第百十九話 悔しいからですわよ。
「さあ、エステル少尉! 女王陛下が我々を待っておられるでありますよ。自分の肩に掴まるであります」
ミーロが、白々しいほど元気良く手を差し伸べると、エステルは項垂れたまま、消え入りそうな呟きを漏らした。
「…ァ……」
それは、擦れきった、聞き取れないほどの小さな声。
だが、それが人の名であることに気づくと、ミーロは思わずくしゃりと顔を歪ませる。
折角絞り出した空元気が、日向に放置された切り花のように萎れていく。
「少尉……しっかりしてくださいであります……そうでないと自分も、自分も……」
自らの懇願するような言葉の響きに刺激されて、ミーロの声が湿り気を帯びる。
そんな二人の様子を眺めていたロズリーヌは、静かに目を閉じた。
「兎さん。もう、良いですわ。エステルさんはここに置いていきます」
ミーロは目を見開いて、弾かれる様にロズリーヌの方を顧みる。
「そんな! ロズリーヌ少尉、仲間を置き去りにするでありますか!?」
「軍人として当然の措置ですわ。役立たずに割ける余裕なんてありませんもの」
「イヤであります! 自分は絶対に! 絶対に! イヤであります! 自分が少尉を背負うであります。守るであります!」
口角を泡立てて詰め寄ってくるミーロを、ロズリーヌは真剣な表情で見据える。
「出来もしないことを、口にすべきではありませんわ」
「しかし……であります」
ミーロが唇を噛み締めて、小刻みに肩を震わせる。
その時、ロズリーヌの背後から、鼻先で笑う声がした。
「ばっかねぇ、小動物。アンタ、この甘ちゃんが本気で誰かを見捨てられると思ってんの? ちょっとは察しなさいよ」
つかつかと歩み寄ってきたエリザベスが、ロズリーヌの肩に肘を掛けて、即座にうっとおしげに払われる。
一応、主従関係の筈なのだが、どうにもエリザベスの行動はロズリーヌの事を、出来の悪い妹か何かのように思っている節が見え隠れする。
「それは……どういう意味でありますか?」
「かーっ……みなまで言わないと分かんないっての? 私ら、今から王宮に向かうのよ。どう考えても、十中八九は全滅すんのよ? だからこの甘ちゃんは……」
「およしなさい! 駄犬ッ!」
ロズリーヌが叱りつけると、エリザベスはブスっと頬を膨らませる。
「いいじゃない別に! 私にしてみれば、アンタが何でいちいち悪者になろうとしてんのか、理解できないわよ」
ロズリーヌは、むくれるエリザベスを咎めるような目付きで睨みつける。そして、苦々しげに口を開いた。
「……悔しいからですわよ」
ロズリーヌは胸の奥に蟠っている物を無理やり引っ張り出すように、苦しげに、苦々しげに、言葉を紡ぐ。
「……ヴァン様はきっと戻ってこられますわ。でも、その時に誰もいなかったら……ヴァン様はきっと悲しまれます。でも、その小火女さえ生きていれば、ヴァン様はきっとこう仰られます。『キミだけでも生きていてくれて良かった』と……。その役目は兎さん、あなたにも、私にもできませんのよ」
「……ロズリーヌ少尉」
嫉妬に胸を焦がしながらの押し付けで、誰が善人ぶれるというのだろうか。
悪者にでもならなければ、救いがないではないか。
ミーロはロズリーヌの心中を慮って、思わず目を伏せた。
しばらくして、湿り気を帯びた空気を振り払う様に、エリザベスが声を上げた。
「あーあ! 折角大聖堂から逃げ出せたっていうのに、自分から死にに行くなんて、とんでもない貧乏くじだわ。まったく主人がアホじゃ、下の者はやるせないわよねー」
「リズ、あなたも残っていいんですのよ?」
「え、マジで!?」
「嘘ですわよ」
「……ですよねー」
軽口を叩き合う主従に背を向けて、ミーロはエステルの手を握り、耳元へと囁きかける。
「ヴァン准尉のことを……よろしくお願いするであります」
エステルは僅かに顔を上げ、定まらない瞳を揺らして、小首を傾げた。
その途端、王宮の方角から爆発音が響き渡る。聞き覚えのある音。それは、炎の第四階梯爆裂の爆発音。
「始まったみたいですわね」
見上げれば、幾つもの光が宙を裂いて飛び散っている。
恐らく竜に応戦する魔女達の放った光魔法だろう。
「二人とも、行きますわよ!」
ロズリーヌは声を上げると、スカートの裾を翻して表通りの方へと駆け出す。慌てて後を追うエリザベス。ミーロは名残惜しげに何度も振り返りながら、表通りへと駆けて行った。
◇ ◇ ◇
悲愴な決意とともに、ロズリーヌ達が王宮へと駆け出した頃、崩落した大聖堂のすぐ脇の通りでは、奇妙な光景が繰り広げられていた。
逃げ回る小さな影を、その二回りほども大きな影が追い回している。
同じところをグルグルと回る二つの影。
やがて大きな影が小さな影を一気に呑み込んだ。
その直後、影の内側。
真っ暗な空間の中で、ザザは頭痛を堪える様にこめかみを指で押さえた。
「あはは、ザザぁ! なんなのこれ? どうなってんの?」
「たのむ……私に聞かないでくれ」
目の前で繰り広げられる光景を、興味津々に眺めるノエル。
どういう訳か双子メイドの片割れサハは、口をへの字に曲げて不機嫌そうな顔をしている。
だが両者の視線の先にある物は同じ。
死人の様な目をしたベベットを挟み込んで、青白い顔をした年配の男と、人型の影が激しく頬ずりをしている。
「会いたかったよ。ボクのラブリーベイブ!」
「ベベちゃん、ママぁ寂しかったのよぉ!」
ベベットはされるがまま。
両側から抱きついてくる二人の方を見ようともせず、まるでスイッチを切ったかのように、光の無い目で、ただ宙空を見つめている。
「まあ……無にならないと病むな、あれは……」
「あはは、誰なのアレ?」
ノエルのその問いかけにザザは溜息混じりに答える。
「ベベットのご両親だ」
イヤそうな顔をしたサハが、そのままザザの言葉を引き継いだ。
「サハが申し上げます。ミュラー家の家宰。人でなしのマルタンとその奥方、『闇の住人』ジュリーです」
「へーそうなんだ」
考えてみれば、この双子のメイドもミュラー家の手の者。当然面識があってもおかしくはない。
「パパ……ママ……やめて。私はもう子供じゃない」
ベベットが無表情にそう呟くと、それを挟み込むマルタンと人型の影がぴたりと動きを止めた。
そして
「……かわいい。うちの子、かわいい」
「大人ぶるべべちゃん、超かわいい、ねえアナタ」
「ああ、かわいいな」
「はい、かわいいです」
二人の親バカは知能が下がり過ぎて、『かわいい』しか言えない種族みたいになっていた。