第百三話 キスは長ければ長いほど良い
タッタッタッ! と、足音が通路に響く。
ヴァンは、レオの身体を横抱きに抱えて通路を走っている。
「もうすぐ着きますから……我慢してください、レオさん!」
ヴァンがいくら呼びかけても、レオは返事をしない。
ついさっきまではヴァンの胸に、そして今は首筋に顔を埋めたまま、まるでむずがる子供みたいに顔を上げようとしない。
首筋に吐息を感じる。
もしかしたら気を失ってるのかもしれないが、生きてはいる。
見る限り首筋は朱く、心なしか頬も火照っている様に思える。
熱で意識が朦朧としているのかもしれない。
何れにせよ、早く休ませて、出来れば何か治療を施さなければならない。
窓から飛び込んだここは、恐らくニ十階層。
恐らくというのは、十五階層が三階層分をぶち抜いた巨大な空間だっただけに、その次のフロアを十八階層目とカウントしたからだ。
レオが悪魔と戦闘している間に、ヴァンは後ろ髪を引かれながらも前へと進み、このフロアへと到達した。
だが、このフロアから上層階へと上がる階段は見つからない。
片っ端から扉という扉を開き、他のフロアには無かった窓を見つけた彼は、もしかしたら外壁の外に梯子でも伸びているのではないかと外を覗き込んだ。
その途端、真下で轟音が響き渡り、悪魔と共に、レオが外へと投げ出されるのを目にしたのだ。
開いた扉の何処か、途中で覗き込んだ部屋のどれか。
その奥に、ちらりとベッドの様なもの見えた。
曖昧な記憶を頼りに通路を走る彼の視界に、他とは雰囲気の異なる扉、やけにもったいぶった革張りの扉が入ってくる。
――あそこだ。
両手の塞がった彼は、体重を乗せて扉を蹴破り、中へと飛び込む。
第一階層で休んだ衛兵の部屋とは、趣の全く異なった部屋。
古めかしくも整然としていた衛兵の部屋と比べて、余りにも雑然とした部屋だ。
入ってすぐの左右には、直径五十センチほどのガラスの筒が幾つも立ち並んでいて、それぞれを支える鉄製の台座から、植物の根の様に延びたパイプが、床の上を無秩序に這っている。
ほとんどの筒は割れて、周囲には染みのようなものが飛び散っている。
割れ残った幾つかには、白濁した液体が満たされていて、その中を糸くずのような物がぐるぐると還流しているのが見えた。
足元のパイプを注意深く踏み越え、街路樹の様にガラスの筒が並んだ辺りから奥へと進むと、机と椅子。
そのすぐ脇に、白い布で覆われた簡素なベッドの様な物があった。
長く引き出しの無い机の上には、雑然と様々なものが転がっている。
伸ばした人差し指の様なガラスの筒、漏斗、様々な色の液体を満たした瓶や、紙束、銀製の皿などが雑然と散らばっていた。
だが、ここに人の気配はない。
全体に薄っすらと埃が積もっているのだ。
少なくとも数年は誰もこの部屋には入っていない、そう見えた。
「レオさん、ベッドの埃を払いますから……座れますか?」
レオがこくんと頷く気配を首元に感じて、ヴァンは彼女を椅子の手前で下ろし、手で支えて座らせる。
レオはぼうっとした表情。
俯いたままヴァンと目を合わせようともしない。
レオの事を気にしながらも、ヴァンはベッドの方へと歩み寄ると、パタパタと埃を払った。
ベッドはたいしたクッション性も無く、それこそ毛布一枚を敷いた程度の柔らかさ。
だが贅沢を言っている場合ではない。
床に寝かせるよりはマシ。
そう思うより他に無い。
ヴァンが再びレオを抱き上げて、ベッドの上に横たえようとした途端、
「痛っ!」
レオは身体をビクンと跳ねさせたかと思うと、脇腹を抱えて蹲る。
額には脂汗が滲み、顔には苦悶の表情が浮かんだ。
「だ、大丈夫ですか!?」
「レ……オが申し上げます。たぶん……肋骨が折れています。身体を伸ばすと痛い……です」
「折れてる!? ど、どうしたら……」
ベッドの脇にしゃがみ込んだヴァンが、あわあわと慌てる。
そんな彼に、レオは苦痛に顔を歪めながら、諭すような口調で言った。
「だ……大丈夫です。肋骨が折れる事自体は、初めてじゃありません……暗殺者ですから。荒事は慣れっこです」
「でも……」
「レオが申し上げます。安静にして……痛みさえ我慢すれば、肋骨は三十日ぐらいで勝手にくっつきます。それに心臓に傷が入って……れば既に死んでいますし、肺に刺さっていれば、こうやって話なんて……出来ませんから、その心配もありません」
「そ、そうなんですね」
ヴァンは、思わずホッと胸を撫でおろす。
「ほ、他には痛いところは無いですか?」
「レオが……申し上げます。じゃあ……服を脱ぎますからアナタが調べてください、隅から……隅まで」
「え゛っ!?」
ヴァンが、目を見開いたまま硬直する。
そんな彼を眺めながら、レオは苦痛と微笑みがないまぜになった複雑な表情で、貫頭衣の裾を掴んで少し捲り上げた。
真っ白な内ももが露わになって、ヴァンの目は思わず釘付けになる
「レオが……死んでも良いんですか? 早くしてください」
「いや……でも……」
そこで、レオは思わず「ぷぷぷ」と笑いを洩らすと同時に、「痛っ!?」と苦痛に顔を歪めて再び蹲った。
「だ、だ、大丈夫ですか!」
「レオが申し……上げます。揶揄ってみただけなのですが……失敗しました。笑うとすごく痛いで……す」
レオは痛みの所為か、赤い顔を更に真っ赤に染めて、そう言った。
「レオさん……こんな時まで揶揄わないでくださいよ……」
ヴァンが呆れる様な顔をすると、レオは少し俯いて言い難そうに口を開く。
「レオが申し……上げます。ただ……身体を伸ばすと激痛が走るというのは本当です。ですので、なにか枕の様なものが欲しいのですが……無さそうですね」
確かに部屋の中を見回してみても、金属やガラス。その他訳の分からない液体といったものばかりで、枕になりそうなものは見当たらない。
「そうですね。じゃあ……僕別の部屋を探してきます」
「レオが申し上げます。ちょ、ちょっと待ってください。……できればアナタが枕になってくれれば……うれしい……です」
「は?」
「レオが申し上げます。は? ではありません。……レオは頑張ったと思いませんか?」
「は、はい、思います……けど?」
「レオが申し上げます。頑張ったら……ご褒美があって当然です。身体が痛いレオの為に、しばらくクッション替わりになれとそう言っています」
「あ、は、はい……そういうことなら……どうすれば」
「レオが申し上げます。ベッドに乗って、そこに座ってください」
「わ、わかりました」
ヴァンは戸惑いながらもベッドの上に乗ると、レオに言われるがままに、足を投げ出して背板にもたれ掛かるように座った。
ひと二人分の重さに、簡素なベッドの頼りない脚が、ギシギシと音を立てて軋む。
レオはごくりと喉を鳴らすと、熱に浮かされた様な表情で、足の間へと這い寄り、ヴァンの胸に頬を埋める。
「レオが申し上げます。手がサボってます……ちゃんとレオを抱きしめて、支えていてください」
「は、はい!」
そして、二人はぴったりと寄り添ったまま、無言のままに時間が過ぎていった。
だが、ヴァンとて年頃の男の子なのだ。
木石では無い。
女の子の臭いと、身体の温もりと柔らかさそれをこれだけダイレクトに感じておいて、平静を保つというのは、ほとんど苦行に近い。
ヴァンが自身の身体の変化を悟られぬ様に、僅かに腰を引くと、レオは顔を上げてヴァンの顔をまじまじと眺めると、にんまりと笑った。
「な、な、な、なんですか?」
「レオが申し上げます。一つ気づいた事があります」
「えっ!?」
「魔力を早く回復させる方法です」
その言葉にヴァンは思わず、安堵の息を洩らす。
だが、
「レオが申し上げます。キスしてください」
その一言で、盛大に顔を引き攣らせた。
「あ、いや、あの、その……それは……なんで」
「アナタとキスをした時に、少し魔力が流れ込んでくるのを感じました」
「そ、そうなんですか?」
「はい、少しでも早く魔力を回復させるために、レオにキスしてください。……そうですね。出来るだけ長く」
幾ら一度キスした相手だとは言っても、恥ずかしくない訳ではない。
更に言えば、もう一つ懸念がある。
同じ系統の相手と続けてキスした事はない。
つまり、どんな事が起こるのか分からないのだ。
「ちょ、ちょっと待って……」
「待ちません」
レオは慌てるヴァンの首へと腕を回すと、彼の唇を強引に奪う。
その瞬間、ヴァンは自身の喉の奥の魔術回路が、変化するのを感じて慌てた。
「んんっ!?」
ヴァンが呻くのもお構いなし。
レオは蕩け切った表情で、彼の唇へと激しく吸い付く。
あまりにも積極的な舌。
それがヴァンの唇を、その奥の歯茎をなぞって、口腔の奥へと侵入してくる。
くちゅくちゅと淫靡な水音だけが耳朶に響いて、戸惑っていた筈のヴァンの思考が白く塗りつぶされていく。
散々舌を絡ませ合った末に、レオは軽く唇を離し、ヴァンの唇を舌先で撫で上げ、ヴァンの舌を誘い出す。
そのもどかしさに、浅ましくもヴァンの舌が、逃げる彼女の舌を追って伸びると、二人は、互いの舌先を舐めあって、再び唇が合わさった。
未来永劫続くかと思う程の、長い長い接吻。
その末に、
やがてレオは静かに唇を離すと、顔を真っ赤にしてヴァンの顔を覗き込んだ。
「レオは申し上げます……本当に少し……ほんの少しですが、魔力が回復しました」
その、ほんの少しの回復の為に……レオはヴァンの精神力を根こそぎ奪った事に、気づいていないらしかった。