第百五話 少年のジャンプ
「レオが申し上げます。まさか、ここを登る気ですか?」
「はい、他に道は無さそうですし……レオさんが大丈夫なら行けるかなって……」
レオはヴァンの背中に背負われたまま、彼の顔を肩越しにまじまじと覗き込む。
揶揄っている訳では無さそうだが、この壁面は少々身体能力が高くとも登攀出来るようなものではない。
ましてや、彼の身体能力が人並みでしかない事は、この数日の間に良く分かっている。
だとすれば……。
レオは肩を竦めて、呆れる様な顔をした。
「レオが申し上げます。まさか、また『荷電粒子爆発』を使って無茶する気ですか? あれは悪魔を足場に出来たから大丈夫だっただけで……」
「ああ……それなら心配ありません」
「レオが申し上げます。心配ない? ……どういうことですか?」
「もう僕、『荷電粒子爆発』は使えませんから」
あっけらかんと言い放つヴァンに、レオは思わずきょとんとする。
「昨日レオさんとキスしたことで、魔法が上書きされたんです、雷属性に。ただ、身体の中には第五階層までの情報しかありませんから、どう転んだって第六階層以上は使えなさそうですけど」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください。レオが申し上げます。つまり、あの魔法はもう使えないと?」
「はい」
「はいじゃありません! レオが申し上げます。昨日の悪魔より強い化け物が出てきたら、どうするつもりですか!」
「だから昨日、あんなに待ってくださいって言ったのに……誰の所為だと思ってるんです」
「レオが申し上げます。あなたが先に言わないから!」
そう言って、レオが子供みたいに頬を膨らませてそっぽを向くと、ヴァンは思わず苦笑する。
「でも、結果的には良かったんです。雷属性の第五階梯を使えば、多分登れます」
「第五階梯? ……『磁気反発』? まさか磁力で壁にくっついて登ろうと? レオが申し上げます。それは無理です。くっつく事は出来ても、離れられません。交互に逆の磁力を生み出さなければ、先に進む事なんて出来ません」
ヴァンはふるふると首を振る。
「まあ、その方法でも良いんですけど……今、僕の喉元には、第五階梯までの、中途半端な魔術回路が二つ重なっている状態なので、魔法を使ってる最中に、もう一つ魔法を発動させる事が出来ますから」
レオは思わず目を見開く。
攻撃魔法の連撃は別として、効果時間のある魔法を発動中に、別の魔法を使うことなど普通は出来ない。
だが、ヴァンはそれが出来る。
そう言っているのだ。
――そんな無茶苦茶な事が……。
そう口にしかけて、レオは静かに目を伏せる。
いや、今さら驚く方が間違えている。
この少年はレオの神様なのだ。
人智の及ぶところではない。
背中に背負った状態ではレオの表情など、よくわからないのだろう。
レオのその様子を気にも留めず、ヴァンは勝手に話を進めていく。
「でも、そのやり方だとたぶん相当時間が掛かっちゃうので、ぶら下がっているレオさんが辛いと思うんです。だからもうちょっと効率よくできないかなと……あ、一旦下ろしますね」
そう言って、ヴァンはそーっと慎重にしゃがみ込むと、レオを静かに床の上へと下ろす。
だがそれでも足が地面についた途端、レオは眉間に皺を寄せて、僅かに前かがみになった。
「だ、大丈夫ですか?」
「レオが申し上げます。……大丈夫です。痛みには慣れっこですから」
「うーん、でもその様子じゃ、ぶら下がるのは相当辛いですよね……」
ヴァンは少し思案すると、突然、上着を脱いだ。
上着を脱いでしまえば上半身は裸。
レオも彼の裸を始めて見た訳ではないが、不意打ちを喰らうと脆いもので、思わず顔を赤らめて俯く。
「こ、こ、こ、こんなところで? で……でも、わかりました。レオはいつでも覚悟はできています……やさしくしてください」
もじもじと身体をくねらせるレオに、ヴァンは怪訝そうに首を傾げる。
「はあ、じゃあできるだけ、優しく背負います」
そう言って、レオへと背を向けてしゃがみ込んだ。
その瞬間、レオの視線が、じとりとしたものに変わる。
「レオが申し上げます。アナタ……何で脱いだんです?」
「いや、何でって。上着でレオさんと僕を縛れば、ぶら下がっても少しは楽なんじゃないかと思って」
「ああ……ああ……そ、そうですね。わかってました。レオは分かってましたよ」
どこか遠くを見る様な眼をしたまま、レオが彼の背中に身体を重ねると、彼はレオと自分の腰の辺りを、上着の袖を掴んで結ぶ。
丁度、レオの尻を支えるような位置。
「レオが申し上げます。こんな、赤ん坊みたいに……」
「まあ、いいじゃないですか、誰も見てませんし」
レオの心底情けなさそうな呟きを、ヴァンはあっさりと流す。
だが、一番見られたくない相手に、それを言われればレオで無くとも凹む。
「レオが申し上げます。やっぱり……あなたのそのデリカシーの無いところは嫌いです」
ヴァンは意味が分かっているのか、いないのか、ニコリと微笑むと、静かに指先で床に触れた。
「しっかり掴まっていてください! 第五階梯! 『磁気反発』!」
ヴァンが声を上げると、バチッ! と弾けるような音がして、床とヴァンの足元に紫電が走る。
途端に長靴の靴底と床の間に、上向きの斥力が生まれた。
ヴァンが咄嗟に身体を傾けると、ベクトルも傾く。
次の瞬間、斜め上へと弾かれる様に、二人の身体が宙へと跳ねた。
高さにして、約三メートル。
壁面が目の前へと迫ってくる。
レオは思わず、「ひっ!?」と喉の奥に声を詰めて、ギュッと目を閉じる。
ぶつかる!
そう思った瞬間、ヴァンは迫りくる壁を力強く蹴ると、大きく身体を捻った。
「第五階梯! 『磁気反発』!」
それはまるで水泳のターンを思わせる挙動。
そのまま、二人の身体は再び弾かれる様に、真逆の壁の方へと斜め上に跳んだ。
こと此処に至って、レオは彼が何をしようとしているのかを、理解した。
言うなれば、これは極端な三角跳び。
それを繰り返して、上へと上がっていこうというのだ。
声も出ない。
壁が迫ってくる事に、恐怖を感じているという事もある。
肋骨が痛いという事もある。
だが、それ以上に……呆れているのだ。
もし、レオが同じ事が出来るかと言われれば、即答できる。
無理だと。
「第五階梯! 『磁気反発』!」
彼の肩越しに聞こえる声を、聞くとは無しに聞きながら、レオは胸の内で呟く。
彼が今、平然と唱えている魔法は『第五階梯』。
つまり、レーヴル王国でもトップクラスの魔女達が、やっと使えるというレベルの魔法だ。
この煉獄で鍛え上げられたレオでさえ、魔力が万全の状態でも、三回唱えるのがやっと。
「第五階梯! 『磁気反発』!」
今の跳躍で、およそ二階層ほどの高さに到達している。
レオは思わず下へ目を向ける。
赤い光に浮かび上がる、木から木へと飛び移る獣の様な、自分達の影を見下ろして、レオは、この少年と出会ってから、もう何度も口にした言葉をあらためて口にした。
「レオが申し上げます。出鱈目です……」
◆ ◆ ◆
「アネモネ嬢ちゃん、足震えてんぞ」
砂煙を上げながら近づいてくる車輛。
その一団を見据えながら、クルスが揶揄う様な調子で、すぐ隣の少女へと言葉を投げつける。
すると、
「クルス大尉、自分の緊張を人に押し付けるのは、あまり褒められたことではないかと」
少女――アネモネは、にべも無くそれを切り捨てた。
「ちっ! 可愛げがねぇ……」
「お褒めの言葉と受け取っておきます」
「褒めてねぇよ」
実際、アネモネは足が震えるどころか、胸が高鳴るのを抑えられずにいた。
第十三小隊に所属すれば、大きな試練が待っているはず。
そう期待してはいたが、これはまさに期待以上。
百五十ほどの魔女をたったの四人で迎え撃つ。
しかも、その内二人は、攻撃魔法を使えないときたものだ。
普通に考えれば、どう考えても生存の見込みのない戦い。
戦術論の講義の席で口にすれば、大爆笑間違い無しの、冗談みたいな話だ。
だがアネモネは、この時を待っていたのだ。
背後に控えるずんぐりとした試作高機動車両――『盾亀』上部のハッチが開いて、シュゼットが上半身を覗かせる。
そして、二人に向かって背後から声を掛けた。
「お前達、あんまりあっさり死んでくれるなよ。死ぬときには、出来るだけ多くの魔女を巻き込んで、爆死すると良い」
無茶苦茶である。
「爆死って……火炎属性じゃねえんだからよ」
そういう問題でもない。
やがて、彼女達の十メートルほど手前で、『犀』の一軍は前進を止める。
輝鉱動力は動いたまま、ドッ、ドッ! という重い駆動音が、車両の数だけ重なって空気を振動させている。
「さあて、言う事きいてくれりゃ良いんだがな」
クルスがそう言って額の汗を拭うと、アネモネは、
「そんな聞き分けの良い軍人がいる訳ないじゃないですか」
と、期待に満ちた表情で、車輛の一団を見回した。