。
「あはは、おは……モゴッ!?」
起きた途端、馬鹿笑いを始めるノエルの口元を押さえて、静かにしろと唇に指を立てる。
――どうしたの?
目でそう問いかけてくる空気の読めるベベットに、ロズリーヌが、顎で洞穴の奥へと続く、小さな穴を指し示す。
ノエルに再度、静かにしろと念を押してから手を放すと、ロズリーヌは腹這いになって、その穴へと入っていく。
もっと奥に隠れなければ、見つかってしまう。
その細い穴は二メートルほど続き、そこを抜けると先ほどよりもずっと広い空間、それも明らかに人の手で整備された石室のような場所に出た。
「で、突然どうしたのさ? ロズリーヌ」
「ノエルさん、もう少し声のトーンを落としてくださいな、今この周りは帝国兵で一杯ですのよ」
ノエルはぎょっと目を見開くと、慌てて口元を押さえる。
「見つかった?」
相変わらず無表情に問いかけてくるベベットに、ロズリーヌは静かに首を振る。
「おそらく帝国軍の侵攻が始まったんですわ」
「つまり……マルゴに向けて行軍中の帝国軍?」
「おそらく」
「どうする?」
「どうとも。幾ら敵の数が多くとも『無窮』で大半を倒してしまえば、マルゴが落ちることはありませんもの。心配いりませんわ。ワタクシ達は、ここで帝国軍が通り過ぎるのを待って、それから行動するより他にありませんわ」
「あはは、じゃもうひと眠りってことだねー」
帝国軍がすぐそこにいるというのに、この発言。
ロズリーヌは思わず呆れた。
ノエルはバカなのか、それとも神経が太いだけなのか。
……うん、バカなんだろう。
「おっ! あんなところに毛布、はっけーん!」
ロズリーヌの冷ややかな視線に気づく様子もなく、ノエルは部屋の隅に置き去りにされていた襤褸布を見つけると、それを勢いよくめくり上げる。
「ケホッ! ケホッ! ちょっと、ノエルさん何をなさいますの!」
盛大に埃が舞い上がり、ロズリーヌとベベットは口元を押さえて、眉を顰めた。
だが、その抗議の声に、ノエルの返事はない。
見れば、ノエルは突然飼い主に叩かれた猫みたいな表情で、指先を震わせながら襤褸布の被っていた場所を指している。
――白骨死体。
ロズリーヌは思わず声を上げそうになって、口元を押さえた。
そこにあったのは、白骨化した死体。
しかもボロボロに朽ちてはいるが、纏っているのは黒の上着に赤のプリーツスカート。
間違いなく、魔女の死体であった。
硬直したままのノエル。たじろぐロズリーヌ。
そんな二人を他所にベベットは、つかつかと死体に歩み寄ると死体をじっと観察し始める。
「……前回の侵攻の犠牲者?」
「こ、ここ数ヶ月の小規模戦闘での行方不明者は聞いていませんから、おそらくそうなのでしょうね」
ベベットは突然、死体の服に手を掛けると、胸元をそっと開いた。
「『個人認識票』が残ってる」
「だ、誰なんですの? その方は」
「ちょっと待って……暗くて良く見えない」
ベベットは死体の首にかかっている銅製の『個人認識票』を指で摘まんで、顔を近づける。
だがその途端、引っ張られた所為で、ごろりと頭蓋骨がロズリーヌの足元へと転がった。
「×●※▲□×ッ!」
伽藍堂の眼窩と目が合って、ロズリーヌは盛大に顔を引き攣らせると、意味不明な声を上げる。
だが、そんなロズリーヌを他所に、ベベットは手にした『個人認識票』を覗き込んで、呻くような声を零すと、二人に向き直った。
「……今すぐ、ここを出る」
「ここを出るって……敵兵で一杯ですのよ」
ベベットはロズリーヌに『個人認識票』を投げ渡し、それを目にしたロズリーヌが、驚愕に顔を歪めるのを眺めて口を開いた。
「このままじゃ、マルゴが陥ちる」
◇◆
時間は刻々と過ぎていく。
太陽が赤く燃え尽きて、地平線の向こう側へと落ちると、我が物顔で夜がやってきて、厭らしく嗤う様な、下弦の月が空に居座る。
要塞の魔女達は、戦闘の準備に追われながら、眠れぬ夜を過ごし、歓迎されぬ朝の訪れを待った。
いつもならば、新たに生まれた太陽が東の空へと駆け上り、夜を西へと追い払う時刻だというのに、太陽は生まれて来なかった。
どんよりと厚い雲が空を覆い、夜半から降り続く銀糸の様な細い雨が、大地をしとどに濡らしていく。
夜が去るのを拒んでいるかのような薄暗い朝、不吉な朝。
マルゴ要塞、地上二階に設置された作戦司令部。
そこには現在、司令部から各部隊への伝達を担当する魔女達が集められていた。
「なに……これ」
居並ぶ魔女達の間から呻くような声が零れた。
窓の外には、マルゴ山脈の裾野に広がる、短い草の生えた平原。
雨の降り続く薄暗い大地。
それが……蠢いている。
地面が見えないほどに、濃い灰色の軍装で身を固めた男たちが、ビッシリと平原を埋め尽くしていた。
「奴ら……何を待っている」
シュゼットは、ぼそりと呟く。
夜は明けたというのに、帝国軍は動く気配を見せない。
「ラデロ、リュシールは?」
「すでに『無窮』で射角の調整に入っているはずです」
眼鏡を押し上げながら答える副官に、シュゼットは指示を出す。
「よし、お前も『無窮』に向かってくれ。準備が出来次第、お前の判断で撃ってかまわん」
「了解しました」
◇◆
マルゴ要塞の城壁から、張り出すように設置されたドーム状の固定砲台。
ラデロは息せき切って階段を駆け下り、中庭を横切って、鉄の重々しい扉を肩で押し開き、固定砲台の中へと足を踏み入れた。
「リュシール!」
「あら、ラデロ少佐。どうしたのぉ? そんなに慌てて」
のんびりとした口調。
リュシールは無窮の砲座を固定する鉄の脚部にもたれ掛かって座り、だらしなく床に足を投げ出して、半球上のドーム屋根、内側からその湾曲した天井を眺めていた。
ラデロは苛立たし気に眼鏡を押し上げ、思わず声を荒げる。
「何をしているリュシール! 準備は終わってるのか!」
「準備? 何の?」
「『無窮』に決まっているだろうが!」
「あーそうね。はいはい、そうでしたぁ」
と、軽い調子で頷くと、リュシールは立ち上がって『無窮』の砲身を指でなぞった。
「その前に、ラデロ少佐にぃ……ちょっと面白いものを見せてあげる」
「何だと?」
ラデロが不快げに顔を歪めると、リュシールは愉快そうに口元を歪めた。
「この呪われた国の、終わりの始まりよ」
ぞくりとする様な、殺気を孕んだ低い声。
次の瞬間、リュシールが指でなぞった位置から、砲身が凍りついていく。
そして、みるみる内に白く凍り付くと、やがて軋むような音を立てて、『無窮』の砲身が真っ二つに折れた。
折れた砲身は城壁から下へと、真っ逆さまに落ちて行く。
カラン、カランとカウベルの様な高い金属音が響き渡ると、すぐさま、帝国軍の陣営で進軍喇叭の音が鳴り響く。
「貴様アァ! なんということをッ!」
ラデロは目を血走らせて、リュシールに殴り掛かった。
◇◆
「ベベットさん、始まりますわ。『暗い部屋』を」
帝国軍の最後尾。
食料を満載した輜重車の奥にロズリーヌ班の三人の姿があった。
首尾よく『暗い部屋』でここに忍び込み、ここまで運んでもらったのだ。
幌の外側で進軍喇叭の音が響いている。
戦闘が始まるのだ。
いつまでもここに隠れている訳にはいかない。
「どうする?」
「とにかく行けるところまで、『暗い部屋』で行って、なんとか要塞に戻りたいところですわね。……内通者の正体を伝えなくては」
ロズリーヌは、手の中の『個人認識票』に目を落とす。
――リュシール=リズブール
そこに彫り込まれた名を、消え入りそうな声で読み上げた。