第三十二話 全ての道はマルゴへ続く
ヴァンとエステル。
二人を乗せた馬車は、南東の方角へと走っていた。
帝国軍との遭遇を避けるために二人が選んだのは、南側を弧を描く様に進んでマルゴ山脈へと到るルート。
ずいぶん遠回りになってしまうが、それでも明日、朝早くには、マルゴ要塞へと辿り着ける目算である。
今、エステルは破れたシャツを脱ぎ捨て、ヴァンの上着を首元までピッチリとボタンを留めて、身に付けている。
軍用の、色気の欠片もない下着だとはいえ、異性の前でモロ出しは流石にマズい。
変な気を起こされても困ると考えてそうした訳だが……。
それでも、一人用の馬車に二人で乗っている以上、仕方の無い事もあるもので……。
「その……エステルさん、もう少し離れてもらえませんか……」
「離れてって、好きでくっついてるみたいに言わないでよ! そんなに嫌なら、アンタが馬車降りて走ればいいじゃないの!」
「い、嫌じゃないんですけど……。その、あの……胸が……ですね」
「ッ!? アンタ! ずっと黙ってると思ってたら、そんなこと考えてたの!? 私の胸の感触をずっと、えへえへ言って楽しんでたのね! やらしい! 変態! 獣!」
「いや、あの、す……すみません、でも楽しんでた訳では……」
「嬉しくないから離れろってこと? お前の胸なんか興味無いんだよ! って言いたい訳? ……それはそれで、なんか腹立つわね」
「……いや、その、なんかすみません。あの……じゃあ適度に楽しむ感じで……」
「適度!? 獣! やっぱり男なんて獣よ!」
「す、すみません! すみません!」
全く持って、理不尽極まりないやり取り。
だが、二人してずっと頬を赤らめている所為か、どこかイチャつくカップルを眺める様な、腹立たしさを覚える光景であった。
◆◇
同じ二人でも、こちらは随分と雰囲気が異なる。
翡翠の遊ぶ穏やかな清流に、じゃぶじゃぶという水音
少女が二人手を繋いで、水面を蹴りながら、川上へと歩いていく。
一人は透けるような白い肌に、腰のあたりまである青みがかった白髪。いかにもクールそうな雰囲気を纏った美しい少女。
もう一人は肩までの茶色の巻き毛に白いリボン。まん丸な瞳とその体の小ささが、小動物を思わせるようなかわいらしい少女である。
ともに黒の上着に赤のプリーツスカートという、軍服姿ではあるのだが、二人の雰囲気は対照的。
実際の年齢は二歳しか離れていないのだが、それこそ、お姉さんが年の離れた末っ子の手を引いている様にも見える。
あはは、うふふ、と少女らしい笑い声でも聞こえるかと思えば、かわいらしい少女の口から出た言葉は、
「……死ぬかと思ったであります。ザザ上級曹長」
で、あった。
ミーロの恨みがましい視線をものともせず、ザザはあっけらかんと言い放つ。
「まあ、死ななかったんだから、良いじゃないか」
「飛び降りる前に言って欲しかったでありますよ。確実に寿命は縮んだであります。三年ぐらい!」
「ははっ、軍人やっている限り、寿命一杯生きられる可能性なんて、ほとんど無いんだ。三年が五年でも誤差みたいなもんじゃないか」
頬を膨らませるミーロに、ザザはそう言ってカラカラと笑う。
二時間ほど前の事である。
ザザがミーロの手を掴んで、突然、『犀』から、崖下目掛けて飛び降りたのだ。
いきなりそんな目に遭わされたら、ミーロで無くとも愚痴の一つも言いたくなる。
だが、そもそもベベットが、突然ルートを変更して崖の上へと向かったのは、ザザ達の逃げるルートを確保するためだった。
『犀』はもう限界が近かったのだ。
ベベットの『暗い部屋』の定員は三名。
ロズリーヌ班の三人はそれで逃げきれるとして、ザザとミーロの逃走ルートをどうするか。
ベベットはそう思案した結果、重力系魔法『妖精舞踏』で、体重をゼロにできるザザならば、崖を飛び降りても無事に着地できる。そう思い至ったのだ。
実際、二人は羽の様にふわふわと舞いながら、谷底へと降り立って、怪我一つしていない。
ちなみに、降り立った今も二人が手を繋いだままなのは、水流に足を取られない様に、ザザの魔法で体重を増やしているからだ。
体重を増やす魔法を使う。そう聞いた時の、ミーロの絶望的な顔を思い出して、ザザはこみ上げて来る笑いを必死に押し殺した。
「ところでザザ上級曹長、我々は一体、どこへ向かっているでありますか?」
すでに二時間。
ミーロは手を引かれるままに、川上へと歩いている。
だが、この先に何があるのかは聞いていない。
「もちろんマルゴ要塞に決っている。この川を上流の方へずっと昇っていけば、わりと大きな滝があるのだが、その滝の裏側に、要塞の下層に繋がっている非常用の隠し通路があるのだ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいであります。この調子で……水の中を……徒歩で……マルゴまで……。死ぬでありますよ、そんなの……」
「泣き言を言うな。急げば明日の朝には、マルゴに着ける……はずだ」
「明日の朝って……今、まだ朝でありますよ?」
「……朝だな」
訪れる静寂、遠くで蛙が水面へ飛び込む音がした。
「……行くか」
「はい……であります」
二人は無言で歩きはじめ、じゃぶじゃぶという水音だけが、やけに大きく響いた。
◆◇
「鷹の目!」
金髪の少女が、影の中から頭だけを出して声を上げた。
地面に置かれた生首の様にしか見えないそれは、誰が見ても非常にシュールな光景であることだろう。
「敵は、まだワタクシ達を探している様ですわね。でもとりあえず、この辺りは大丈夫みたいですわ」
そう言いながらロズリーヌが影の中から這い出てくると、続いてノエルとベベットも、影の中から姿を現す。
「プハー! あはは、外だー! やっぱ、あの部屋に三人は狭いよね、ねぇベベットぉ、何とかならないの、アレ?」
「……ならない」
影の中から出てくるなり騒ぎ始めるノエルに、ロズリーヌは思わず肩をすくめる。
「ノエルさん、敵はまだこの辺りに、うじゃうじゃいるんですのよ。少し静かにしてくださらないかしら」
「あはは、ごめん、ごめん」
全く反省していなさそうなノエルを他所に、ロズリーヌはベベットへと問いかける。
「ベベットさん、『暗い部屋』は、あとどれくらい展開できそうですの?
ベベットは、無表情に首を振る。
「……もうすぐ魔力切れ」
「そうですか……。しかたありませんわね」
だが、どのみち、外に出て行動せねばならないというのも、事実。
『暗い部屋』で移動すれば、間違い無く安全ではあるが、あまりにも移動速度が遅すぎる。
二時間余りの時間をかけて『犀』のぶつかった位置から二キロほどしか、移動できていないのだ
ここからは『鷹の目』で周囲の状況を確認しながら、徒歩の移動に切り替えるのが賢明だろう。
「ノエルさんは、どうですの?」
「え? 魔力のこと? あはは、ボクはちょっと回復したかな。たぶんねぇ、二発ぐらいなら撃てると思うよ」
「ここからならマルゴまでは、徒歩で十時間ぐらいだと思いますけど……いずれにしてもどこかで少し休まないといけませんわね。『鷹の目』もずっと展開できるわけじゃありませんし、ノエルさんの『光速指弾』二発では、敵に遭遇したら、それでお終いですわ」
「あはは、そうだねー。どこか隠れられる様なところがあれば良いんだけど」
「ええ、そうですわね……」
ロズリーヌは『鷹の目』で、周囲を見回す。
そして、
「ここから東へ一キロメートルほどのところに、祠の様なものが見えますわ。幸い、途中に帝国兵の姿も見えませんし、とりあえずそこを目指しましょう」
そう言った。
◆◇
「まったく、帰ってきたと思ったら、またマルゴまで行かなきゃいけなくなるなんて……」
王宮の車庫で、木馬の様な二輪車両、LV-08『飛蝗』に跨りながら、天才魔女マセマー=ロウは口を尖らせた。
「筆頭の人も、女王陛下が大事だってのは分かるよ。分かるんだけどさぁ……。だからって、くだらない嘘を混ぜたりするから、結局ロウが貧乏くじを引かされるんじゃないか……。帰ってきたら、絶対何か高いもの奢らせてやるんだもんね」
二度ほど輝鉱動力を空ぶかしした後、マセマー=ロウは車庫の扉の方へと、大きな声を上げた。
「いいよ! 開けて!」
軋む様な音を立てて扉が開き、その向こうに満ちた陽光が、ハレーションを起こして、目の前の景色が白く消えた。
少女は眩しげに目を細めて、明順応が終るのを待つ。
そして、
「ほんとロウってば、叔母想いのなんて優しい子だよ」
と、自画自賛しながら、勢いよく陽光の下へと、飛び出して行った。
◆◇
幼女が空を飛んでいる。
「あはっ。お兄ちゃん達には悪いけど、命あっての物種だよね」
風を切って飛びながら、『翼』の魔女、ルルはクスクスと笑った。
太陽は既にマルゴ山脈の上へと昇り、白い靄のかかる稜線を明るく照らし出している。
『夜の色』は日の出とともに、遥か西の方、帝国の位置する方へと追いやられた後である。
野蛮な帝国には、暗い夜がお似合いだよね。
そんな他愛も無い事を考えながら、ルルは何気なく帝国の方へと目をやって、思わず目を見開いた。
「なにあれ? 夜が溢れたの!?」
ずっと西の方、梟の巣よりも、もっと西。
帝国領の短い草の生えた平原を、黒いものがビッシリと覆い尽くしているのが見えた。
「あれは……帝国軍なの?」
目を凝らして見てみれば、黒い波は確かに行軍する兵士達。
前回の侵攻の際にも従軍していたルルの目には、あれが前回の比では無い規模であることはすぐに分かった。
前回の規模は四万。
遠目にもその規模は、その五倍はありそうに思えた。
ルルは思わず、前回の帝国が攻めてきた時の事を思い出す。
男たちが森を、平地を、ザザザという音を立てて、行進してくる。
何万もの足音が重なり合うと、もはやそれは足音であることを止めて、何かを擦り合わせる様な只の不快な音へと変わる。
神経に触る嫌な音。
耳を塞ぎたくなる音。
逃げ出したくなる様な音。
ルルは再び旋回すると、耳を塞いだまま、マルゴ要塞へと一目散に飛び去って行った。