第百十四話 新しい女王
ヴァンの帰還から、少しだけ時間を遡る。
大聖堂の荘厳な空間は、混乱の巷へと変貌を遂げていた。
石畳のフロアに描き出された魔術回路から、のたうつ様に這い出てくる銀の鱗を持つ魔獣。
その禍禍しい姿に、礼拝の時にはボーイソプラノの讃美歌が響き渡っていた筈の空間が、今は逃げ惑う魔女たちの悲鳴で溢れ返っている。
「ば、化け物!」
「きゃああああああああああ!」
「た、助け……」
逃げ惑っている魔女は濃紺の軍服を纏ったミュラー公の私兵達。
足下から氷付き始めている同胞の姿に、彼女達は恐慌状態で我先にと出口の方へ殺到する。
「うふふ……、さてここから先はエピローグかしら」
英雄譚に語られるべきシュヴァリエ・デ・レーヴルはもういない。
物語は終わったのだ。
あとは残酷で悲惨な後日談を紡ぐだけ。
騒然とする周囲を気に留める様子も無く、リュシールは静かに目を細める。
ステンドグラスを通過して差し込んだ陽光が、宙に舞った埃をまるで美しい物であるかの様に照らし出し、鮮やかな色彩を纏った彩色ガラスの影が、呆然とした表情で凍り付いている魔女達の上へと落ちた。
一方、
「みんな、無事か!」
シュヴァリエ像の背後に飛び込んだザザが、その場にいる人間の顔をぐるりと見渡した。
表情は一様に沈んでいる。
呆然とするロズリーヌとベベット。
力づくで彼女達を引っ張り込んだ毒の魔女は、その首根っこを掴んだまま息を切らしている。
今にも泣き出しそうなミーロと、戸惑い混じりの微笑みを浮かべるノエル。
エステルに至っては、結わえた髪がフロアの埃に汚される事もおかまいなく、地面に蹲ったまま、嗚咽を洩らしていた。
「ちっ……」
ザザは思わず舌打ちする。
氷によるダメージを受けたものは居ない。
だが、あの少年が消えた事で、この場にいる人間のほとんどから、多かれ少なかれ生きる気力を奪ってしまった。
指揮官を失ったというのならばともかく、兵員をたった一人失っただけだというのにこの有様。
やはり色恋沙汰など何の役にも立ちはしない。
まさに百害あって一利無しだ。
「お前ら! いい加減にしろ! ヴァン君が死んだと決まった訳じゃないだろ!」
そう声を荒げて吐き捨てると、ザザは台座の上へと顔を出して、氷漬けになったフロアの方を覗き見る。
冷気で白く煙るフロア、氷漬けの礼拝用の椅子と魔女達。
その白い靄の向うに巨大な影が鎮座している。
それは、体長七メートル程もあろうかという、首の長い巨大な爬虫類。
「竜……ってやつか」
それは『建国譚』の挿絵に描かれたものと、ほぼ同じ姿。
――『建国譚』では、あの竜はどう描かれていただろうか?
正直ほとんど思い出せない。
だが、さっきのリュシールの話が事実だとすれば、あれがシュヴァリエ・デ・レーヴルが取り逃がした最後の一体。
そういう事なのだろう。
「さて……どうしたものか」
そう一人呟いて、ザザは思わず自嘲する。
どうしたもこうしたもない。
アレが炎の雄獅子同様の力を持っているならば、はっきり言って勝ち目はない。
第七階梯以上の魔法を行使されたが最後、何も出来ずに朽ち果てる事になるだろう。
「やはり……リュシールを先に倒すしかないか」
だが、リュシールはサハの雷剣に切り裂かれても平然としていたのだ。
簡単な話ではない。
リュシールの方へと目を向けると、竜の首筋を愛おしげに撫でながら、何かを話しかけている。
そして、更にその隣には、無表情に佇むレナードの姿があった。
――どういうことだ?
人質に取られていたはずなのに、レナードは拘束されもせず、竜の姿に怯えている様子も無い。
ザザが思わず眉根を寄せたその瞬間、
「ぎゃぉおおおおおおおおおおおおおおおお!」
唐突に氷の竜が咆哮を上げた。
それだけで、ビシビシと音を立てて空気が震え、大聖堂の建物そのものがギシギシと揺らぐ。
「ぐっ!」
ザザは思わず台座の向こう側へ頭を引っ込める。
「きゃっ!?」
背後から聞こえた声に振り返れば、ミーロが耳を塞いで、怯えた表情を浮かべていた。
「ロズリーヌ! 兎ちゃん!と、ウチのポンコツ少尉を頼む」
突然声を掛けられて、ロズリーヌが身体を跳ねさせる。
「わ、わかりましたわ。でもどうなさいますの?」
「やれることをやるだけだ。毒の魔女! お前は戦えるな」
「……体力はもう限界よ」
「うるさい。死にたくなかったら絞り出せ!」
その乱暴な物言いに、エリザベスは鼻白むような表情を見せた。
だが、そんなことにいちいち構っている場合ではない。
「ノエル! ベベット!」
ザザは二人の名を呼んで目配せする。
ベベットは小さく頷いて、ノエルは「あはは」と弱弱しい笑い声を零した。
それからザザはすうと大きく息を吸うと、全員の顔を見回して頷いた。
「いくぞ」
ザザは台座の上に飛び乗ると、リュシールを指さして大声を上げる。
「リュシール! そんな化け物まで呼び出して、お前は何をする気だ」
「何を……って? ザザぁ、アナタはもう少しお利口さんだと思ってたんだけどぉ……。あなた達を殺すに決まってるじゃないのぉ。その後はもうしばらく、リュシール・リズブールとして成り行きを楽しもうかしらぁ。だとするとしばらくは傍観ねぇ」
「傍観? えらく余裕ぶるじゃないか」
「だって余裕だものぉ。放っておいても原理主義者達は王都を陥落させるでしょう。女王は殺される。ところが原理主義者達が旗印にしていた筈のシュヴァリエ・デ・レーヴルの再来も行方不明。頭を失ったこの国は、混乱の坩堝に放り込まれるのよぉ」
「お前の方こそ、もっと思慮のある人間だとおもっていたのだがな。女王陛下を失おうとも、王族が途絶える訳ではないぞ」
リュシールは呆れたとでもいう様に肩を竦める。
「うふふ、そこで終わりだと思った? 馬鹿ね、その程度じゃ許してあげないわよぉ。シュヴァリエ・デ・レーヴルの再来は行方不明。でも混乱の最中に、その血を分けた実の妹が、強力な魔獣を従えて現れたら、どうなると思う?」
「なんだと・・・・・・」
「救いを求める者達は放っておいても、この娘を祭り上げるわよぉ」
ザザは思わずレナードの方へと目を向ける。
その途端、それまで無表情で佇んでいたレナードは、ザザを見据えてニターッと口元を歪めた。
「そう、新しい女王になるのは私。そういうことですの。ごめんなさいね、ザザ様」
「そして、この娘は、私の庇護の元、どうしようも無いぐらい酷い、汚物みたいな国を作り上げるの。圧倒的な力で民衆を絞り上げ、奴隷以下の生活を強いる苛烈な独裁国家。逃げる者は殺し、逆らう者は一族郎党根絶やしにして、死屍累々。そして、最低の国として、歴史に名を刻むのよぉ」
「狂ってる……」
ザザは思わず声を震わせる。
「そうかもねぇ。でももう私を止められるものは居ないわぁ」
「ヴァ、ヴァン君が死んだという保証はない! おまえの言う通りなら、彼は七十一の悪魔をその身に宿すシュヴァリエ・デ・レーヴルなのだからな!」
「ふふっ、そうね。死んではいないかも。でも戻ってくることなんてできないわよぉ。煉獄は地もなければ空もない。何もない暗黒の空間、そこをただ漂いながら、命の終わりを待つだけよぉ」
「……結局、我々は、我々だけの力で貴様をどうにかせねばならんと……そういうことだな」
「うふふふふ、無理よぉ、あなた達じゃ」
「できるさ! 話に乗ってくれたおかげで、充分に時間を作れたからな。ノエルッ!!!」
ザザが叫ぶと同時に、リュシールの背後、壁の上に不自然に張り付いた影から二本の手が伸びる。
「あはははは! ごめんね中尉!」
「叔母様っ!」
影から上半身を乗り出したノエルが、リュシールの首を両手で掴むと、レナードが驚愕の声を上げた。
そして、
「光速指弾オオオオッ!」
ノエルの十本の指、その指先から一斉に眩い光が迸る。
次の瞬間、首筋がズタズタに焼ききれたリュシールの首。
それがゴトリと鈍い音を立てて、フロアに転がった。