第百十一話 フロルという名の女
大変、お待たせいたしました。
第五章 王都決戦篇をスタートします!
王都は黒煙の只中に在り。
城門破れ、陋巷に兵の溢れん事夥し。
過日の朋も、今日の敵とて干戈を交え、相果て、末枯れの野に躯を晒すこと累々たり。
後世の記録には、この日の王都での戦闘の激しさが、こう記されている。
原理主義を奉じる貴族が率いる兵士達は、外周を取り囲む様に王都へと侵攻し、対する王都の正規兵は、早い段階から劣勢に立たされている。
ブルージュ男爵の屋敷の傍で最初の火の手が上がってから、ニ時間余りが経過する頃には、城門は突破され、戦闘は攻城戦から主に市街戦へと移り変わっていた。
攻める側、守る側、共にこの国の兵士であるがゆえに、無暗な虐殺が起こる訳でもなかったが、逃げ場を求めた市民達で王宮周辺も慌ただしさを増している。
だが、混乱を来たしているのは庶民だけではない。
王宮の内部も状況は変わらない。
軍人はともかく、文官達においては、逃げ出す者と最後まで己の職務にしがみつこうという者達が入交って、回廊はごった返している。
王宮で勤める者のほとんどが女性であるがゆえに、味方の劣勢が伝えられる度に甲高い声が飛び交って、その混乱は既にヒステリックな色彩を帯びていた。
そんな騒がしい王宮の回廊を、一人の少女が人波を縫う様に歩いている。
確固たる目的を感じさせる淀みの無い足取り。
それは、茶色のくりくり巻き毛の幼げな少女。
白衣の下に、ダボダボの作業着を着込んだ彼女の名はマセマー=ロウ。
狂気の錬金術師の異名を持つ、この国最高の技術者である。
ざわざわと騒々しい回廊も、奥へと進むに連れて人影は乏しくなっていく。
やがて彼女は王宮一階の奥。別棟となった重厚な建物の入り口へと至って、扉に手を掛けた。
扉の上に掲げられたプレート。そこに示されている文字は『人事院』。
彼女は既に誰もいなくなった部屋へ足を踏み入れると、カウンターを乗り越えて、その奥の書庫を覗き込む。
「おーい、誰もいませんよねーっと」
冗談めかした感じで奥へと呼びかけても返事は無く、遠くから聞こえてくる文官達の喧騒がこの部屋の静けさを一層際立たせる。
壁一面に並んだ書架をぐるりと見回して、彼女はめんどくさそうに頭を掻いた。
「うへぇ……こんなに沢山あるんだ……誰か一緒に連れて来ればよかったよ」
書架に囲まれた部屋の真ん中には大きな樫のテーブル。
その上には、作業途中の紙束が乱雑に積まれ、半分ほど残ったお茶のカップが、つい先ほどまでここにいた人間の息遣いを感じさせた。
彼女は気だるげにテーブルにもたれ掛かると、腕を組んで書架に並んだ紙束を見上げる。
そこに並んでいるのは王国貴族の名簿。
彼女が混乱に乗じてここを訪れたのは、ある人物の記録を調べるためだ。
貴族であるなら、しかも軍属であるなら当然、その中に名が記されている筈である。
正統な理由も告げずに、推測だけで個人の記録を閲覧することなど出来はしない。
「ヨ……ヨ……こっちかな?」
指を差しながら、端から順番に背表紙に書かれた家名を目で追っていく。
やがて彼女はにんまりと笑うと、紙束の一つを手に取った。
その背表紙に書かれた家名は『ヨーク家』。
ぺらぺらとページを捲りながら、マセマーは呟く。
「へぇ……根っこはウチと同じなんだ」
根っこ――つまり祖先はロウ家と同じ、マルゴット伯爵家の傍流の傍流。
それがヨーク子爵家という訳だ。
記録どうりなら十数代ほど前にマルゴット伯爵家から分かれた家から、更に三代前に分かれてヨーク子爵家として成立している。
現当主はアニエス=ヨーク。
その伴侶はジョルディ=ヨーク。
二人の間にはレナード=ヨークの名があり、更にその脇に、如何にも最近書き足された様な字で養子:ヴァン=ヨークと記されていた。
「ふーん、一応養子扱いで届け出てはいるんだね」
マセマーは少し意外そうにつぶやくと、そこからその更に一代前の記述へとページを遡る。
そこには、前当主ジザベル=ヨークの名がある。
その脇に伴侶はメスト=ヨークと記述があり、ブルージュ男爵家から婿入りした事が追記されていた。
その二人の間にある名は三つ。
つまり子供は三人。
いずれも女性らしかった。
長女アニエス=ヨーク、次女フロル=ヨーク、三女シャルロット=ヨーク。
「見つけた!」
そう言いながら、マセマーが指でなぞったのは次女の名前。
――フロル=ヨーク。
シュゼットの推測によれば、リュシールの正体は、リュシールを庇って戦死したことになっているフロル=カペル上級曹長。
記録によれば、彼女は下級貴族のカペル家の末娘という事になっている。
だがシュゼットは、彼女がヨーク家に連なる人間ではないかと疑って、マセマーをここへ寄越したのだ。
その根拠は、ミーロからの報告である。
帝国の大進撃の際、ミーロとザザの二人は、地下道でリュシールと対峙した。
その際、リュシールはヴァンの事を無価値と呼んだのだという。
ヴァンは、マルゴ要塞に来る段階で、その名を風と変えている。
それ以前の呼び名を知る者は、マルゴ要塞ではシュゼットとラデロのみ。
それを除けば、ヨーク子爵領で農奴だった頃のヴァンを知る者だけなのだ。
マセマーは更にページを捲って、フロル=ヨークの詳細な記述を探す。
見つけた。
「は? なにこれ?」
それは余りにもおかしな記録だった。
彼女は、十一年前に一度死んでいた。
死因は自殺。
だが、その死の記録には、二重線が引かれて修正されている。
そこに走り書きで記された修正日は二年前。
そして、そのすぐ後に、彼女はカペル家へ養子として出たことになっている。
九年間死んでいた筈の人間が突然、復活したことになっているのだ。
だが、その意味の分からない状況を脇に置いてしまえば、フロル=ヨークとフロル=カペルが同一人物であることは間違いない。
そう思ったのも束の間、次の一文を目にした途端、マセマーは眉根を寄せた。
そこには、フロル=ヨーク――彼女の魔法系統の記述があったのだ。
そこに記されていたのは「火炎系統」。
ラデロとの戦闘で彼女が使ったのは氷雪系魔法だと聞いている。
すべての糸が繋がりかけたところで、最後の最後で繋がらない。
「十一年前に死んだフロル=ヨークとフロル=カペルは別人ってことなのかな?」
いや、なにかまだパズルのピースが足りていない。
そんな気がした。
◆◆◆
鋼の拳が鉄を叩く硬質な音が、一際高く響き渡った。
高機動車輛を正面からぶん殴る、アネモネの姿を遠目に眺めながら、
――張り切ってるなぁ。あの試練娘。
と、シュゼットはまるで他人事の様に、胸の内で呟いた。
どこか遠い目をするシュゼットを見据えて、マテルが声を上げる。
「種明かしが早すぎましたな、マルゴット卿! つまり、アナタを先に倒してしまえば、彼女達が生き返ってくる事は、もう無いということだ」
「ああ、貴殿の事を忘れてたよ、マテル殿。まあ、仰る通りなのだが、貴殿にそれが出来るかな? 私よりも年次が上の癖に、万年副官のマテル殿」
シュゼットが揶揄う様な調子でそう言い放つと、マテルは顔を真っ赤にして、地団駄を踏んだ。
「後方支援しかできない欠陥系統の癖にぃ!」
マテルが金切り声を上げると同時に彼女の足元で、旋風が渦を巻き始める。
すると、何を思ったかシュゼットは彼女を指さして、笑い始めた。
「はははははっ! 相変わらず堪え性が無いな、先輩! 風系統なのだから、そのくらい涼し気な顔をして聞き流して貰いたいものだ」
「うるさい! うるさい! オマエは既に魔法を一つ発動中だ。それとも同時に二つ魔法を扱えるとでもいう気か!」
マテルの感情の高まりそのままに、旋風が勢いを増した、その時、
「よし! リル! アームを上げろ!」
「ひ、ひゃい!」
シュゼットが車両の操縦席を覗き込んで、リルへと指示を出す。
すると試作高機動車輛『盾亀』の最も特徴的な部位。
車輛前方に盾の様に掲げられていた鋼板。
それを支えていた鉄製のアームが、ギシギシと音を立てて、高く跳ね上がった。
まるで空に向かって盾を掲げる様なその意味不明な挙動に、マテルは一瞬戸惑う様な表情をみせた後、声を上げて嘲笑う。
「はははは! バカめ! 操作を誤ったな! 喰らえぇ! 第三階梯 旋風刃」
途端にマテルの足元で渦巻いていた旋風が、幾つもの小さな旋風に分かれて弧を描きながら、シュゼットへと迫る。
だが、次の瞬間、マテルは驚愕に目を見開いた。
シュゼットに向けて放った筈の旋風が、いきなり軌道を変えて、あの訳の分からない高機動車輛が掲げたアームの先。そこにある鋼板へと吸い寄せられていったのだ。
巻き上げた土が、鉄板を叩くカンカンという音が響き、やがて旋風が掻き消えると、シュゼットは楽し気に笑った。
「ははは、大したものだな」
この『盾亀』の正式名称は、対魔法試作高機動車輛。
アームに取り付けられた鋼板には、魔法を吸い寄せる効果があるのだ。
もちろん無効化出来る訳では無いので、爆裂などの物理的な破壊力の強い魔法相手では、一発か二発を防ぐ事が精一杯なのだが、幸いにもマテルの風系統の魔法のような切り裂くタイプの魔法には、これは頗る効果的であった。
「バカな! 何なんだそれは!」
マテルが思わず声を上げたその瞬間の事である。
彼女の背後で、突然、凄まじい閃光が走った。
視界が一瞬にして白く染まる程の閃光。
続いて激しい轟音が鳴り響き、マテルは吹っ飛ばされるように前のめりに地に伏した。
見上げれば、シュゼットは眩しげに眼前に手を翳して、顔を背けている。
「一体、何が……ひっ!?」
マテルが眩しげに目を細めて、背後を振り返ったその時、彼女はまるで癇癪を起した子供がなぎ倒した積み木の様に、大型高機動車輛『犀』が跳ね飛ばされて、激しい閃光の中、くるくると宙を舞っているのを見た。