第百九話 愛を叫んだ獣
「アネモネ嬢ちゃん! 『無窮』の破壊ってのは、アンタにまかせた。頑張って手柄たてな!」
クルスが並走するアネモネにそう言い放つと、アネモネは呆れる様に肩を竦めた。
「大尉……いきなり全部ぶん投げるのは酷くないですか?」
「酷くねぇ、酷くねぇ! だってオメェ、ずっと殺り合いたかった相手がそこに居て、しかも敵同士! ガチの殺りあいができんだぞ。こちとらお預け喰らわされてる場合じゃねえんだよ!」
アネモネは「はあ……」と、大きなため息を吐くと、
「もう勝手にしてください」
そう言って、敵の車輛を回り込む様に、大きくコースを変えて離れていく。
「おう、勝手にするってぇの!」
もはや振り向く素振りも見せないアネモネにそう言い放つと、クルスは犬歯を剥き出しにしてニヤッと嗤った。
正面に目を向ければ、こちらを見据えて居並ぶジグムント要塞の魔女達。
そして、その中央には、仁王立ちする男顔負けの巨体――クルスが焦がれてやまない想い人がいる。
「自分から出て来てくれるたぁ、痛み入るぜ!」
王国最強の武人、ペネロペ=ドロテオ。
クルスは足を止めると、天に腕を伸ばして声を上げた。
「ペネロペの大将! 今度はさっきみたいにゃいかねえぞ! 第二階梯『人喰らい』!」
途端に宙空に現れる巨大な黒剣。
ゆっくりと旋回し始めるソレを眺めて、
「へー、それが名高い魔剣なのね」
と、ペネロペは感心する様な声を上げた。
熊の様な外見からは予想もつかない可愛らしい、幼女の様な声。
その凄まじいギャップに、クルスが思わずビクッと身体を跳ねさせる。
その瞬間、
隙が出来た! そう思ったのだろう。
一団の端から、若い魔女が剣を振り上げながら駆けだしてきて、クルスへと襲い掛かる。
「死ねええ!」
若い魔女がそう声を上げたその瞬間、クルスは魔女を見据えて、揶揄うような嗤い声を上げた。
「はっはァ! まあ、若いってのと、無謀ってのはよぉ、だいたい同じ意味だけどな……」
クルスは特段慌てる様子も無く、迫りくる魔女へと剣先を向ける。
すると、その剣の先端が唐突に風船の様に膨らんだ。
「ちゃんと、相手を見てからにしろよなっと!」
クルスが吐き捨てる様にそう叫んだ途端、若い魔女は思わず目を見開く。
丸く膨らんだ剣先が、熟れた果実の様に一気に弾けたのだ。
まるで割れ竹の様に、先端から八つに割れて、その奥に暗黒の穴が口を開ける。
まるで生きているかのように、割れた剣先がうねって、若い魔女へと襲い掛かった。
「なっ!?」
それが軟体動物の触手の様にしなって、慌てる魔女の身体を絡めとる。
必死に宙を掻く魔女。
だが
「きゃあああああああああああああああああ!」
その抵抗も空しく、絹を裂く様な悲鳴を残して、魔女は暗黒の穴へと引きずり込まれていった。
余りの事に魔女の一団は声を失って、静まり返る。
その重苦しい沈黙の中を、アネモネが敵と接触したのだろう。どこか遠くから破裂する様な音が響いていた。
一様に恐怖に顔を引き攣らせる魔女達、その中央で平然とした面持ちのままクルスを見据えるペネロペ。
クルスは彼女へと暗黒の穴を開けた剣先を向けて、胸を反らせた。
「アンタが王国最強ってのも今日までだ! 覚悟しな、筋肉ダルマ!」
◆◆◆
赤い空がひび割れた。
フロアの上でもがく悪魔。
その背後、崩れ落ちた壁の、その更に向こう側。
塔の外を閃光が走った。
遥か彼方、赤い山の中腹。
その上空が真っ二つに裂けて、光が漏れ出している。
ヴァンには、それが何なのかはっきりと分かった。
クルスが魔剣を使ったのだ。
元の世界との間に今、道が繋がっている。
だが、あの赤い山は遥か彼方。
徒歩で目指した所で何日掛かるかすら、想像もつかない。
だが、今すぐ元の世界に戻れれば……、治療を施せれば……、レオを助けることが出来る。
ヴァンはそう確信した。
そして自分が何をすべきかも。
「レオさん、僕は貴女を、こんなところで死なせはしない!」
ヴァンはレオの身体を抱き起こすと、その顔を覗き込んだ。
腕を伝わってくる微かな震え。
血に染まる口元、弱々しい吐息、虚ろな瞳。
風に揺らぐ小さな灯の様な命。
ヴァンは、彼女の頭を膝にのせ、口元を引き結ぶと、自分の首の後ろに手を伸ばしてチョーカーを外した。
これが不誠実な事なのは分かっている。
だが、もう決めた。
自分で決めた。
他の誰でもない。
自分が決めたのだ。
ヴァンは静かに目を瞑り、スッと鼻で息を吸う。
そして、ゆっくりと目を開くと、レオの耳元へと顔を近づけて囁いた。
「……レオさん、僕と結婚してください」
ヴァンの腕の中で、彼女の身体がぴくんと跳ねる。
ヴァンは彼女の瞳の奥に僅かな光が揺らめいたのを見た。
「僕には他に好きな人がいます。たぶん欲張りなんだと思います。どっちが好きだと言われれば、正直レオさんよりまだ、彼女の方が好き……なんだと思います。でも、それでも、僕はあなたを失いたくない! あなたにも僕の傍に居て欲しいんです!」
レオが微かに頬を膨らませる様な素振りを見せて、そして口元を僅かに綻ばせる。
――アナタのデリカシーのないところは嫌いです。
此処へ来てからずっと、寄り添う様に過ごしてきたのだ、レオの言わんとしている事が手に取る様に分かる。
そしてもし元気なら彼女はこう続けるのだろう。
――神様が頑張った者しか助けてくれないのなら、レオは頑張ります。頑張ってアナタの一番になります。
確かに最低のプロポーズだ。
不誠実だ。
だが、まごうことなき本心だ。
「僕はアナタを失いたくない。都合の良い事を言っているのは分かっています。それでも言います。何度でも言います。レオさん、僕はアナタを愛してる」
その瞬間、レオの光の無い瞳からはらはらと涙が零れ落ちた。
「レオも、あ……いして……いま……す」
風に吹かれて今にも消え去りそうな擦れた声。
その言葉に目を細めると、ヴァンは静かに唇を重ねた。
この煉獄に落ちて来てから、彼女に出会ってから、幾度となく交わした口づけ、そのどれよりも優しく、シンプルな啄む様な柔らかなキス。
だが、その静けさとは裏腹に、ヴァンの身体の奥で激しく滾る物がある。
胸の奥、魂の底の底の底。
深い闇の中から伸びてきた光の帯。
それが喉の奥で魔術回路を上書きし、ヴァンの魂の深淵、そこで咆哮を上げた魔物がいた。
ヴァンは静かに唇を話すと、レオの額に手を置いて口を開いた。
「……第六階梯 雷化」
途端にレオの身体の上を紫電が走り、彼女の身体が発行しながら掻き消えていく。そして彼女は一迅の稲妻と化して、ヴァンの身体に纏わりついた。
――レオが申し上げます。これは一体? なぜ第六階梯をあなたが?
レオの戸惑う様な声がヴァンの脳裏に響く。
「その辺りの説明はまたあらためて。でも雷化が解けたら、元の状態に戻ってしまいますから、レオさん、それまでに元の世界へ、治療できるところへ帰りましょう」
雷と化している間は、傷つく事も死ぬこともない。
だが、魔力には限界がある。
通常であれば数分とその状態を維持できる筈もないのだが、今のヴァンには、それを維持し続ける事ぐらい何の問題もない。
ヴァンは改めて悪魔の姿を見据える。
それは今まさに身を起こし、ヴァンの方を振り返って咆哮を上げた。
ウヴォヴァアアアアアァアアアアアアアァアアアアアア!
だが、ヴァンがもう怯むことはない。
それを睨みつけて、ただ静かに口を開いた。
「僕は心の底から誰かを憎んだ事はありませんでした。初めて、無茶苦茶にぶっ壊してやりたい。そう思った相手がアナタで良かった。誰も悲しませずに済む」
ヴァンのその言葉の意味が分かった訳でもあるまいが、悪魔は山羊の縦長の黒目で彼を見据えると、彼に向かって勢いよく突進し始めた。
ヴァンは迫りくる悪魔の姿を見据えると、フロアに手をついて声を上げた。
「我が胸の奥より出でよ!」
途端に悪魔とヴァンの間に激しい紫電が走って、悪魔は足を止める。
紫電はフロアの上に焦げ目を残していく。
丸、三角、逆三角、そして丸。
そして、その周囲を古代の文字らしき文様が、走る様に描き出され、次の瞬間、巨大な雷の魔術回路が浮かび上がった。
「其は闇を切り裂く光芒、猛き者、激しき者、幾百の空を焦がし、幾千の大地を穿つ破壊者」
ヴァンの頭の中に、レオが息を飲む音が響いた。
「雷霆の主、汝の名は――フルゴリウス!」
魔術回路が激しく明滅して、紫電が大気を焦がす。
そして次の瞬間、漏れ出した黄金の瘴気の中から、
キャーーーーーーーーン!
という甲高い長声音の鳴き声とともに、尖った獣の鼻先が三つ、勢いよく突き出した。