第百二話 胸元の温もり
「荷電粒子爆発ッ!」
何処からともなく聞こえてきた少年の声。
「ヴァ……ン?」
レオは苦し気な吐息の間に、再び少年の名を舌の上に乗せる。
次の瞬間、彼女の視界の隅に閃光が走った。
背中から落下する彼女の落ち行く先――地表で、大きく膨れ上がった光球が破裂したのだ。
耳を劈く大音響。
朦朧とする意識の中で、レオは僅かに首を動かして、下へと目を向ける。
だが、彼女のすぐ真下を落下している悪魔の身体が邪魔をして、洩れてくる光の他には何も見えない。
だが、何が起こっているのかは、大体想像がつく。
少年のあの魔法が、地表で炸裂したのだ。
何が起こったのかは分かった。
問題は、少年がなぜそんな事をしたのかだ。
だが次の瞬間、唐突にレオへと、その答えが突きつけられる。
いきなりの衝撃。
彼女の背中に激しい痛みが走った。
「かはっ!?」
思わず呼吸が止まって、喉の奥に蟠っていた血が吐き出され、視界が暗転しそうになる。
――ダメ。気を失っちゃダメ!
彼女は必死に意識を握りしめて、それを手繰り寄せる。
彼女が叩きつけられたのは、悪魔の背中。
強烈な爆風が悪魔の落下を押し止め、レオの身体がそこに叩きつけられたのだ。
瀕死の人間には、あまりにも厳しい痛打。
「ハァ……ハァ……」
背中の痛みに喘ぎながら、レオは必死に目を見開く。
ここで、目を閉じてしまったらもう目を覚ませない。
そんな気がする。
『荷電粒子爆発ッ!』
再び少年の声が響き渡ると、再び閃光が走った。
轟音と共に、今度はレオをその背に乗せたまま、悪魔の身体が勢いよく跳ね上がる。
次第に空が近くなっていく。
赤い、赤い空。
「ははっ……無茶苦茶です……本当に……」
レオにはもう、彼が何をしようとしているのかが、はっきりと分かった。
地表近くで爆発を起こして、その爆風で落下を阻止しようとしているのだ。
無論、爆風とはいえ直撃を喰らえば、レオとて無事では済まない。
だが今は、レオの真下にいる悪魔の巨体が盾になって彼女を守っているのだ。
皮肉と言えば、余りに皮肉な話である。
落下してくる物を爆風で真上に跳ね上げる。
少し制御を誤れば、どこかへポンと投げ出されてしまう事だろう。
どれほど繊細に魔力を制御すれば、そんなことが出来るのか……。
レオには想像もつかない。
だがレオには、それを自分に納得させる便利な言葉がある。
なにせ、彼は『レオの神様』なのだから。
だが、いつまでもこれを繰り返している訳にはいかない。
とりあえずの落下は避けられたとしても、状況は変わらない。
悪魔が如何に頑丈だと言っても、『荷電粒子爆発』に遠火で炙られ続ければ、どれぐらい保つものなのか、想像もつかない。
――さて、どうしたものか?
霞がかった頭の中で、思考を巡らせて、
「はぁ……」
レオは思わずため息を吐く。
どうにも出来ない。
出来るわけがない。
瀕死の重傷なのだ。
指一本動かすのさえ、億劫に思える。
どこかに飛びつく事も出来なければ、魔法を発動することも出来ない。
レオは諦めて、大人しく空を見上げた。
真っ赤な空を穿つ様に聳え立つ巨大な塔。
その先端部分が目に入ってくる。
「ん?」
ただの円柱だと思っていた塔の、その先端部分が僅かに欠けている様に見えて、レオは思わず眉根を寄せる。
だが、次の瞬間、寄せた眉根が跳ね上がって、レオの表情に驚愕の色が浮かんだ。
唐突にレオの視界に飛び込んできたのは、少年の姿。
ヴァンが、真っ直ぐにレオの方へと落ちてきたのだ。
「レオさああああああああん!」
――なんで、アナタが落ちてくるんです!?
これには流石のレオも面食らった。
なにせレオの真上に落ちてくるのだ。
最後は愛する少年に押しつぶされて、死んだというのは、流石に死因としてもやりきれない。
レオが思わずぎゅっと目を瞑ると、身体の左右で、ダンッ! という衝撃音がした。
恐る恐る目を開くと目の前には彼の顔。
そこには、レオを跨ぐように、着地したヴァンの姿があった。
よく見れば、両足が小刻みに震えて、顔には苦悶の表情が浮かんでいる。
「……い、痛いです」
そりゃそうでしょう。
レオが彼が落ちてくるのに気付いた時点からでも、少なくともニ、三階層分の高さはある。
レオの知る限り、この少年は体術を身に着けている訳でもないのだ。
少年は苦悶の表情を浮かべながら、口を開いた。
「レオさん……無事で良かった」
レオのこのボロボロの姿を見て無事と言える辺り、この少年も色々と麻痺してきている様な気がした。
「レオは……申し上げます。む……ちゃくちゃです……アナタ」
「すみません。こうするしかなかったんです。窓から下を覗き込んだら、レオさんが投げ出されるところで……僕もう、必死で……」
ヴァンがしゅんと肩を落とすと、レオは思わず自分の口角が上がるのを感じた。
「レオは申し……上げます。で、ここから、どうするんで……す」
「もう少し、上昇していけば、僕が飛び降りた窓……たぶんニ十階層ぐらいだと思いますけど……。そこに飛び込みます。跳べますか?」
レオはふるふると首を振る。
跳ぶどころか、立ち上がることすらままならない。
ヴァンは少し考える素振りを見せると、小さく頷いた。
「……なんとか、調整してみます」
彼はそういうと、レオの身体を抱きかかえる。
「お、重……い」
「レオが……申し上げます。……アナタのそのデリカシーのない所は……大嫌いです」
念願のお姫様だっこ。
だがレオが知る限り、この少年の腕力は、人並みと言ったところ。
どう考えても、レオを抱えたまま跳躍することなど、出来る訳がない。
「じゃあしっかり掴まっていてください」
「な……」
なにを? レオがそう言おうとした途端、彼は一気に魔法を発動させた。
「『荷電粒子爆発ッ!』『荷電粒子爆発ッ!』『荷電粒子爆発ッ!』『荷電粒子爆発ッ!』『荷電粒子爆発ッ!』」
世界中が真っ白に染まってしまいそうな程の激しい閃光。
レオは思わず彼の首筋へと頬を埋めて、ぎゅっと目を瞑る。
足元の悪魔が、身を捩り、
ウヴォヴァアアアアアァアアアアアアアァアアアアアア!
と、断末魔の叫びを挙げる。
爆発音が物理的な衝撃になって、悪魔の身体を上へと押し上げた。
重力の軛を強引に払いのけ、彼らを乗せた悪魔の身体が上へと向けて加速する。
すぐに十五階層のレオが落ちた穴、そのすぐ脇を通り過ぎ、更に上へ。
「レオさん!」
ヴァンの呼ぶ声にレオが目を開くと、上の方の壁面に大きな窓が見えた。
そして、まさに窓の前を通り過ぎようというその時、
『荷電粒子爆発ッ!』
ヴァンの叫びとともに、斜め下方、これまでとは異なる方向で光球が弾けた。
斜め下からの爆風に煽られて、悪魔の身体が、まるで獲物を咥えた鰐の様に回転する。
その瞬間、ヴァンはレオを抱えたまま宙へと跳んだ。
いや正確には弾き飛ばされたという方が事実に近い。
悪魔の身体が爆風に煽られて回転する力を利用したのだ。
落下地点は、まさに壁面に開いた窓。
レオを横抱きに抱えたまま、ヴァンは足から滑り込む様に窓の内側へと飛び込む。
同時に窓の外から悪魔が、壁面に激突する音が響き渡った。
窓の内側に入ってからも、勢いは止まらない。
横抱きになっていたレオの頭を胸に抱え直して、ヴァンはゴロゴロとフロアを転がる。
そして、最後は奥の壁面にぶつかって止まった。
「う……うん……レ、レオさん……大丈夫ですか?」
ヴァンが痛みに顔を歪めながら、レオの顔を覗き込むと、レオはヴァンの胸に顔を埋めたまま、弱弱しい声で答える。
「レオが……申し……上げます。正直……いつ死んでもおかしくない状態……です」
「しっかりしてください! このフロアに、ベッドのある部屋がありましたから、そ、そこへ運びます」
「ちなみに……今死んだら……と、とどめをさしたのはアナタで……す」
「ええっ!?」
思わず目を見開くヴァンに、レオは薄らと目を開いて、弱々しく笑う。
「レオは申……し上げます。アナタは……バカです。レオが折角頑張ったのに……アナタが死んでしまったら……全部台無しです」
ヴァンは一瞬戸惑う様な顔をしたかと思うと、指先で頬を掻きながら微笑む。
「そう……ですね。でも、僕はもう、目の前で女の子が死ぬのはイヤなんです。それも、僕の事を愛してるとまで言ってくれた女の子ですから」
レオからは返事が返ってこない。
ただヴァンは、レオが顔を埋めている胸元が、少し熱を持った様な気がした。