第二十六話 オウルネスト撤退戦 その2
森の輪郭が、赤い光の帯になぞられて、宵闇の中に浮かび上がる。
ロズリーヌの『鷹の目』の視界。
中空から見下ろす視界の内側で、中心へと向かって、炎が森を蝕んでいく。
――梟の巣。
そこに巣食う鳥の名ぐらいしか冠する物も無い小さな森に、帝国軍の兵士達が一斉に火を放ったのだ。
「頭おかしいんじゃないの!? 普通、一小隊を追い込むのに何千人も動員する?」
激しく揺れる『犀』の荷台の上で、エステルが声を荒げた。
「あはは、じゃ普通じゃないって事で良いんじゃないの」
「ノエル! 御者席に移れ! 正面から突っ込むことになるぞ! 敵が見えたら『光速指弾』を撃ちまくってやれ!」
「あははは! 了解! あは! 楽しくなってきたぁあ!」
ザザの指示を受けて、ノエルは興奮気味に喉の奥で笑いを転がしながら、御者席にいるベベットとロズリーヌの間に、頭から飛び込んでいく。
突然、押しのけられたロズリーヌが「ちょ、ちょっと! ノエルさん! 狭いですわよ!」と不満げな声を上げたが、ノエルは全くお構いなし。
ぐりぐりと身体をくねらせて二人の間に割り込むと、楽しくて仕方が無いとばかりに破顔した。
そうする間にも『犀』は、車体にぶつかる枝を折りながら、炎の方へと向かっていく。
徐々に黒い煙が木々の間に立ち込め始め、焦げ臭い匂いが鼻を衝いた。
やがて、
「ほ、炎を突っ切りますわよ! 出来るだけ真ん中に寄ってくださいまし!」
という、ロズリーヌの上擦った声の直後に、犀は、一気に火の海へと飛び込んだ。
途端に上昇する幌の内側の温度、立ち込める黒煙。
火蜥蜴の舌のような炎が、幌の隙間から荷台の上へと滑り込んできて、ヴァンの身体を絡めとる。
「うあッ!?」
「ヴァン軍曹!」
ヴァンが火の付いた上着の裾を叩いて荷台の上を転げ回ると、ミーロが慌ててその上に覆いかぶさって、火を揉み消す。
「大丈夫でありますか!」
「な……なんとか」
ルルは、二人の様子を横目にみながら立ち上がると、後部の乗降口から身を乗り出した。
「じゃ、ルルは先にマルゴに帰っちゃうから。皆、頑張ってねぇー」
「ちゅ、中尉! 自分だけ逃げるでありますか!」
「チッ、チッ、チッ! 人聞きの悪いこと言わないの。ルルは作戦失敗の報告しに戻るだけだよお」
人差し指を左右に振って、屈託の無い笑顔を浮かべると、ルルはそのまま乗降口から飛び出して、直上へと舞い上がっていった。
「ルル中尉! 中尉ッ! アナタそれでも軍人でありますか!」
「兎ちゃん! 放っておきなさい! あんなの居たってお荷物になるだけよ!」
エステルが辛辣に吐き捨てると、ミーロは、納得がいかないという雰囲気を纏わりつかせたまま、自分の身体の下でもがいているヴァンを助け起こした。
その時、カン! カン! カン! と金盥を叩く雨音の様な音が、金属製の幌の上から響きはじめる。
それまでの、小枝が車体にぶつかる音とは異なる、跳ねる様な衝突音。
途切れる事のないその音に合わせて、みるみる内に幌がぼこぼこと壊疽を起こした皮膚の様に歪んで凹み、薄い金属の幌を突き破って、次々と鏃が顔を覗かせ始めた。
「敵の石弓の射程圏内に入ったのね! ザザ! お願い!」
「分かってる!」
ザザは見る影も無く凸凹に歪んだ幌に、内側から手を当てると声を張り上げた。
「第四階梯! 反重力ッ!」
その途端、それまで響き続けていたカン! カン! と騒がしい音が消失した。
飛来した矢が幌に接触した途端、方向を変え、まるで落下するように、宙へと吸い込まれていく。
『反重力』――それはザザの使える魔法の内、最も階梯の高い魔法。
接触した物体にかかる重力を捻じ曲げる魔法であった。
「もうすぐ、森を抜けますわよ! 覚悟はよろしくて!」
ロズリーヌがそう声を上げると、
ベベットがアクセルを一気に踏み込み『犀』が唸りを上げて加速する。
「森を抜ける」
「あははははッ! いっけえええええええええええ!」
ベベットの呟き、ノエルの楽し気な大声とともに、『犀』は前輪を宙に持ち上げて、嘶く様に森を飛び出した。
「うわあああああああ! 魔女が出て来たぞおおおおお!」
「正面の連中! 逃げろ! 逃げるんだ!」
その有様は鎌首を持ち上げた大蛇の様。
「あはははは、道を開けてよッ!」
正面の窓から身を乗り出したノエルは、高らかに笑いながら、十本の指を大きく広げて、狙いもつけずに『光速指弾』を乱射した。
『犀』は八方から、響き渡る帝国兵士たちの怒号や悲鳴、その声のただ中を駆け抜ける。
「ノエルさん、調子に乗りすぎですわ!」
と、ロズリーヌがノエルの上着の裾を掴んで、御者席の上に引っ張り込んだ途端、浮き上がっていた前輪が大地に落ちて、車体が大きく跳ねた。
荷台の上では、前輪が接地する激しい衝撃に、ヴァンの身体が一瞬、浮かび上がる。
「うわっ……わっ」
「何やってんのよ、アンタ!」
エステルは反射的に腕を伸ばしてヴァンを掴み、腕を走る痛みに思わず顔を歪めた。
ヴァンは勢いのままに荷台に叩きつけられ、痛みにのたうちまわっているうちに名状しがたい怖気を感じて思わず唇を震わせる。
それは、荷台を通して車輪が何か柔らかいものを踏みつけにする、嫌な感触。
悲鳴、怒号、絶叫、恐慌。
それらを、吐き気を催すような肉の感触でパッケージングして出来上がった地獄に触れた感覚。
突っ伏したまま動かないヴァン。
慌てて駆け寄るミーロ。
エステルが痛む肩を押さえながら、その様子を眺め、そして顔を上げて、幌の外へと目を向ける。
後部の乗降口から見える光景。
それは燃え盛る森を背景に、照らし出される二本のどす黒い轍。
肉の塊を泥の中へと混ぜ込んだ、凄惨な大地の裂傷であった。
正面の兵士たちは、今も『犀』に追い立てられて、逃げまどっている。
だが人間という障害物を踏み越えながら進む『犀』の速度は落ちるばかり。
周囲を取り囲む兵士たちは、『犀』に追いすがり、手にした槍で鈍重な獲物に襲い掛かる。
ガンガンという音を立てて側面の幌が破れ、荷台の上には槍の穂先が突き出され始めている。
まさに多勢に無勢。
それは巨大な獲物に群がるハイエナの群れを思わせた。
依然突っ伏したままのヴァンの背をエステルが踏みにじる。
「いつまで守られてるつもりよ、バカ! 守る力がある癖に! アンタがしてるぼやぼやしてる所為で味方が死ぬことだってあんのよ!」
その瞬間の事である。
耳を劈く様な轟音が、薄暮の空に響き渡る。
片方の車輪が浮き上がるほどの衝撃。横向きのベクトルを持つ強い衝撃に『犀』の車体が大きく傾いた。
「んああぁ!」
ベベットが力任せに操縦桿を倒して、横転だけは避けようと必死に力を籠める。
丸太を積んだ帝国軍の馬車が、『犀』の側面に突進してきたのだ。
その時、ヴァンは見た。
ヴァンの方へと腕を伸ばしながら、驚愕の表情で後部から外へと投げ出されていくエステルの姿。
時間の流れが遅くなったような気がした。反射的に伸ばしたヴァンの指先は、むなしく空を切る。
兵士の群れの中へと飲み込まれていく赤毛の少女の姿。
「エステルさぁああああん!」
次の瞬間、ヴァンは走る車両から外へと、身を躍らせていた。