第百七話 こんなところで死なせない。
「はははっ……うそ……ですよ……ね」
ヴァンの口から、乾いた笑いが零れ落ちた。
あり得ない。
そんな思いを、目の前の光景が完全に否定する。
最上階に登れば、元の世界への出口がある。
確信があった訳ではない。
だが、希望はあった。
それが、最上階そのものが無くなってしまえば、出口があったかもしれないという可能性が、そのまま手の届かない過去に取り残されてしまう。
急速に身体が冷えていく様な気がする。
気持ちが落ち込んでいくのを。
意気地が萎んでいくのを、ありありと感じる。
今、自身の胸の内で鉛の様に重くなっていく心に、彼は為す術も無く立ち尽くした。
――ああ、もう何日経った?
元の世界ではどれぐらいの時間が過ぎた?
身動きの取れない身体の奥で、唐突に焦燥が火の手を上げ、心臓を焦げ付かせる。
そもそもこの塔は何なんだ?
リュシールは煉獄への入り口は、シュヴァリエ・デ・レーヴルが用意していたものだと、そう言った。
この塔もそうなのか?
生まれ変わる前の僕は、一体何をしようとしていたんだ?
湧き出す疑問、答えのない堂々巡り。
「レオが申し上げます。出口は無かった。そうなんですね」
思わず頭を抱えたヴァンの背後で、不安げな声がする。
振り向くとそこにレオがいた。
折れた肋骨が痛むのだろう。
脇腹を抱えて、崩れた壁にもたれ掛っている。
彼女は、振り向いたヴァンの顔を見た途端、唇を強く引き結んだ。
そして、静かに目を瞑り、強がる様に無理やりにも口角を上げる。
「レオが申し上げます。ひどい顔をしています。情けない顔。不細工という意味じゃありませんよ。小さな時に、レオがサハの分までお菓子を食べてしまった時、あの子がそんな顔をしていました」
「はは……酷いお姉さんですね」
「レオが申し上げます。残念ながらレオは妹です。五歳の時にくじで決めました」
そう言って、何故かドヤ顔をするレオに、ヴァンは思わず苦笑する。
いまやレオは、彼女の姉より三つ年上。
三つ年上の双子の実妹という、言葉にすれば、まず正気を疑われる様な存在である。
レオはヴァンの隣へと歩み寄ると、崩れた壁の間から、その向こう側の赤い山を眺める。
「レオが申し上げます。あの時は生き残るのに精一杯で、周りの景色を眺めることも出来ませんでした。ですが、こうやって見れば雄大な風景です」
「そう……ですね」
「レオが申し上げます。帰れないのは残念ですが、心配いりません」
「心配……ない?」
「ええ、帰れる可能性が無くなった訳じゃありません。最初からこの塔には、何も無かった。他に出口がある。そうかもしれません」
「でも……レオさん」
「レオが申し上げます。アナタに良い事を教えてあげます」
そう言って、レオは悪戯っぽい表情で片目を瞑る。
「神様は頑張った人しか、助けてくれないんですよ?」
ヴァンは一瞬ぽかんと口を開けて固まった後、思わず口元を綻ばせた。
「レオさん、それ僕の科白……」
「レオは申し上げます。だから言ってるのですよ。レオは大好きなアナタを嘘つきだと思いたくありません。たぶん帰るのが少し伸びただけ、それにこれはきっと、頑張ったレオに神様が力を貸してくれているんです」
「ど、どういう……?」
「レオは申し上げます。レオもサハやリズ姉に会いたい。早く帰りたい。その気持ちに嘘はありません。でも、今戻ったらアナタの好きな人に、きっとレオは太刀打ちできない。でも……もう少し時間があれば、レオはアナタにもっと好きになってもらえるかもしれません」
そう言ってレオは顔を赤く染めて、上目使いにヴァンを見詰める。
「レオは申し上げます。この塔には水もあります。外に一歩出れば『肉』も獲り放題です。ベッドだってあります。しばらくここに居るのもさほど悪い事じゃありません。帰るのが少し遅くなっても、そしてもし帰れなくても……アナタにはレオがいます。レオにはアナタがいます」
レオのその言葉は、まさに魔法だった。
折れかけたヴァンの心が、再び雄々しく立ち上がろうとしている。
ヴァンは思わず湧き上がった、レオを、彼女を、強く抱きしめたいという気持ちに驚いて、わざとらしく頭を掻きながら壁際を離れて、レオと距離を置く。
そう……彼女と二人きり。
確かに悪い事じゃない様に思えてきたのだ。
そんなヴァンの戸惑いを知ってか知らずか、
「世界に二人きり……ロマンティックだと思いませんか?」
外壁にもたれ掛りながら、レオがおどけたような調子でいう。
「レオが申し上げます。二人でここで寄り添って暮らして、そうですね。たくさん子供を作りましょう。すぐに賑やかになります。そして、その子たちを連れて元の世界に帰れるんです。そして言うんです。ここがパパとママの生まれた世界だよって」
極端にもほどがあるが、それはそれで悪くない未来予想図。
だが……
「レオさん、でも僕は……」
ヴァンが静かに顔を上げたその瞬間、彼の背筋が凍りついた。
レオの背後、塔の外側、彼女が凭れかかる壁の上から覆いかぶさる様に、こちらを覗き込む黒い影。
「やめろおおおおお!」
ヴァンの絶叫と共に、悪魔が横なぎに腕を払う。
次の瞬間の出来事は、ヴァンの目にはスローモーションの様に見えた。
「え?」という口の形のままレオの身体が、くの字に捩れて、そのまま左手の方へと吹っ飛んでいく。
肉の塊が壁面へとぶつかる鈍い音。
何が起こったのかは一目瞭然。
だが、反応が追いつかない。
一瞬、呆けた様な表情になった後、
「レオさん!?」
ヴァンは弾かれる様に、レオの方へと目を向ける。
床の上に転がったレオは、眼を見開いたまま、小刻みに震えていた。
口からゴボッと血の塊を吐きだし、脇腹は爪で引き裂かれ、床の上に赤い血だまりが広がり始めている。
慌てて駆け寄ろうとしたヴァンの行く手を阻む様に、悪魔は外壁を乗り越え、重い音を立てて、フロアへと降り立った。
――燃え残って再生した……? 僕の所為だ……
ヴァンは自分の詰めの甘さに、ぎりりと歯噛みする。
しかも、悪魔の見た目は、より凶悪なものに変わっている。
筋骨隆々な身体に繋がる下半身は、蜘蛛のような八本足へと形が変わっている。
外壁をよじ登る為に形状を変えたのだ。
ヴァンは怒りと焦りがないまぜになった必死の形相で悪魔を睨みつけ、声を上げた。
「どけよっ! 第四階梯! 雷神の鉄槌ァアアアア!」
宙空で荒々しい紫電が走る。
それは今、ヴァンが使える魔法の中では最大の攻撃魔法。
二つの魔術回路を同時に発動させた、第四階梯の二重行使。
耳を劈く様な轟音と共に、巨大な稲光が降り注ぎ、悪魔の身体を打ち貫く。
瞬時に悪魔の身体がぶるりと震え、身体のあちこちから白煙が立ち上った。
だがしかし、悪魔の山羊の頭は無表情。
まるで何事も無かったかのようにヴァンを見据えて、威嚇するように腕を振り上げた。
しかし、ヴァンは怯まない。
怯んでいる場合ではない。
「うわあああああああああ!!!」
彼は雄叫びを上げて、悪魔へと突進する。
だが、彼の身体能力は特段優れている訳ではない。
ウヴォヴァアアアアアァアアアアアアアァアアアアアア!
悪魔は雄叫びを上げ、ヴァン目掛けて腕を振り下ろす。
悪魔の爪がヴァンの肩口へと食い込もうとするその刹那、僅かコンマ数秒の差。
ヴァンの伸ばした指先が、悪魔の醜い節足動物のような足へと触れた。
瞬時に発動する魔法。
――第五階梯『磁気反発』
ヴァンの足元のフロアと悪魔の節のある脚に、バチバチと音を立てて紫電が奔る。
悪魔の振り上げた腕。
下向きのベクトル。
足元で発生する上向きの斥力。
前のめり。
ヴァンの頭上を、まるで自ら飛び越える様に、悪魔の身体が宙に浮いて吹っ飛んだ。
凄まじい音を立てて、無様に頭から床へと落ちる悪魔。
だが、ヴァンはそれを振り返りもせずに、レオの傍へと駆け寄った。
一目で分かる程に傷は深い。
レオは光彩の濁った瞳をヴァンへと向けると、微かに頬を震わせる。
ヴァンを心配させない様に、微笑もうとしているのだ。
彼女が何かを喋ろうと口を開いた途端、か細い呼吸音と共に、口元から赤い血が滴って胸元を汚した。
「レオさん、しゃべっちゃダメです。大丈夫、僕はここにいますから、しっかりしてください」
ヴァンの耳元に、かすれた、今にも消え入りそうな声が届いた。
「……に……げ……て……アナ……タは……いき……てくだ……」
「しっかりしてください! レオさん! 帰るんです! 帰るんですよ!」
ヴァンの目元に、じわりと熱いものがこみあげてくる。
そして怒りに満ちた視線を、床の上で無様な恰好でもがいている悪魔へと向けた。
「許さない……もう欠片も残さず消滅させてやる!」
だがその時、ヴァンの視界の隅で唐突に閃光が走った。
悪魔と対峙するヴァンの左、外壁の向こう側。
崩れた壁の隙間、遥か遠く。
そこに垣間見えた景色に、ヴァンの目が釘付けになった。
一瞬呆然とした後、ヴァンは一つ頷くとレオの方へと視線を落とし、そして唇を強く噛んだ。
「レオさん、僕はあなたを、こんなところで死なせない!」