第百十八話 悪名
「『鷹の目』を使いたいところですわね。兎さん、魔力を分けてくださるかしら?」
ロズリーヌは声を押し殺して、ミーロの耳元で囁いた。
彼女達は咄嗟に手近な路地に身を隠し、エステルを除く三人は、壁面に頬を擦り付けながら、互いの上に身を乗り出す様にして、上空の竜を見上げている。
「退路を探すのでありますか?」
「それも一つですけど、フロルさんは最後の最後に王国を救って、玉座を得る。そんな茶番を語っていましたわよね」
「つまり、この段階であの竜の姿を見せるのは望ましくないはず。そういうことね?」
エリザベスが確認する様にそう言うと、ロズリーヌは小さく頷く。
「だから、方針を変更したのだとすれば、あの竜の目的、つまり次に何を狙っているかが問題ですの」
「なるほどであります。では、やるでありますよ」
ミーロはおもむろにロズリーヌの背に手を当てると、『放出』を発動させる。
魔力が流れ込んでくる感触に、「ほぅっ」とロズリーヌが熱っぽい吐息を零した。
「ありがとう。それで結構ですわ」
ロズリーヌは意識を集中して、自らの魔力を探る。
恐らく一回なら、問題なく発動できるだろう。
「第一階梯 鷹の目!」
その途端、ロズリーヌの瞳の中に、茨の様な文様が浮かび上がった。
彼女の視界は宙空へと舞い上がり、王都全体を上空から俯瞰し始める。
眼下に銀鱗の竜、その背中に生えたフロルの上半身に、レナードが怯える様にしがみついている。
「フロルさんが見ているのは、王宮の様ですわね」
「王宮? そういえば……女王陛下はもう、避難されておられるのでありましょうか?」
「おそらく、まだでしょうね。王宮前の広場に、正規兵に加えて、ジスタン公とペルワイズ公の私兵が整列していますわ。おそらく、女王陛下が脱出される準備段階なのだと思いますけど」
「じゃあ、もう答え出てるんじゃないの」
「そうですわね。フロルさんの次の目標は女王陛下ですわ」
ロズリーヌは、エリザベスとミーロ。そして、その背後でぼんやりと佇んでいるエステルを見回して、再び口を開く。
「救国の英雄として王位を得る目論みを捨てて、王位の簒奪に方針を切り替えたということなのでしょう。コルデイユはともかく、女王陛下と一緒に残りの三大貴族、ジスタン公とペルワイズ公も併せて仕留めてしまえば、もはやレナードさんの即位に異を唱えるものなどおりませんもの」
「まったく、周到に下準備しといて、結局最後は力尽くだなんて、バカなんじゃないの?」
「救国の英雄として即位した上で、酷い圧政を敷く方が、民の絶望は大きいですわ。あの女はそれを望んでいたはず。でも、そうも言っていられなくなるような問題が生じた。そういうことかしら……」
エリザベスが呆れる様に肩を竦めると、ロズリーヌが顎に指を当てて、考え込む素振りを見せた。
リュシール中尉の身体を失ったから?
それとも……まさか。
だが、次の瞬間、宙空から見下ろす視界の中で起こった変化に、ロズリーヌは慌てて声を上げる。
「龍が動きましたわ! 王宮の方へ!」
「じゃあ、今がチャンスってことね。逃げるんなら西門の方へ向かった方が……」
路地から駆け出そうとするエリザベスの手をつかんで、ロズリーヌは静かに首を振る。
「違いますわよ」
「違うって何が?」
「決まっていますわ」
「……で、あります」
「な、魔力も無いのに何血迷ってんのよ! アンタ達、バカじゃないの!?」
思わず慌てふためくエリザベスに、ロズリーヌとミーロが顔を見合わせて、思わず笑い合う。
そして、エリザベスに向き直るとロズリーヌは、
「残念ながら、ワタクシ達は女王陛下の軍人ですの。それも『死の十三』っていう、とびっきり性質の悪い名前を背負っていますのよ」
そう言った。
◇◇◇
廊下に響く幾つもの足音。
下級の王宮仕えの者達は既に逃げ去り、外の喧騒とは隔絶された王宮の静かな廊下を進んでいく、一団の姿があった。
宮廷武官に守られながら、三大貴族の内の二人、ジスタン公ジェコローラとペルワイズ公フルスリールが、両側から女王に腕を絡ませ、半ば引き摺る様に、王宮の入り口へと向かって歩いていた。
「ジェコローラ! フルスリール! 離しなさい。王たる者が民を置いて逃げる訳には……」
「陛下、ご自重くださいませ。今、ここで陛下の身に何かがあれば、それこそ我が王国は、二度と立ち上がることが出来なくなります」
「実際、御身は無力じゃ。陛下がおわしたところで、何ができるという訳ではありますまい?」
「ジェコローラ、それは流石に言葉が過ぎますわよ」
「事実じゃろうが」
吐き捨てるようなジスタン公のその言葉を無視して、ペルワイズ公は女王へと向き直る。
「良いですか、陛下。まずは我がペルワイズ家の領地を目指します。そこで王家に恩のある貴族達を募って、兵を集め、王都を奪還いたします。明日の為に今日の屈辱を呑み込んでくださいませ」
女王は唇を固く引き結んだまま、返事を返さない。
「陛下が王都を逃れられた後、王都全域で戦っておる味方の兵達にはペルワイズ領を目指して脱出する様、指示を出します。他国が攻め入って来たわけではありませんから、原理主義者達も、戦闘がおわれば無辜の民に手を出すようなことはいたしますまい」
ペルワイズ公が諭すようにそう言うと、女王は悔しげに顔を歪め、絞り出すような声で、「わかりました」、そう呟いた。
一団はやがて、正面入り口手前のホールへと至る。
シャンデリアの煌びやかな、吹き抜けの空間。
その大階段を駆け下りて、正面の扉の前までくると、外からザワザワと騒がしい兵士達の声が聞こえてきた。
「ペルワイズ公、兵数はどの程度じゃ」
「ワタクシとアナタの私兵、それに正規兵に王宮武官達を加えても、三百に届くかどうかというところですわね」
「ふむ、出来れば、戦闘は避けたいところじゃな……」
「ええ、ですから敵の少ない西門から王都を出て、北上するというルートをとりますわ。かなり遠回りではありますけど」
その回答に、ジスタン公は眉を顰める。
「西門が手薄なのは、罠ということはあるまいか?」
「その辺りは抜かりありませんわ。既に何度も『翼』系統の魔女を斥候に飛ばした上での結論です」
二人の間に挟まれている女王は、話に聞き耳を立てながら、ジスタン公が言ったとおりの、自分の無力さを思って気を滅入らせる。
やがて、先をいく王宮武官が正面の扉を押し開け、女王を始めとする一団が表へと歩み出ると、ざわついていた兵士達が、一斉に踵を鳴らして敬礼した。
居並ぶ兵士達を見回して、ジスタン公がしゃがれた声を張り上げる。
「これより女王陛下ご親征の軍を興す! これは敗走ではない。大きな軍略の一部。戦略的な撤退じゃ! 此処より先は女王陛下がご照覧くださるのじゃ! 貴様らは奮戦をもってお応えせよ!」
兵士達の歓声が上がり、部隊が行軍の為に移動し始める。
「それでは陛下、参りますぞ」
宮廷武官達に囲まれて女王が、王宮の玄関口、その大階段を降り始めると、軍勢の中から露払いの『翼』の魔女達が一斉に飛び立ち始める。
だが、
飛び立つ魔女達を目で追って、兵士達が激励の声を上げた途端、それが、いきなり悲鳴に変わった。
中空に飛び出した『翼』の魔女達。
その群れに、巨大な影が襲い掛かる。
雀の群れに飛び込んで来た、猛禽類を思わせる光景。
整然と飛び出した筈の『翼』の魔女達が、散り散りに逃げまどい、青空に悲鳴が木霊する。
何処からともなく現れた銀鱗の竜が『翼』の魔女の一人を、その鋭い牙に掛けると、地上の兵士達の頭上に赤い雨が降り注いだ。