第百十五話 魔女の抵抗
リュシールの首がごろりと落ちた途端、銀鱗の竜が咆哮を上げて、首をしならせた。
「うはっ、やばっ!?」
ノエルが慌てて影の中へ引っ込もうとジタバタすると、それを銀鱗の竜は恐ろしい三白眼で見据えて、大きく口を開いた。
竜の上下の牙の間に、白い光が満ちる。
――ブレス!?
ノエルが、思わず顔を引き攣らせたその瞬間、ザザの声が響き渡った。
「荷重付与ッ!」
力任せに上から押さえつけられたかの様に、竜の頭がガクンと地面に叩きつけられる。
「あははっ! ザザ、助かったぁー!」
「いいからとっとと移動しろ! そう長くは保たないぞ!」
能天気に笑うノエルを、ザザが切羽詰まった声で急き立てる。
実際、ザザには微塵も余裕が無い。
竜に向かって翳した両手は、プルプルと小刻みに震えていて、こめかみには血管が浮かび上がっている。
いつまで保つかは分からない。
とはいえ、ここを逃せばもう、竜の動きを止める機会を作れるかどうかすら分からない。
ザザは眉間に皺を寄せて竜を見据えたまま、背後に向かって声を上げる。
「ロズリーヌ! 兎ちゃん! エステルを連れてここから脱出しろ! 早く!」
「だ、脱出って言われても、どこから脱出すれば良いんですの!」
突然呼びかけられたロズリーヌは、おろおろと戸惑いながら問い返した。
「どこからでもいい! 早く! おい、毒の魔女! まともに戦えるのはお前だけだ! そいつらを頼む!」
「勝手な事をいうのね! まあ仕方ないか……ほら行くわよ、お嬢様!」
「ちょ! ちょっと、リズ! 押さないでくださいまし!」
毒づきながらもエリザベスは、ロズリーヌの背を押して、正面の扉の方へと走る様に促し、
「少尉! 我々も行くでありますよ!」
と、ミーロがエステルの手を曳いてそれに続いた。
一方、床の上へと押さえつけられた竜。
そのすぐ傍では、レナードが壁際を走っていくロズリーヌ達をぼんやりと眺めながら、膝から崩れ落ちる様に座り込んだ。
彼女は床に転がったリュシールの首を拾い上げると、その大きく見開かれた目を見据えて、ヒステリックに昂った声を上げる。
「約束が違いますわよ、叔母様……私を女王にしてくださる。そうおっしゃったじゃありませんの!」
――アイツも既にまともではないのか?
ザザが胸の内でそう呟いた途端、レナードの背後の壁面からベベットの影が、音も無く滑り落ちた。
影の内側へ引っ込んだのだろう。
ノエルの姿は既に見当たらない。
そのままベベット達が脱出してしまえば、後に残るのはザザ独り。
これは織り込み済みだ。
ところが、ザザの想像とは裏腹に、ベベットの影は床の上を緩慢な速度で、銀鱗の竜の方へと進み始めた。
「な! おい、何をする気だ!」
慌てたのはザザ。
確かに、口に出して打合せた訳では無い。
目配せだけで、完全に意思の疎通が出来るとは思っていなかったが、アホのノエルはともかくベベットまでが、そんな無謀な行動をとるとは思いもしなかった。
「バカ! 脱出するんだベベット!」
ザザの叫び声がベベットに届いていない筈は無い。
だが、影の動きに変化は無い。
やがて竜の眼前まで来ると、影の中からノエルが上半身を出して指先を竜へと向けた。
「あははっ! ザザぁ! ばーか! ばーか! ボクもベベットもエリートってのは大嫌いさ。損耗数最小? 自分も死者一名って数字でカウントすればいいと思ってる? 自分が犠牲になって皆を逃がそうとか、思い上がりもいい加減にして欲しいよね」
「ま、待て、ノエル!」
「光速指弾!」
ノエルの指先が向けられたのは、重力によって強引に地面に押さえつけられた竜の眼。
至近距離から放たれた光の矢が、竜の閉じられた瞼を直撃する。
だが、
「うっわ、固っ! マジで!?」
声を上げたのはノエル。
視界を奪えば、ザザも一緒に脱出する時間を稼げる筈。
そう踏んでいたのだが、彼女の一撃は、竜の瞼に僅かな焦げ目を残しただけだった。
だが、それが契機になった。
次の瞬間、
ぎゃああああああああああああああああああああああおおぅ!
竜は眼を見開くと同時に、怒りに満ち満ちた咆哮を上げる。
途端に信じられない程の力が、ザザの魔法を弾き飛ばし、バチッという破裂音とともに、必死に竜を押さえつけていたザザの手が弾かれて、指先から血が滴った。
「くうっ……化け物め!」
ぎゃああああああああああああああああああああああおおぅ!
両手を走る痛みに顔を歪めながらザザが呻くと、まるでそれに応じる様に、銀鱗の竜が、再び咆哮を上げた。
空気がビリビリと音を立てて震え、天井からパラパラと砂礫が降り注ぐ。
重力の軛を断ち切って、ふたたび動き出した竜は、すぐ傍にいるノエルには目もくれず、真っ直ぐにザザの方へと向かって動き始めた。
銀鱗の竜には、分かっているのだろう。
自分を無様に地面に押さえこんでいたのは誰なのかを。
地軸を揺らすような重い足音。
轟音とともに、鈍い銀の巨体がホールの長椅子を薙ぎ倒し、氷漬けの魔女達を踏み潰しながら突っ込んでくる、悪夢のごとき光景。
これには流石に、ザザも顔を蒼ざめさせた。
「だ、第一階梯 妖精の舞踏!」
ザザは声を上擦らせながら、必死に魔法を発動させる。
まさに紙一重。
ザザの体重がゼロになったのとほぼ同時に、銀鱗の竜は、彼女目掛けて突っ込んだ。
弾かれる様に宙を舞うザザ。
だが、それは竜に弾きとばされた訳では無い。
竜が突っ込んで来た際の風圧に乗って、宙を舞ったのだ。
眼下では、勢いのままに突進してきた竜が、祭壇に頭から突っ込んで、砕けた石壁が濛々と土煙を立ち昇らせている。
宙を舞いながら、思わずホッと吐息を漏らすザザ。
だが、その視界の端に予想外のものが飛び込んできて、彼女は思わず二度見する。
「おいおい、どうやってそんなところに……」
その視線の先にはステンドグラス。
地上十メートルほどの位置にある、その窓枠にぶら下がっている人の影。
それは黒いメイド服を纏った少女。
これにはザザも、驚くよりまず呆れた。
既にどこかで氷漬けになっていると思っていたのだが、この双子メイドの片割れは、想像を絶するしぶとさだった。
双子メイドの片割れ――サハはザザと目が合った途端、不快そうに鼻を鳴らし、フロアに向けて飛び降りた。
「第四階梯! 雷神の鉄槌」
フロアに降り立つなり、サハが声を上げる。
途端に中空で光が弾けた。
稲光が空気を切り裂き、雷鳴が轟く。
衝撃が駆け抜けて、稲妻がシュヴァリエ像を撃った。
竜が突っ込んだ祭壇の正面、巨大なシュヴァリエ像に墜ちる稲妻。
白亜の女神像は腰の辺りから真っ二つに折れて、竜の上へと崩れ落ちる。
地を這うような呻き声が響き渡り、竜の身体が瓦礫の下に見えなくなった。
ザザはふわりとフロアに着地すると、サハの方へと歩み寄る。
「おいメイド。良いタイミングだった。助かったぞ」
「サハが申し上げます。は? あなたを助けたつもりはありませんけど」
そのすかした物言いに、ザザは思わず苦笑する。
このメイドの中で、自分の立ち位置がまだ定まっていないのが、態度から見て取れたのだ。
その時、
「逃げるなら今のうち」
「「わっ!?」」
いつの間にか二人の足元に忍び寄っていた影から、ベベットが唐突に顔を出して、サハとザザの二人は思わず飛び退く。
「ベベット! 驚かせるんじゃない」
思わずザザが怒鳴りつけるも、ベベットは平然としたもので、
「こんなことで驚くなら、自分の心臓の小ささを恥じるべき」
そう言い放った。
ザザは一瞬ムッとしたが、逃げるなら確かに今しかないと、思い返す。
出口の方へと目を向けると、その手前にリュシールの首を抱えたままペタンと座り込んでいるレナードの姿があった。
――あいつはどうすべきだろう?
連れて逃げるか、放っておくか。
ザザは静かに目を伏せる。
ヴァンと血が繋がっているという事実がなければ、迷う必要もないのだが……。
「叔母様!? 叔母様ああああぁぁぁ!」
レナードの切羽詰まった声に、ザザが思わず顔を上げると、彼女の手の中でリュシールの首が粉末状になって崩れ落ちるのが見えた。
刹那、ピシピシと音を立てて、シュヴァリエ像の残骸が凍りつき始める。
ザザは思わず目を見開くと、切羽詰まった声を上げた。
「マズい、メイドっ! ベベットの影に飛び込め!」
「サハは申し上げます。なんでアナタの指示に従わ……」
「うるさい! とっとと行け!」
ベベット、ノエル、そしてメイド。
それで『暗い部屋』の定員は一杯だ。
シュヴァリエ像の残骸がはじけ飛んで、咆哮とともに、銀鱗の龍が再び立ち上がった。
「…………ばかな」
竜にダメージは見られない。
だが、ザザが言葉を失ったのはそれが理由ではない。
竜の背中から人の上半身が生えている――ザザの目にはそう見えた。
ノエルよりも、少しくすんだ金色の短髪。
切れ長の冷ややかな目、意志の強さが滲み出る口元。
その顔には見覚えがあった。
「ザザ……まさか身体を壊されるとは思わなかったわ」
竜の背中から生えた裸の上半身。
その女が、小さく肩を竦める。
「……フロル」
「じゃあ、戯れはこれぐらいにしましょうか」
途端に竜の身体を中心に魔力が膨れ上がりはじめる。
「くっ!」
ザザは竜に背を向けると、必死の形相で駆け出した。
竜の眼前に描き出される白銀の魔術回路。
「第七階梯……」
フロルの口から紡ぎ出される詠唱。
それを、ザザは背中で聞いた。
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