第百一話 最期に君の名を
「死にたくない」
意図せずに零れ落ちたその一言に、レオは思わず愕然とする。
死にたくない。
そう、死にたくないのだ。
生きたい。
レオは生きたい。
生きていたいのだ。
夢も希望も無いこの煉獄に落ちて、死と隣合わせの毎日を生きるうちに色褪せていったレオの世界。
だが、そこに突然。
あまりにも突然に、希望が落ちてきた。
モノクロームなレオの世界に、突然色彩が戻って来たのだ。
そう、レオ自身が言ったのだ。
彼の傍こそが、楽園なのだと。
レオはただ、彼の隣で寄り添っていたい。
死後、運良く天国に行けたとしても、そこに彼はいないのだ。
振り向けば、すぐそこまで悪魔が近づいていた。
ゆっくりとした足取り。
石と石がぶつかり合う、硬質な足音。
だが、次第に速度を上げ始めているのが分かる。
明らかにレオを仕留めようという挙動。
「レオが申し上げます。まだ、レオの頑張りが足りないということですか……レオの神様は本当に厳しいお方です。サドですか、ほんとに……」
レオが零した、愚痴にも似た呟きには、どこか吹っ切れた様な響きがある。
レオは身体の奥深くに意識を向けて、残された魔力を探る。
既に第六階梯を使えるだけの魔力は残っていない。
第四階梯、第三階梯を連発したせい……だが、それは後悔しない。
浪費ではない。
彼を逃がすために必要だったのだ。
雷化して、逃げるという手段ももう手札の中にはない。
まあ、それもかまわない。
どうあってもあの化け物は、ここで仕留めなきゃならない。
そして、ぐるりと周囲を見回した末に、レオは、ある一点でピタリと目を止めた。
――あれは使えます。
その瞬間レオの口元が僅かに緩んだ。
「レオが申し上げます。わかりました、アナタ。抗って見せます。ここで死ぬ運命だったとしても、レオは運命に抗って見せます」
背後で、悪魔の足音がまた速度を上げた。
迫りくる悪魔の姿を目の端に捉えながら、レオは痛む足を引き摺って、必死に逃れようとする。
だが、その足で逃げ切る事など出来る筈が無い。
足音がすぐ背後にまで迫ったのを感じて、レオは我慢できずにふりむいた。
その瞳に映ったのは、大きく腕を振り上げる悪魔の姿。
「ひっ!?」
思わず、レオの喉元で声が詰まる。
ウヴォヴァアアアアアァアアアアアアアァアアアアアア!
悪魔の奇怪な叫びが響いたその瞬間、レオの脇腹に激しい衝撃が走った。
横なぎに殴りつけられたレオは、吹っ飛んでフロアを跳ね、激しい衝撃に、視界に星が散る。
――ダメ! 気を失ったら終わりです!
レオは途切れそうになる意識を、必死に繋ぎ止める。
だが、悪魔の一撃は余りにも重い。
肺の中の空気がすべて押し出され、無様に唾液が顎へと伝う。
そして、レオはまるで毬のように点々と転がって、最後には背中から外壁へ叩きつけられた。
ズルズルと身体が滑り落ちて、レオは壁面に首だけが凭れかかった様な状態で大の字に横たわる。
「うっ……ううっ……ごほっごほっ」
レオは咳き込むと、えづく様に血の塊を吐きだし、そのせいで唇が紅を差したかの様に赤く染まった。
咄嗟に自分から跳んだお陰で、ダメージは多少軽減できたようだが、肋骨の二、三本は折れていそうな気がする。
内臓もどこか傷ついているかもしれない。
「はぁ……はぁ……」
息苦しい。
熱い。
痛い。
目が眩む。
殴られたところが、ぢんぢんと痺れている。
でも……生きてる。
気を抜けば、眼球が上を向いて、ひっくり返りそうになる。
虚ろな目を必死に見開いて、正面を見据えると、ゆっくりとした足取りで歩み寄ってくる悪魔の姿が視界に映った。
もう動けない。
そう思っているのだろう。
――造り物の癖に生意気だ。
まるで猟師が仕留めた獲物を回収する時のような、ゆっくりとした足取りで近づいてくる悪魔が、無性に腹立たしい。
やがて、外壁にもたれ掛るレオを跨ぐように立った悪魔は、ヤギの縦長の黒目でレオを見下ろす。
勝ち誇っているのだろうか?
何を考えているのか良くわからない目。
レオは弱々しく伸ばした右手の指で、悪魔の足に触れた。
「レオが申し上げます。はぁ……はぁ……レオは死にたくない……生きて……生きていたいんです」
どう聞いても命乞いとしか聞こえないその言葉は、悪魔の石の身体にぶつかって、何の感銘も与えることなく体表を滑り落ちた。
ウヴォヴァアアアアアァアアアアアアアァアアアアアア!
やがて、悪魔は胸を反らせて咆哮を上げると、レオに覆いかぶさるように倒れ込んでくる。
悪魔は、拳を高く振り上げた。
それを振り下ろせば、レオの顔面は熟れた果実の様に潰れる。
それを確信させるだけの勢い。
だが、その瞬間。
レオの口元が僅かに歪んだ。
「……第五階梯 磁気反発」
呻き声のような弱々しい呟きとともに、レオの両手の指先から紫電が迸る。
左手で触れたフロアと、右手で触れた悪魔の足に紫電が走って、そこに反発する磁力が生まれた。
悪魔が拳を振り下ろす力。
足元で生まれた上方向への斥力。
それが合わさって斜め向きのベクトルの力が生まれた。
悪魔の足が勢いよく宙に浮き上り、拳を振り上げた姿勢のまま前のめりに回転する。
捩じれた角の先がレオの頬をかすって、細い傷を描いた。
そして、響き渡る衝突音。
まるで巴投げの様に、悪魔は頭そして延髄の辺りから、壁面へと叩きつけられた。
なにもレオは、只追い詰められていた訳ではない。
ひたすらある場所を目指していたのだ。
そこは、『荷電粒子爆発』によってひびが入った外壁。
悪魔が壁に激突する衝突音とともに、蜘蛛の巣状に入っていたひびに赤い色が走る。
血の色?
さにあらず。
それは煉獄の赤い、赤い、空の色。
激しい音を立てて壁面がはじけ飛び、赤い光がフロアに差し込む。
そして真っ赤な空に、拳を振り上げた姿勢のままの悪魔が投げ出された。
狙い通り!
だが、レオが確信的な笑みを浮かべたその瞬間、恐ろしい力で身体が引っ張られ、
「そんな!?」
彼女は驚愕に目を見開く。
彼女の纏う服の肩ひもに、悪魔の爪が引っかかっている。
目を見開いたまま、瞬時に宙空に投げ出されるレオ。
視界一杯に赤い空が広がった。
――馬鹿げてる。
こんな……こんな最期。
頑張ったのに。
レオは頑張ったのに。
レオの目が潤んで、止めどもなく涙が、溢れ出てくる。
「死にたくない……死にたくないよ! ヴァアアアアアアアアアアアアン!」
慟哭ともいうべきその叫び声。
初めて彼の名を呼ぶ時が、最期になろうとは。
だが、その時。
『荷電粒子爆発ッ!』
燃える様な真っ赤な空に、少年の声が響き渡った。