第百十七話 かわいい、かわいい、超かわいい。
「暗い部屋!?」
影の中へと倒れ込みながら、ザザは思わず目を見開いた。
柔らかな闇の中へと落ちていく感触。
ベベットの魔法で過去に何度も体験してきた感触。
間違いない。
これは闇系統第一階梯、『暗い部屋』。
「噂には聞いておりましたが、最近の若い女性は積極的ですなぁ」
上下の感覚も曖昧な空間で、ザザの腕を掴んだまま、目の前の男が微笑んだ。
病的に痩せた白い肌。
白髪混じりの髪。
微笑んではいるが、目は笑っていない。
ザザは彼の手を払いのけて、身構える。
「女子の手を掴んで、闇の中に引きずり込むのは、紳士的とは言い難いな。ましてや、その責任を女子の積極性と言い張るなど、ならず者の所業だ」
「ははっ、これは手厳しい」
「……だが、助けられたのは事実だ。礼をいう」
「いえいえ、お礼など。我々も手間が省けましたので」
「だろうな」
手間が省けた。
男のその回答は、ザザにとっても意外なことでは無かった。
そもそも、ザザ達が地下道に降りたのは、ブルージュ男爵の屋敷を襲った、ミュラー家の私兵から逃れるためである。
ブルージュ男爵の屋敷の方角から来る者があるとすれば、それはミュラー家の手の者に他ならない。
ザザは頭の中で、冷静に状況を整理する。
男性であるこの男が、魔法を使える訳が無い。
すなわちこの暗闇の中に、彼とは別にもう一人、魔女がいるということだ。
戦って勝てるかと言えば、まず無理だろう。
『暗い部屋』の中ならば、全てが闇系統の魔女の思いのままだ。
実質、檻の中に閉じ込められているのに等しい。
「では、単刀直入にお伺いしましょう。隠し立てすると碌なことになりませんよ」
男は顎を上げて、威嚇する様にザザを見下ろす。
見てきた地獄の数を想像させる、鋭い眼光。
痩せこけた頬がより鋭角的な凄みを醸し出し、その凄まじい威圧感に、ザザは思わず奥歯を噛みしめた。
そして、
「私のラブリーベイブはどこです?」
「…………は?」
男の意味不明な問いかけに、ザザは肉料理と偽って、靴底を食べさせられた人みたいな顔をした。
らぶりぃべいぶ?
「すまない。どうも耳がおかしくなったようだ。もう一度頼む」
「ではあらためて。私のラブリーベイブは」
「待て待て待て!!! なんだその、ラブリーベイブというのは!?」
「あなた方の中で、一番かわいい娘に決まっております」
「それなら、目の前にいるではないか」
男は一瞬きょとんとした顔をした後、
「ハッ」
ほうれい線を歪めて、鼻で笑った。
――よし、殺そう。とりあえず、後でこの男は殺そう。
ザザは、そう心に決めた。
「そもそも、お前達はヴァン君とロズリーヌを追いかけて来たのではないのか!」
「一応、そういう名目にはなっておりますな」
「名目?」
「ええそうです。シュヴァリエ・デ・レーヴル様の再来がどうとか、周囲がわちゃわちゃしている間に、どさくさに紛れてウチの家出娘を連れ戻そうというのが、我々の真の目的でございます」
「完全に、家庭の事情ではないか!」
「そうですとも!」
男は、堂々と胸を張る。
ザザは大いに呆れながらも、この男の言うラブリーベイブが誰の事を指しているのか、大体想像がついた。
――こんなのが父親なら、そりゃあ父親嫌いにもなる。
厳めしい自分の父親にラブリーベイブなどと、呼ばれる事を想像して、ザザは何とも言えない顔をする。
尚、余談ではあるが、ちょうどこの頃、地上では氷漬けの大聖堂が砕け散っていた。
ザザは、大きなため息を吐くと、力なく肩を落としたまま口を開いた。
「ベベットなら、ついさっきまで一緒に、この上の大聖堂にいたよ」
途端に男――ベベットの父親は、ザザではない誰かに向けて声を上げた。
「ジュリー! 聞きましたね?」
「ええ。急ぎますわ、アナタ」
暗闇の中から、女性の柔らかな声が聞こえてきて、この空間そのものが移動し始める感触があった。
声のした方を見ても、姿は見えない。
ザザが声の聞こえた方を凝視しているのに気づいて、男が苦笑する。
「ご挨拶が遅れましたな。私はマルタン。妻のジュリーは恥ずかしがり屋でしてね。姿を隠したままのご無礼をお許しください。それと……」
マルタンは深々と頭を下げて、こう言った。
「ウチのかわいい、かわいい、超かわいい娘が、お世話になっております」
ザザは微かに頬を引き攣らせて、いつも眠そうな目の同僚に、深く同情した。
◇◇◇
「……イヤな予感がする」
「あはは、予感もなにも、大聖堂ぶっ壊れちゃってるんだけど?」
ベベットが突然身震いすると、ノエルが相変わらず能天気な調子で口を開いた。
崩落した大聖堂の残骸の中に、ぽつんと蟠る一つの影。
ベベットの影である。
今その影の内側には、ベベットとノエル。
それに加えて、双子メイドの片割れ――サハの姿があった。
「サハが申し上げます。とにかくここから移動すべきでは?」
崩れ落ちたとはいえ未だに、大聖堂のあったこの場所は、極寒の冷気に包まれている。
まかり間違って、『暗い部屋』が解除されることでもあれば、即座に凍死することは眼に見えている。
「じゃあ、ザザを追う? ロズリーヌ達に合流する?」
「あはは、……は。どうしよう」
この二人には、根本的に自主性というものが欠けている。
一見好き放題に見えるノエルにしても、基本的にはロズリーヌの指示に従って動いてきたのだ。
「……メイド、お前に決めさせてやる」
「え!?」
ベベットはとうとう、おまえがリーダーになれとばかりに決定権を放り出す。
それも、大聖堂につく前に、殺し合いを演じた相手に、である。
「サハが申し上げます。では、とにかくこの冷気の渦巻いているエリアの外に出て、そこで話し合うというのはいかがでしょう?」
結局、サハが下した決定は、先延ばし。
彼女も、ずっとエリザベスの指示の下で動いてきた暗殺者でしかなかったのだ。