第三十一話 嘘
泉から上がったヴァンが上半身裸で戻ってきたことで、顔を真っ赤にしたエステルに、理不尽にしばき倒された頃。
遠く離れた女王の避暑地シュレイル宮で、革張りの豪奢な扉を押して、白髪交じりの女魔術師が、部屋へと足を踏み入れた。
「どうなの! ローレン? あの少年はシュバリエ・デ・レーヴル様でしたの!?」
ローレンの顔を見るなり、女王マルグレテはソファーから立ち上がり、白い頬を紅潮させて捲し立てた。
彼女はベッドを出てから幾何の時間も経っていないようで、未だ髪を一つに纏め、夜着の上に薄手のショールを羽織っただけの姿。
相手がローレンでも無ければ、流石に面会に応じることはなかっただろう。
「陛下……落ち着いてください」
「あ、ごめんなさい。ずっと待っていたものですから、つい」
あきれ顔のローレンに、女王はいたずらっぽくはにかむと、向かいのソファーに座る様に促した。
「それで……どうだったんですの?」
ローレンが座るのを見届けた途端、女王は顔を突きつける様にして問いかける。
ローレンは、思わず乾いた笑いをこぼした後、ゆっくりと口を開いた。
「説明が難しいのですが……あの少年はシュヴァリエ・デ・レーヴル様であって、そうで無いと申しますか……」
「なんですの、それ? 貴女にしては珍しく、歯に物の詰まった様な言い方をしますのね」
「シュヴァリエ・デ・レーヴル様は数十もの化物を従えて、あの少年の内側に眠っておられます」
「化物?」
「ええ、それぞれに姿の違う……そう、まるで悪魔の様なものが、シュヴァリエ・デ・レーヴル様の魂に隷属しておりました」
「なんですの……それは?」
「わかりません。シュヴァリエ・デ・レーヴル様自体、謎の多いお方でございます。歴史の舞台に突然現れ、千の魔法を使った魔女の祖。彼女……いえ彼ですね。彼がどうやって魔法を身に着けたのかは誰も知りません」
「ですから、それはキスで魔法をコピーして……」
「始まりの魔女である彼の他に、魔女はいませんよ?」
女王は思わず「ウッ……」と喉を詰める。
「おそらくあの化物どもが、シュヴァリエ・デ・レーヴル様の魔法の秘密なのです」
そう言うとローレンは、大きく息を吐いて水差しに手を伸ばし、勝手にグラスに水を注ぐと、こくこくと喉を潤す。そして、ホッとした様な表情で、話を再開した。
「私が参りました時には、その内の一体、金色の瞳を持つ化物が活性化しておりました。聞けば『眼』の系統の魔女に、唇を奪われた直後であったとか」
女王は、頭痛をこらえる様に、額を押さえる。
「ちょっと……ちょっと待って、ローレン。貴女が何を言ってるのか良くわからないわ」
「掻い摘んで言えば、キスをする事で、その系統に対応する化物が活性化して表出する。どうやらそれが、あの少年が凶暴化した原因らしい、そういうことです」
「え……えーっと……」
女王は、思わず目を泳がせる。
女王の頭が悪い訳ではない。ローレンの言わんとしていることは理解している。
だが、話の内容が、あまりにもぶっ飛んでいる。
ぶっ飛びすぎている。
「よ、よくわからないけど……要はキスしたら危ないってこと?」
「ええ、今のままでは。……ですが」
「ですが?」
「表に出ているあの少年の人格が消滅すれば、シュヴァリエ・デ・レーヴル様の魂が目覚めるのではないかと……そうすれば化物共はシュヴァリエ・デ・レーヴル様に隷属していますので、おとなしくなるのではないかと……」
「少年の人格だけを排除するということかしら? でもそれって方法はありますの?」
戸惑いの目を向ける女王に、ローレンは力強く頷く。
「抜かりはございません。既に、魂のみを削除する魔道具の開発を、マセマー=ロウ殿に依頼済みでございます」
「うふふ、流石はローレンね。では、その魔道具ができたら、晴れて私はシュヴァリエ・デ・レーヴル様の花嫁ということかしら」
「はい。ですので、それまでは王位を譲るですとか、そういった事は、くれぐれも口に為さられませぬ様に」
「うんうん。わかりましたわ」
急に上機嫌になって、こくこくと頷く女王。
だが、
「ところで陛下、例のアパン準男爵の類縁の者については、何か報告は入りましたでしょうか?」
ローレンのその問いかけで、一気に憂鬱げに項垂れた。
「ううっ……大体、分かってはいましたけど、あまり知りたくない話でしたわ」
「……エカテリナ様ですね」
「ええそう。叔母は恋多き人でしたけど、人のものとなると直ぐに欲しがる厄介な方でしたわ。準男爵家の嫡男は見眼麗しい男性だったらしいのですが、婚約者がいたにも拘わらず、彼を見初めた叔母様は自分の元に婿入りするか、爵位をはく奪されるかどっちが良いと、迫ったらしいんですの」
「それはまた……エカテリナ様らしいといえば、らしいですね」
ローレンは、思わず引き攣った微笑みを浮かべた。
「結局覚悟を決めたその嫡男は、輝鉱動力の設計図を手に入れて、帝国に亡命しようとしたらしいんですの。婚約者には向こうで地位を得たら、必ず迎えに来る。そう手紙を残して」
「……だが、捕まった」
「ええ、そうですわ。嫡男は捕らえられて、処刑されたらしいんですの」
ローレンは眉間に皺を寄せて、首を捻る。
「ですが陛下。あの当時の輝鉱動力など、マセマー=ロウ殿が高速化に成功する以前のもの。麦踏小屋で使われる程度のちゃちな代物だったはずです。他国にしてみれば、それなりに価値があるとはいえ、死刑になるほどのモノとは……」
「罪状は王家への侮辱罪ですわ。怒り狂った叔母様の指示であっさり死刑。アパン準男爵家は爵位をはく奪されて、一族郎党平民に落とされたというのは、あなたが言った通りですわ」
女王は目を伏せて、溜息を吐いた。
この英名な女王にとって、身内の愚かしい理不尽は、相当堪えるものがあったのだろう。
だがローレンには女王を気遣う以前に、話の中に気にかかる事があった。
「その婚約者とは、どなたですか? 今の話を伺う限り、その婚約者が怪しい様に思えるのですが……」
「ええ、そう。そうよね。でも残念ながら、名前しかわかりませんの。それも街中で十回石を投げれば、一回はその名の者に当たる様な、よくある名前ですわ」
「よくある名前?」
「ええ、だってフロルですもの。王宮だけでも十人は居ますわよ」
◇◆
シュレイル宮で女王とローレンが話し込んでいる頃、王宮の地下にある魔術工房では、くりくり巻き毛の天才魔女が、ぶつぶつと、何かを口走りながら、一人思索に耽っていた。
日に焼けた胸元に、玉の汗が浮かんでいる。
涼しい午前とはいえ、窓のない地下、しかも夏の盛りである。
天才魔女は、白と緑のストライプ柄の下着の上に、直接白衣を羽織って、テーブルに足をかけ、椅子を揺らしていた。
シュゼットに頼まれたあるものを開発している途中だったのだが、考えれば考えるほどに、あの少年に纏わる一連の話に辻褄が合わなく思えてきて、作業の手を止めて、考え込んでしまったのだ。
やがて、長い思索の末に、天才魔女は一つの結論に至った。
「やっぱ、そうとしか考えらんないよねぇ……、だとしたら筆頭の人、陛下にまでウソ吐く気なのかな」