第二十八話 オウルネスト撤退戦 その4
「火炎幕!」
エステルが振り向き様に、追い縋る兵士たちへと両手をかざすと、そこから一気に炎が溢れ出した。
「うあっつ!」
「おい! しっかりしろ! 火を消せ!」
「馬鹿者! 追撃の手を緩めるな! 追ぇえ!」
直撃を受けて転げまわる兵士達、それを叩いて火を消す者達の尻を蹴り飛ばして、上官らしき男が叫ぶ。
たった一人の少女を追いかける、雲霞の様な兵士の群れ。
エステルは血と泥で泥濘む大地を蹴って、再び走り始める。
『犀』から、不覚にも敵のど真ん中に落下して、わずか数分後の出来事。
既に掴みかかってくる敵兵に上着を剥ぎ取られ、白いシャツと赤いスカートにも、ところどころに裂け目や鉤裂きが出来て、血が滲んでいる。
落ちた瞬間に全方位に向けて『火炎幕』を放ったのを皮切りに、短時間の間に、もう十回以上も第三階梯の魔法を放っている。
肩で息をしながら、自分の魔力の残量を探る。
おそらく、撃てたとしても後一回。
最後の一回は自決用だとすれば、既に第三階梯は撃てないことになる。
限界を見誤って、魔力切れで昏倒してしまったら、目も当てられない。
自決するタイミングすら失ってしまう。
生命線は、未だに燃え盛っているあの森。
あそこに逃げ込みさえすれば、火炎系統の魔女であるエステルならば、時間を稼ぐ事が出来る。
隙があれば逃げ出すこともできるだろうし、時間を掛けて休息を取り、魔力を回復させることもできるだろう。
森の入口まではあと二百メートルほど。
――よし、逃げ切れる!
エステルが小さく安堵の息を吐いたその時、唐突に彼女のすぐ脇を駆け抜けていく影があった。
それは、前時代的な全身甲冑を着込んだ男達。
それぞれに一頭の馬が牽く、車輪のついた鉄籠の様なものに乗って、エステルを追い抜きその進路へと回り込む。
「……帝国にも、なんか色々変なのがいるのね」
エステルは足を留めて、苦笑する。
呆れる様な物言いではあったが、その表情には余裕がない。
全身鎧の男達を載せた馬車が、ぐるぐるとエステルの周りを周回し始めると、追いついてきた兵士たちが、それを遠巻きに眺める形になった。
帝国には、競技場を周回しながら戦う、馬車競技があると聞いた事がある。
あの鉄製の籠みたいな馬車は、おそらくそれで用いるものなのだろう。
「第二階梯、火炎刀!」
エステルが魔法を発動させると、手の中に炎で形作られた剣が出現した。
だが、男たちに怯む様子はない。
「ヒャハハハハハ、魔女ォ! 正義は我にィありィィ! 観念して跪くが良いィィィィ!」
先頭を走る、一際豪華な全身鎧の男が、おかしなテンションで甲高い声を上げた。
「戦場で正義を語る様なのとは、話をしない事にしてるの。向こういってくんない?」
「我々はァ! 魔女から椅子どもを解放するゥ! 正義の軍であるゥ!」
エステルの諧謔混じりの一言を気にも留めず、男は話を続ける。
「椅子」――帝国の人間はレーヴルの男達を揶揄してそう呼ぶ。
言わずもがな、意味は「尻に敷かれているから」。
この辺りのセンスの無さがレーヴルの人間をして、帝国を侮らせる一因であることには間違いがない。
だが、なるほど。
一般向けには、この侵攻は抑圧された男たちの解放という名目になっているらしい。
流石に女王陛下に袖にされた腹いせが名目では、兵士たちの士気など上がる訳がない。
「悔改めよォォォォ! 跪けェェェェ! さすれば命だけは助けてやる! 喉を焼いて、手足を蝋で固めて、椅子として末永く使ってやろうではないかァァァ!」
「うるさい、バーカ!」
エステルは男の発言を、ものすごく雑に切り捨てた。
周回しながらの発言は、只でさえ聞き取りにくい。
その上、内容が妄言としか言いようがない物ともなれば、真面目に相手をするのも馬鹿らしくなっても仕方がないことだろう。
だが、男は気に食わなかったらしい。
周回しながら徐々に囲みを狭めていた、全身甲冑の男は奇声を上げて、エステルに襲いかかった。
「天バァアアアアアツ!」
振りかぶられた巨大な戦槌が、横なぎにエステルへと迫る。
「ッ!」
エステルは一つ息を飲み、素早く上半身を反らしてそれを躱すと、通り過ぎ様に男の胴を炎の刀で薙いだ。
だが、
「うわはッ! はっは! はっは! 効かない! 効かなィイ!」
見れば鎧の腹に黒く焼け焦げたような筋が一本入っただけ。
どうやらあの甲冑は見た目通り、相当に分厚い代物らしい。
そうしている間にも、後続の二人が続けざまに、戦槌を振り回す。一人目の戦鎚は、先程のとほぼ同じ軌道。仰け反る様にそれを躱すと、それ以上反らし様のない態勢になったところを狙って、次の一人が戦槌を繰り出してくる。
咄嗟に地面に倒れ込んで、それを躱すも戦鎚が胸元を掠め、大きく避けたシャツの胸元から、色気のない支給品の下着に包まれた胸が溢れ出た。
「くっ!」
恥ずかしがっていられる状況ではない。
だが、このままではどこまで行ってもジリ貧だ。
捕まれば、死ぬより酷い目に合うのは分かっている。
エステルは静かに目を閉じる。
「フロル……待たせたわね」
今は無き戦友の名を呟く。
エステルに身寄りは無い。
思い浮かべるべき家族もいない。
第十三小隊の仲間を思い浮かべようとして、最初に出てきたのがあの少年の姿だったことに、エステルは思わず苦笑した。
まあ、ここしばらくはあの少年に随分、振り回されたのだから、それも仕方がない。
「覚悟はできましたかァアアアン!」
先頭を走る全身甲冑が喚きながら戦槌を振り上げたところで、エステルは目を見開く。
身体の内側で、火炎幕を発動させて、相手もろとも爆死してやる。
「第三階て……」
振り上げられた鉄槌を見上げて、魔法を発動させようとしたその瞬間、
走行する馬車の上、先頭の全身鎧の男に、飛びかかる影があった。
◆◇
興奮気味に声を上げる兵士達を押しのけて、ヴァンは前へ前へと割り込んでいく。
戦場の只中でありながら、もはや此処は戦場ではない。
魔女を殺す見世物と、それに群がる野次馬達。
最前列に顔を出したヴァンが見たもの。
それは、半径5メートルほどの距離で三台の小さな馬車が走りまわり、その中央でエステルが燃え盛る炎の剣を手に、肩で息をしている姿であった。
ヴァンが野次馬から身体を引き抜こうともがいている内に、次々に戦鎚が、エステルを狙って振り下ろされる。
思わず目を見開くヴァンの目の前で、エステルの胸元を鉄槌がかすり、シャツのボタンがはじけ飛ぶ。
エステルの赤い髪が、揺れて乱れた。
ヴァンは思わず、ぎりりと奥歯を噛みしめる。
「よくもッ……!」
自分の声。
だがヴァンの耳には、それは何処か遠くで発せられた様に思えた。
そして次の瞬間、激しい頭痛に襲われて、ヴァンは思わず顔を歪める。
強引に頭を押さえつけて、水の中へと沈められていく様な感覚。
体中の熱を奪うような不自然な抑圧。
次から次へと湧き上がる激しい感情が、一つ一つ丁寧に打ち消されていく。
許せない。関係ない。助けたい。意味がない。それでも僕は! お前じゃ無理だ。
頭の中で、寄せて返す波のように、言葉が溢れる。
だが、エステルが静かに目を閉じたのを目にしたその時。
頭の中で口々にざわめいていた声が、一斉に一つの言葉を紡ぎ出した。
ーーもう殺させない!!
「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
ヴァンは、突然雄叫びを上げると、走行する馬車、その上の男へと飛び掛かった。
全身鎧の鉄にぶつかる自分の肉の感触。もがく男。両足を男の胴に回して、猿の様にしがみつくと、兜の内側の血走った目がヴァンを睨みつける。
手の平で兜をぐいと押しやると、くぐもった「ぐうぅ」という呻きが悔しげに響く。鎧と兜の継ぎ目、薄い布地に包まれた首筋。ヴァンはそこをじっと睨むと声を張り上げた。
「光弾狙撃!!!」
瞬時に宙空から落ちてきた光の槍が、寸分違わず男の首筋に風穴を開ける。
一瞬の間を置いて、黒く焦げた穴の中にどす黒い血が溢れ始め、やがてそれは瓶を落とした直後のエールのように、だくだくと外へと溢れ始める。
手から手綱を奪い取ると、ヴァンはガクガクと震えながら崩れ落ちていく男を、馬車の上から蹴落とした。