第百話 彼女の本音
ギリギリと音を立てて動き出す悪魔。
レオは、それを眺めながら思考を巡らせる。
階段は途中で崩れ落ちてしまった。
だが、三段程度だ。
レオの体術ならば、壁を走って崩落した箇所を乗り越えることは訳も無い。
上層階に上り切ってしまえば、こいつの体格では、それ以上追ってはこれない。
ならば、さっさと逃げる。
これに尽きる。
無機物で出来ている癖に、ヴァンの姿が見えなくなって以降、この石人形から、激しい苛立ちの様なものを感じる。
悉く邪魔された事を本気で怒っている。
そんな恨み事にも似た殺意が、しきりにレオの方へと押し寄せてくる。
悪魔はレオを見据えると、
ウヴォヴァアアアアアァアアアアアアアァアアアアアア!
と胸を反らせて絶叫した。
ビリビリと空気が震える。
真っ直ぐに向かい合えば、足がすくんでしまいそうな程の重圧が、レオへと襲い掛かってくる。
悪魔が唐突に翼をはためかせ、ヤギの縦長の黒目がレオを見据える。
次の瞬間、
ウヴォヴァアアアアアァアアアアアアアァアアアアアア!
絶叫と共に猛烈な勢いで、悪魔はレオの方へと突進してきた。
爪を振り上げ、自分の獲物を逃がした小うるさい女を切り裂かんと、ものすごい勢いで突っ込んでくる。
だが、今まさに爪がレオを刺し貫こうというその瞬間。
彼女の姿が掻き消えた。
魔法を使った訳では無い。
だが悪魔の目には、まさしくそう見えた事だろう。
彼女は足から悪魔の股下へと滑り込んだ。
そして頭上を通り過ぎるガルグイユの尻尾に掴まって、素早く立ち上がると、わき目もふらずに階段の方へと駆け出した。
悪魔の突進は既に何度か見ている。
恐ろしい勢い。
だが、小回りが利かない。
一撃を避けることが出来れば、階段へと辿り着くだけの時間を稼ぐことが出来る。
実際、悪魔は止まる事も出来ずにレオの頭上を通り過ぎ、彼女が階段へと到達した辺りで、やっとギリギリと音を立ててレオの居る方へと身体を向けた。
レオはふぅと安堵の息を洩らす。
「レオが申し上げます。これでさよならです」
これで終わり。
あとは壁面を登ってきたとしても、レオの足ならば充分逃げ切れる。
だが、レオのその言葉が分かった訳ではあるまいが、悪魔は、ぎりぎりと音を立てて首を傾げる。
そして――ヤギの頭が口元を歪めて嗤った。
レオの背筋が凍り付く。
土人形が嗤った?
いやそんなはずがない。
だが、レオの目にはそう見えた。
次の瞬間、悪魔は唐突にフロアに倒れ込むと、四つん這いの姿勢になる。
――魔力供給が切れた?
レオが抱いたそんな淡い期待を打ち砕く様に、悪魔は小刻みに震えると、いきなり三つに割れた。
頭から尻に掛けて縦にスライスするように三分割。
その真ん中の部分がフロアに崩れ落ちて、ガンッ! と重い音を立てた。
訳の分からないその変化に、レオは思わず目を見開く。
そして、真ん中を除く悪魔の身体の左右が、引きあう様にくっ付いて一つになる。
それを目にして、レオは、思わず顔を引き攣らせた。
――階段を登る為に、身体を細くした!?
もはや突起としか言いようのない、歪な顔面に細い体。
確かに幅は三分の二に縮まっている。
あの幅ならば、階段を上る事も出来るだろう。
「レオが申し上げます。出鱈目にもほどがあります……と」
思えば、『荷電粒子爆発』の二発目を喰らった時には、一度目よりも格段に早く再生した。
学習しているのだ。
レオは思わず顔を蒼ざめさせると、慌てて階段を駆け上り始める。
逃げ切れるという目算が、一瞬で吹っ飛んでしまったのだ。
レオが駆け上がり始めた途端、悪魔は四つ足のまま、まるで猫科の動物のように身体をしならせて、階段へと駆けてくる。
そして、悪魔は躊躇する様子もなく、レオを追ってそのまま階段を駆け上がり始めた。
三分の二に体幅を細くしたと言っても、元々が巨体。
身体は階段の幅一杯。
外壁に石の身体が擦れて、耳障りな甲高い音を立て、その重さに耐えきれず、通った後から後から、階段が崩れ落ちていく。
レオは必死に駆け上がる。
だが、同じ様に階段を駆け上がるなら、悪魔の方が断然早い。
顔を引き攣らせて背後を振り向けば、すぐそこに捩じれた角が見えた。
「無理ッ!」
レオがフロアの方へと跳躍すると、今まさにレオがいたその場所を悪魔の捩じれた角が抉っていく。
飛び降りた位置は、高さにして二階層分。
無論、気軽に飛び降りて良い高さではない。
着地と同時に、レオの足首に激しい痛みが走る。
だが、そこから自らフロアに転がって、ダメージを軽減した。
「ううっ……」
レオは唇を噛みしめて、フロアに指を這わせ、必死に身を起こす。
右の足首がジンジンと痛む。
折れては無さそうだが、立ち上がれても走れそうにない。
レオは相手を侮った事を後悔した。
敵は想像以上に出鱈目だったのだ。
この分では上層階に逃げ延びても、身体を更に小さくして、追いかけてくるかもしれない。
レオが息を荒げながら身を起こすのとほぼ同時に、目の前に悪魔が降りてくる。
いや、落ちてきたと言った方がより正確だろう。
着地もなにも考えない自然落下。
激しい音を立てて、頭からフロアに突っ込んだというのに、悪魔は何事も無かったかの様に平然と起き上がる。
レオは、ふらふらと立ち上がると悪魔を睨みつける。
だが、その目はすぐに驚きに見開かれた。
フロアに散らばったまま放置されていた悪魔の身体の真ん中部分が、それ単体で生命を持っているかのように、悪魔の方へと寄り集まると、悪魔の身体が真っ二つに割れ、その間へと収まったのだ。
ウヴォヴァアアアアアァアアアアアアアァアアアアアア!
元の形へと姿を戻した悪魔は、胸を反らせて咆哮を上げる。
確かに身体を細くしておく必要など、もうどこにもない。
悪魔が駆け上がったせいで、階段は随分上の方まで崩れ落ちて、もはやレオがいくら跳躍したところで届かない。
痛む右足を引きずって、レオが後退ると、悪魔は一歩一歩ゆっくりと近づいてくる。
まるで獲物を追い詰めるかのように、一歩一歩。
――参った。
万事休すとは、まさにこういう事をいうのだろう。
レオは悪魔に背を向けて、痛みに顔を歪めながら反対方向へと逃れようと、必死に足を引き摺る。
もう少し、時間を稼げればそれでいい。
悪魔が身体を小さくして追ったとしても、あのひとが逃げ切れる可能性が高くなる。
レオは自嘲気味に口元を歪める。
まあ、もっと早くに死んでいてもおかしくなかったのだ。
この煉獄に落ちて三年、文字通りの死と隣り合わせの日々を生き抜いた。
いや、生き延びてしまった。。
何かの間違いのような気もするが、生き延びてしまったのだ。
あの森に辿り着いてからは、早く死んでいれば良かったのにと、孤独に震えながら、自嘲する日々。
自ら命を絶つ意気地も無く、万に一つ帰れる日が来るかもしれないと、ありもしない未来に未練たらたらと縋りついて、惨めに生き伸びた日々が頭を過る。
死を恐れることなど、もはやナンセンスとしか言い様が無い。
はぁ…………………………。
だが、海溝の様な深い溜め息を吐くと、レオの口から彼女自身、意図せぬ言葉が零れ落ちた。
「死にたくない」