第百十話 脱出
「雷霆の主、汝の名は――」
ヴァンは眼を見開いて、一際大きな声を張り上げた。
「――フルゴリウス!」
フロアに浮かび上がった魔術回路が激しく明滅して、そこから溢れ出た紫電が大気を焦がす。
続いて黄金の瘴気が漏れ出し、その奥から尖った獣の鼻先が三つ、爆発音にも似た轟音と共に突き出した。
キャァァァァァァァァァァァァァァァン!
響き渡る甲高い長声音。獣の鳴き声。
その鋭い音が、赤い空を斬りつける。
徐々に這い出して来る三つの首。
しなやかな金毛に覆われた優美な身体。
腹は白く、脚の先だけが黒い。
最後に収穫間近の稲穂の様なふさふさとした五本の尻尾が現れた。
――え? きつね?
レオの拍子の抜けた様な声が脳裏で響く。
どんな凶悪なものが出てくるのかと思えば、意外にも愛嬌のある顔立ち。
その姿はきつね。
三頭五尾の巨大な妖狐であった。
だが、それでもやはり魔獣。
バチバチと音を立てて、しなやかな体躯に紫電を纏い、雷に耐性を持たぬ者であれば、触れる事すら適わない。
黄金の狐は、魔術回路から抜け出るや否や、甘える様に頭の一つをヴァンの足へと擦り付ける。
予想外のフレンドリーさに、ヴァンは思わず苦笑する。
顎の下に指を伸ばして撫でてやると、狐は気持ちよさげに目を細めた。
――レオが申し上げます。レオを差し置いて甘えるとは、狐の癖に良い度胸です。
「レオさん、変なところで張り合わないでくださいよ……」
呆れて首を竦めるヴァン。
冗談めかしたやり取り。
だが、悪魔が、それを待ってくれる訳ではない。
ウヴォヴァアアアアアァアアアアアアアァアアアアアア!
危機を察知して、一度足を止めた悪魔ではあったが、ふたたび胸を反らして雄叫びを上げると、魔術回路から溢れ出す紫電を蹴散らす様に前進し始めた。
悪魔は、黄金の狐には目もくれない。
ただ真っ直ぐにヴァンを見据えて突っ込んでくる。
「フルゴリウス! 雷神の鉄槌!」
ヴァンが呼びかけると、
キャァァァァァァァァァァァァァァァン!
黄金の狐は水を払うかのように、ぶるりと身体を震わせて、甲高い鳴き声を上げた。
途端に、三つの頭それぞれの鼻先に魔術回路が浮かび上がる。
空が激しく明滅し、三つの稲妻が絡まり合う様に悪魔を直撃する。
ヴァンが思わず腕で顔を庇って身を捩ると、刹那、ドーンと腹の底から突き上げる様な轟音が響き渡った。
立ち昇る白煙。
山羊の頭が大きく二つに避けている。
だが、悪魔は突進を止めない。
寧ろ、怒りに火をつけられたとでもいう様に、八本の細い脚を忙しなく動かして、ヴァンの方へと迫ってくる。
『雷神の鉄槌』で倒せるとは思ってはいなかったが、まさか動きを止める事すらできないとは。
どうやら悪魔の中に、雷に対する耐性が出来つつあるらしい。
ヴァンが慌てて背に飛び乗ると、黄金の狐は一声鳴いて、宙へと跳ねる。
間一髪、今まさにヴァンがいたその場所を、悪魔が振り下ろした拳が穿った。
――レオが申し上げます。とんでもない化け物です。どんどん強くなっていきます。
ヴァンの右腕に纏わりつく、稲妻と化したレオが囁いた。
黄金の狐は、足元に生じさせた紫電の上を跳ねて、宙を高くへと駆け上っていく。
塔の上を旋回しながら、見下ろせば悪魔の大きく裂けた頭部は、早くも再生しつつあった。
――レオが申し上げます。このまま元の世界への出口へ向かいましょう。いつ閉じ始めるかわかりません。
レオの言う事はあまりにも尤も。
ここまでは悪魔も追ってこれはしない。
だが、
「イヤです」
――え?
ヴァンの明確な拒絶に、レオの戸惑うような声が脳裏に響いた。
――いや、でも……。
ヴァンはレオの言葉を遮って口を開いた。
「レオさん。僕は生まれて初めて、心の底から無茶苦茶にしてやりたい、粉々にしてやりたいと思う相手に出会いました。大好きな人を傷つけられた怒り、大切な物を奪われかけた腹立たしさ。元の世界に戻れば、きっとこの感情は抑えつけられたまま僕の胸の内に蟠る事になる。だから、この感情はここへ置いていきたいんです」
レオは元の世界で、ヴァンの感情が制約に縛られている事を知らない。
戸惑うレオを放置して、ヴァンは黄金の狐へと呼びかけた。
「フルゴリウス!」
キャァァァァァァァァァァァァァァァン!
黄金の狐がそれに応じると、ヴァンは眼下に悪魔の姿を見下ろす。
既に頭部を再生し終えた悪魔。
その山羊の縦長の黒目が、小動もせずにヴァンを見詰めている。
だが、その一方で悪魔の足元は、目まぐるしく形を変え続けていた。
まるで粘土をこねる様に脚が形を失い、何か別の形が浮かび上がりかけては再び形を失う。
それを繰り返している。
――あれは……。
「たぶん、僕らのところへどうやったら届くかを、模索してるんだと思います」
やがて、悪魔の足元が一つの形を為した。
大きな腿。
脛がひざより前に出る、逆向きのくの字型。
鳥や昆虫のような、見るからに跳躍力を秘めた形状。
――来ます!
レオの声が頭の中に響くと同時に、悪魔の身体がガクンと沈み込む。
ウヴォヴァアアアアアァアアアアアアアァアアアアアア!
次の瞬間、絶叫と共に悪魔は、いきなり跳躍した。
下からものすごい勢いで迫ってくる悪魔。
だがヴァンはその姿を見下ろして、冷たく言い放った。
「消えてしまえ」
刹那、フルゴリウスの身体の真下を、幾つもの紫電が駆け抜けて、巨大な魔術回路が浮かび上がるとそれが、真っ直ぐに降下し始める。
飛来する悪魔。
降下する魔術回路。
その接触は瞬間。
悪魔は魔術回路を突き抜け、魔術回路はまるで重力に牽かれるように、そのまま落下していく。
そして、悪魔が黄金の狐の白い腹を引き裂かんと爪を伸ばしたその瞬間、真っ赤な空にヴァンの叫びが響き渡った。
「第九階梯 原子分解!!」
魔術回路が通過した範囲。
円筒形の領域が、激しく明滅する。
途端に悪魔の爪の先から、黒い粉末が噴き出した。
噴き出した――レオの目にはそう見えた。
だが、さにあらず。
黒い粉末の正体、それは分解された悪魔の身体そのもの。
まるで病原菌に浸食される様に。
火にくべた紙が燃え尽きていく様に。
悪魔の身体が、光に蝕まれていく。
悪魔を形作っていた何もかもが、最小単位に分解されて舞い散り、宙空で消滅していく。
既に身体の大半を失った悪魔の山羊の目が、ヴァンを見据えた。
そして、
ウヴォヴァアアアアアァアアアアアアアァアアアアアア!
最期の咆哮を宙に残して、悪魔は完全に消滅した。
ヴァンは静かに目を閉じると、ふぅと一つ息を吐く。
そして右腕に纏わりつく稲妻へと微笑みかけた。
「レオさん……帰りましょうか」
――レオは申し上げます。はい、アナタ。
赤い山の中腹、その上空へと目を向ければ、元の世界へと繋がる裂け目が見える。
「フルゴリウス! 『雷化』」
キャァァァァァァァァァァァァァァァン!
黄金の狐が声を上げて鳴くと、ヴァンと狐は淡い光に包まれる。
そして次の瞬間。
まさに光の速さで、赤い空に浮かんだ裂け目へと、吸い込まれて行った。