第六話
「……なによこれ……廃虚じゃない……」
顔をしかめて眉を顰め、玲於奈は唇をかみしめた。
「……話には聞いてたけど……いくらなんでも……」
玲於奈は窓際の、ボヤで真っ黒にすすけた壁の前に膝をついた。
「……このグローブ……わかる……すごい使いこまれてたんだよね……なんで……」
玲於奈は、病気の赤ちゃんを抱くお母さんのように、愛おしそうにそのグローブを抱きしめた。
「事の経緯に関しては、君の方が詳しいんじゃないかな」
そんな風に冷静さを装いながらも、僕の頭の中に悔しそうにサンドバッグに拳をめり込ませる石切山先生の姿が浮かんだ。
石切山先生の表情が静かな怒りだとするならば、玲於奈の表情は激しい悲しみといったところだろうか。
「正直ね、僕も石切山先生にこの惨状を見せられた時、すごく絶望したよ。なんでこんなことになっちゃったんだろう、ってね。玲於奈も今、同じこと考えてるんじゃない?」
こくり、玲於奈は両目を潤ませてうなずいた。
「……グローブってさ、それを使ってきたボクサーにとって、汗と血が染み着いた、自分の分身、ていうか、子どもみたいなものなの……」
玲於奈の声が震えている。
「……このグローブに……すべてのボクサーは夢と希望を託すの……それが……こんなのって……」
……そういうものなんだ……僕には、まだよくわからないけど……。
「……それがこんな風に消し炭みたいになっちゃうなんて……ひどすぎる……」
本当にわからないな、この子って。
それとも、女の子ってみんなこんなに突飛な行動するものなのかな。
こんなに気性が激しくて、かと思えばこんな風にセンチな表情を見せちゃうし。
それに……こんなに……子どもかと思えば、大人っぽい表情もするし……。
やっぱり、かわいいんだよなあ。
拳聖さんの妹だけはある――って、何考えちゃってんの僕!
バシン!
「? ちょ、ちょっと何よあんた!?」
「い、いや、なんか、蚊が僕のほっぺたに止まってたから、ははは……」
「まったく、本当に訳がわからないわ、男って」
それはこっちのセリフだよ。
男なんて、いたってシンプルでわかりやすいじゃん。
君みたいに、いつもくるくる色を変えてとらえどころがない、君みたいな女の子の方がよっぽど訳がわからないよ。
「さ、いつまでもこうしていられないよね。色々なものが僕たちに取ってアゲインストだけど、この部室、このジムは僕たちのスタートライン、希望をかなえるための基地なんだから」
「……うん……」
「まずは、さ。この部室を綺麗にするところから始めようよ。ね? そして、石神先輩だっけ? それと拳聖さんも。みんなが戻ってきたくなるような部室に作り替えようよ」
すると、玲於奈は右手の袖でぐじぐじと顔をぬぐった。
……それ僕の制服なんだけど……ま、いまさらいっか。
煤けたグローブ抱きしめて、なんだか真っ黒になってるし。
あーあ、今度はクリーニング屋さんの場所も確かめなきゃね。
「もう、なんでこういう時に限ってポジティブなのよ……いつもはうじうじして弱虫で弱っちいくせにさ……」
ははは、言い返せないな……。
けど、玲於奈だってわかってるはずだ。
今がどん底なんだけど、それでも希望はあるって。
僕は、ポケットの中のメダルを力いっぱい握り締める。
「ここが、僕たちのスタートなんだ。絶対に部活を立て直すよ」
「……ああもう!」
玲於奈はぶるぶると顔を振った。
「あんたみたいな単純バカを見ていると、こっちが悩んでいるのがばかばかしくなるわ!」
単純バカ……うーん、そんなにシンプルな考えをするタイプじゃないんだけど、確かに玲於奈みたいな女の子に比べれば、幾分単純なのかもね。
「いい? 今日は今からこの部室をぴかぴかにするのよ!」
「え? いまから? このぼろぼろのジ――ぐえっ」
……って、いちいち胸倉掴まないでよっ!
「話し聞いてた? 刻一刻と対抗戦までの時間は過ぎていくのよ? 一分一秒だって無駄にできないの! わかったらさっさと支度する!」
「イ、イエッサー?」
……げほっ、げほげほっ、もう、乱暴なんだから。
けど、ああやって落ち込まれちゃうと、なんだかこっちの気もめいってくるもの。
むしろこれくらいのほうが……まあ、いいか。
「ところで、この部室に清掃用具とかはあるの? それに、どう見ても洗剤とかも必要ね」
「うーん、見たところ……」
ガタン
ぼこぼこになったロッカーを何とか空けてその中身をチェックする。
「……モップとほうきくらいしかないね。あとは……バケツくらいかな?」
「そう、それじゃあ、あたしは用務員室探して必要そうなものいろいろ探してくるわ。あんたはここにある使えないものまとめるとか、できることしっかりやっておくのよ。わかった?」
「ええ? け、けど、玲於奈、あまりこの校舎の中をうろつかないほうが……」
「いまさら関係ないわよっ!」
……関係ない、って言うか、聞く耳持たないなあ……。
あーあ、いなくなっちゃった。
女の子だってばれたとしても、それこそ僕には関係ないからね。
「あーあ、ひどいなこりゃ……」
ぼろぼろになったタオルやバンデージ、グローブなんかを、ビニール袋に入れる。
けど、これって全部、定禅寺西高校のボクサー達が、玲於奈の言うとおり汗と血を流したその痕跡なんだよな……。
それがこんな無残な姿になるなんて、先輩たちも……子のグローブ自信だって、きっと思っても見なかったろうな。
……ひどいよな。
なんだか、すごく、僕も悔しいな。
石切山先生の気持ちが、ほんのちょっとだけわかったような気がする。
またこんな思いをするくらいなら……もう完全に幕を引いちゃったほうがいいかもなって。
「……んしょ、っと……って、?」
なんだろう……グローブの影に……もしかしてゴキブリ?
……じゃない、なんだろうこれ。
「これって……」
ゴキブリじゃない。
これ、タバコの吸殻だ。
そうか、この部室のこの惨状は、そもそもタバコの失火でおこったんだっけ……。
……けど、何か違和感がある。
ちょっと、量が多すぎないか?
しかも、一年近く前のタバコのはずなのに、なんだか、真新しいのも混じっているような気がする。
「どういうことだ?」
――ガタッ――
「誰だ?」
え?
振り返るとそこには――
「えと……どなた……ですか?」
五人ばかりの男の人達が立っていた。
みんな制服を着崩して、なんだか、おっかない雰囲気を漂わせている。
「お前こそだれだよ。こんなところで何やってるんだよ」
「あ、は、はい。あの、ボクシング部に入部して、それで石切山先生から合鍵を預かって……それで……」
「ああ? ボクシング部に入部だぁ?」
も、もしかして、この人たち、先輩かな。
けどこの雰囲気……もしかして……この部室のタバコって……。
「あ! てめえ、見やがったな?」
僕は慌てて手に持ったタバコの吸殻をほおり投げる。
やっぱりだ。
この人たちは、部室に誰も近寄れないことをいいことにして、ここを溜まり場にしていたんだ。
「……せっかく退学になった先輩から合鍵もらって、ここを俺たちのパラダイスにしてたっつうのによ。お前みたいなのがわいて出たら、こっちが困るんだよ」
……またか……。
最近こういうのばっかり続くなぁ……。
……ああもう、また僕の弱虫がうずきだしてる……。
「おぅ一年、合鍵渡してさっさといなくなれ。ボクシング部入部だなんて、くだらねーこと言ってると痛い目見るぞ」
僕は無意識の内にポケットに手をやっていた。
落ち着け、玲。
確かに、怖くて仕方ない。
怖くて怖くて、逃げ出してしまいたい。
けど、僕には守らなくちゃならないものがあるんだ。
思い出せ、玲。
さっきみた、玲於奈の悲しそうな顔、石切山先生の悔しそうな顔。
あんなのを見るくらいなら、こんな奴等の言うなりになるくらいなら――。
「お断りします。死んでもいやです」
ああもう、言っちゃったよ。
けど、仕方がない。
「死んでも嫌ってことは……死ねばその鍵くれるのか?」
僕が抵抗したって勝てっこない、ましてや相手は五人もいるんだ。
だから……だからこの鍵だけは、死んでも守り通してみせる。
ちっちゃいけど、僕のプライドにかけて。
「じゃあしかたねえな、っと!」
「だっ!」
……ってててて……。
そこ昨日蹴られたばっかのところだよ。
「おらっ!」
「ふわっ?」
僕は思いっきり足払いを掛けられて、そして地面に引きずり倒された。
……ああもうだめか。
けど、この体勢なら、お知りのポケットにある鍵は取り出せないな。
「おらっ!」「さっさっと鍵出しやがれ!」「死ねやこらっ!」
……痛いとか、そういう感覚は徐々になくなっていった。
……体だけじゃなくて、顔とかにも拳や足が飛んでくる。
とにかく、怪我をしないようにこの場をやり過ごそう。
――
「はあ、はあ、はあ、強情な奴だ……」
……もう終わりかな……。
……なんだか、終わったら痛みがぶり返してきたな……。
……そろそろ諦めて欲しいな……。
「ああもうめんどうくせえ! 出すまで徹底的にぼこぼこにしてやんよ!」
……そっか……まだ続くのか……。
……いっそ気でも失おうか……。
「ん? なんかこいつのポケット、膨らんでねえか?」
「財布じゃね? ちょうどいいわ、失敬させてもらおうぜ」
……今日はお金下ろしてないから、小銭くらいしか入ってなかったっけ……。
……ま、いいやそれくらいなら――
「お? なんだこれ、なんかのメダルか?」
……あ、それは……それだけは、だめだ……
「ん? なんだ気持ちわりいな、まとわりつくんじゃねえよっ!」
……ったー……けどもうなんだか痛いとかそういうことどうでもいいや……とにかく、メダル取り返さなくちゃ――
「! があああああっ! てえっ!? 離せ、離しやがれっ!」
……離さないよ……僕にだって意地はある……すっぽんだって、雷がなるまで離さないんだもの……。
……この歯が全部折られるまで……せめて噛み付き続けてやるんだから……。
「いでえって! いでえいでえって!」
「お、おい、こいつ頭いかれてんせ!?」
「な、何でもいいから早く! 早く助けろ!」
「ま、まってろ!」
……モップ、か……。
……あーあ、今度こそ死んだかもな……。
……けど……メダル……返せ……。
「おらあ! とっとと死――」
――ガンッ――
「何やってんの、先輩方」
……誰?
……あいててて……。
……だ、誰――
!
……君は……。
「ゆ、悠瀬君……」
「大丈夫か佐藤君!」
……ててて、ありがと、悠瀬君は僕のところに駆け寄ると、ゆっくり体を起こしてくれた。
「安心しなよ。もう大丈夫だから」
ジャージー姿の悠瀬君は、僕に笑いかけてくれた。
「感心しませんね」
悠瀬君は、僕を壁にもたれさせると、上級生たちの前に仁王立ちになる。
「下級生を大勢で袋にするなんて」
「おまえにゃ関係ねえだろ! とっとと失せろ!」
「大有りっすよ。佐藤君は、俺の友達だから」
「うるせえっ!」
だめだ……。
悠瀬君逃げ――
な、なんだ?
悠瀬君はその男との距離をあっという間につめると――
「ごあっ……」
その男はみぞおちの辺りを押さえてその場に崩れ落ちた。
悠瀬君は半身を沈めて両脇を締め、右拳は真っ直ぐ前方に突き出されていた。
「てめえ!」
「ふっ!」
ガッ!
「ったっ!?」
今度は半身になった悠瀬君の体から、最短距離で足の裏が別の男の顔面にめり込んだ。
「一本、ってとこっすか」
「よくもやりやがったな!」「袋にしちまえ!」
――
「大丈夫か、佐藤君」
あいてててて……悠瀬君は肩を貸して僕をベンチに座らせてくれた。
「あ、ありがとう。けどなんで悠瀬君がこんなところに……」
「陸上部の練習、急に雨が降ってきたからさ。階段トレーニングをしてたんだけど、奥からなんだか大きな音が聞こえたからさ。で覗いてみたら――」
「ははは……僕が袋にされていた、ってわけね……」
けど、悠瀬君が来てくれなかったら、僕はきっとあのまま……。
「君には助けられたよ。悠瀬君って、強いんだね」
「え? ん、まあ、ね……」
悠瀬君は恥ずかしそうに頬をぽりぽりとかいた。
ん?
悠瀬君の後に、誰かがゆっくりと近づいてくる。
さっきの……男の一人?
手には……モップだ!
「悠瀬君、危ない!」
「!?」
やばい、やられ――
「はい、お疲れさん」
誰かがその男の肩口を叩く。
そこには――
「玲於奈?」
「? 誰?」
玲於奈はタオルを固く結びつけた右拳で、その男の顎を打ち抜いた。
崩れ落ちる男を一切気に留めることなく、玲於奈は口を開いた。
「えっと、あんた玲の友達? お蔭様で、あたしの出る幕なかったわね」
「ったっ!」
「我慢しなさいよ、これくらい。男でしょうが」
て、手当てしてくれるのは嬉しいんだけど……もうちょっと優しくしてよ……。
「話は大体わかったよ」
まだ混乱しきりの頭を抱えて悠瀬君は言った。
「君はその拳聖さんの妹さんで、佐藤君とボクシング部を復活させてお兄さんにまたボクシングをやらせたいってことね」
「ま、そんなところね。これでよし、っと」
パシン
「あいだっ! そんなに強く叩かないでよ!」
「男のくせにごしゃごしゃ言わないの」
ちらりと鏡を見たら、右目の上が結構腫れていた。
……先生たちにばれたらやばいな……。
……またボクシング部の活動が禁止されちゃうかも……。
僕はかばんから取り出したタオルを頭に巻いた。
これで少しは目立たなくて済むかな……。
「あ、そうそう、あたしも聞いておきたいんだけど」
「何?」
「悠瀬、っていったっけ。あんた、何かやってたの?」
「そうそう! 僕も聞きたかったんだ! 悠瀬君って、中学時代何やってたの?」
すると悠瀬君は、一瞬躊躇したあと、小さな声で呟いた。
「俺さ、子どものころから空手やっててさ。松濤館って流派。だからまあ……それなりに自信はあるよ」
「そう。けど、それなりって腕じゃないわよね。本当の事聞かせなさいよ」
「……成程、君もただ者じゃない、ってことね」
すると悠瀬君は、ほう、とため息をついた。
「まあ、全中で優勝したくらいの腕ではあるよ」
全中?
中学生の全国大会?
「すごいじゃん! 高校ではやらないの?」
「ん……まあ、うちは空手部ないし、それに空手は中学までで、勉強に専念するつもりでこの高校受けたわけだから、ね。ま、もういいだろ。じゃあ、佐藤君の大事にな。俺、まだ陸上部の練習残ってっから」
そういって立ち上がろうとする悠瀬君に
「ちょと待ちなさい」
へっ?
「れ、玲於奈、何やってんの?」
玲於奈は悠瀬君の肩口を掴んでいた。
「何? もう俺には用はないだろ?」
「あんたはなくても、こっちはあるの」
相変わらずの上から目線で玲於奈は言った。
「ねえ悠瀬、あんた身長体重いくつくらい?」
「俺? ん……確か一七七センチ六三キロくらいだったと思うけど」
すると玲於奈は、僕の顔を見てにっこりと微笑んだ。
「怪我の功名ね、玲。ライト・ウェルター級かライト級、候補者ゲットよ!」
……。
………。
…………何いってんのこの子。
「何きょとんとしてんのよ。バカなの? 死ぬの?」
「いやいやいやいや! 何でそこの悠瀬君を巻き込むの?」
「あんただって見たでしょ、この男の戦いぶり」
「もしかして、俺にボクシング部に入れっていってんの?」
「あんたも鈍いわね。全部言わなきゃわかんない?」
すると悠瀬君は困ったような表情で頭をかいた。
「いや……全国優勝したってったって、あくまでも別競技でだし……それに、空手は蹴りが有りの前提での武道だから……期待掛けてくれるのは嬉しいけどさ」
「大丈夫よ。全く戦ったことのない男より断然可能性はあるわ」
はいはい、僕のことね……。
……悠瀬君、困ってるみたい。
そりゃあそうだよ。
いきなりボクシング部に入れ、なんて、ちょっと虫が良すぎるよね。
「……悪い、いきなりそんなこと言われても、答えられないし……それに……ねえ佐藤君、本当にこの部活、存続すると思う?」
「えっ? それはどういう――」
「玲於奈、だっけ。君もこの辺に住んでるんなら、この部活が周囲にどんな目で見られて、学校としてもお荷物扱いにしていた事だって、わかるよね」
「……」
こくん、玲於奈は無言で頷いた。
「この部活に入るために頑張った佐藤君の気持ちもわかるけど……そういう部活で活動して、自分の時間を無駄にしたくないんだ」
……まいったな。
ねえ玲於奈、何でそんな悲しそうな顔するんだよ。
とても口に出してはいえないけど、僕は君のそんな顔見たくないよ。
上から目線で口が悪くても、できれば僕は君に笑っていて欲しいんだ。
そして君の笑顔は、僕の笑顔にも繋がるんだから。
「正直、僕は県外だから、この地域の人がこのボクシング部があまりいい目で見られていないのはわからなかった。けど、さっきようやく実感できたよ。だから、君がそういう風に考えてているのも、仕方のないことなのかもしれない」
「……悪いとは思っているよ。けど――」
「――けど、そこを押してお願いしたいんだ。はっきり言って、これは僕たちの、ううん、むしろ、拳聖さんと一緒にボクシングがしたいって言う、僕自身のエゴだ」
「……そんな、自分のエゴだって思っていることを俺に押し付けようって思ってるわけか」
そりゃあ、怒るよね。
もし僕が君の立場だったら、間違いなく腹を立てているよ。
それでも……それでも僕は――
「怒るのも当然だね。だけど、それは僕だって重々承知している。それでも君にお願いしたいんだ。ボクシング部に入部して欲しい。そして……一ヵ月後の興津高校との対抗戦に出場して欲しいんだ」
「一ヵ月後? そんな……いくらなんでも……って、佐藤君? そんなことされても――」
もし君がボクシング部に入ってくれるなら……僕はなんだってするよ。
「お願いだ悠瀬君! 君しかもう頼る人がいないんだ!」
「だからって……やめてくれよ、土下座なんて、されても嬉しくないよ……」
「……やめてよ玲……そんな……」
悠瀬君と玲於奈が、僕の顔を上げさせようとする。
けど、こんな安い頭なら、いくらだって下げてやる。
「お願いします! ボクシング部に入部してください!」
ふう、僕の頭の上で、悠瀬君のため息が漏れ聞こえる。
「……よく考えたらまあ、ボクシングやるためだけに他県の学校を、しかも特待とるために必死で頑張ってきた男に、何言っても通用しないよな……」
その言葉に、僕はようやく顔を上げる。
「……わかったよ……友達にそこまでされて答えないんじゃあ、男じゃないよな」
「え? じゃあ……」
「わかったよ。俺で力になれるんなら、協力させてよ」
「ありがとう悠瀬君!」
僕は悠瀬君の手を力いっぱい握り締めた。
うわ……すごい……太くてごつごつした手だ……。
「いいよ、そんなことしなくって。よく考えたら、ボクシングって結構興味あったし」
こ、これが拳ダコってやつか……。
「けど、条件がある」
「……条件?」
ごほん、悠瀬君は咳払いを一つ。
「俺のこと、君付けなんかしないでいいよ。美雄、って呼んでくれ。俺も君の事、玲って呼ぶから」
「……うん! よろしくね、悠瀬……じゃなかった、美雄!」
「こちらこそ、玲」
今度は美雄が右手を差し出し、僕がそれを握り返した。
「さってと、じゃあ俺、行くね。まだ仮入部の段階だったけど、まあ、しばらくは兼部って形で、陸上部には参加させてもらうことにするよ」
「う、うん。そうだね、しばらくはメンバー集めの方優先しなくちゃだから」
「ま、俺もめぼしい奴には声をかけてみるよ。そっちのほうは期待しないで欲しいけどな。んじゃな」
そういうと、悠瀬君……じゃなかった、美雄は部室から出て行った。
ふう、なんだか悪いことしちゃったかな。
けど、これで、力強い味方ができた。
ううん、それだけじゃない。
僕もこの学校に入って、本当の……あいたっ!?
「ちょ、ちょっと!? なんでお腹殴るんだよ!」
「うっさいわね! ……もう……誰がそこまでして欲しいなんていったのよ……」
「え? 玲於奈……」
泣いてる……。
ちょ、ちょっと、弱ったな……。
女の子に面と向かって泣かれるなんて、そんな経験今までなかったから……。
「ご、ごめん、そういう――」
「なんであやまんのよ! そういうところがむかつくの!」
……はあ、本当に分けわかんないよ。
「別に、君のためだけに頭を下げたわけじゃないよ。僕だって、ボクシング部を賦活させたいて気持ち、君に負けないくらい強く持ってるもん。だから、それこそ君が泣く必要なんてない。ね? だから、笑ってよ、玲於奈、ほら――」
「は?あんた、ちょ、きゃっ、きゃははははっ!」
ほら、笑えるじゃん。
こうしてくすぐってみると、あんなにすごいパンチ打てるのに、華奢な――
「きゃはは……って、い、いい加減にしなさいよっ!」
「あいたっ!」
てててて……。
相変わらず、玲於奈のパンチは痛いな……。
「ったく、中学生の美少女のわきの下をくすぐるなんて、セクハラよ。場合によっては淫行条例で逮捕されちゃうんだからねっ!」
「ははは、けど、よかった」
「えっ?」
「やっぱり、玲於奈は笑ってた方がかわいいと思うから」
「ふぇ? な、何いってんの?」
「ほら、ね?」
「……あ、ああ、あんたって……まったくバカなんだから……」
……あらら、そっぽ向いて背中見せちゃったよ。
やっぱり、くすぐられたの、怒ってるかな?
褒めたつもりなんだけどな。
ま、しょうがないか。
「……けっきょく、今日もこうやって寝るのね……」
「当たり前でしょ? この美少女の横で寝られるだけ、ありがたいと思いなさい」
……横って言ったって……君はベッドで僕は寝袋じゃないか……。
まあいっか、とにかくいろいろあって疲れたけど、それでも今日は新入部員を、それもとびきり強い人を獲得できたんだ。
「すごく大変だったけど、さ、なんだかいろんなものが上手く回っていく気がするよ。玲於奈はそう思わない?」
「……ごめん……」
「え?」
あの玲於奈が、僕に謝った?
「……ごめん……あんたが、ボクシング部のためにあそこまでやってくれったって言うのに、あんなひねくれた態度取っちゃって……すごく……嫌な女だって思ったでしょ?」
フロアに寝袋で横たわる僕に、玲於奈の表情は確認できない。
けど、どんな顔をしているか、それくらい僕にだってわかる。
「もしかして、僕に気を使ってくれてるの? そんな気なんか使わなくっていいのに。なんだか悪いな」
「……なんであんたが謝んのよ……あたしが謝ってる意味がなくなっちゃうじゃん」
そ、そうか。
逆に気を使わせちゃったみたいだな。
「ご、ごめん、そういうつもりじゃ――」
「だから謝るなっていってんの!」
「ご、ごめ――あ、いや……うん……」
それっきり、僕たちはそのまま黙っていた。
無言のまま、けど、お互いの息遣いだけがどういうわけかとても大きく響くようだった。
「「……あの……あっ」」
僕たちの言葉は、ユニゾンするように重なった。
「あ、あんたから話しなさいよ……」
「うん……あのさ、昼間にも言ったけど、別に僕に謝る必要なんてないよ。僕だって、ボクシング部を再興することが目標なんだから。だから、玲於奈がそういう風に考える必要なんて、ないから」
「……わかってるわよそんなこと……あんたは……って言ってんの……」
「? ごめん、声が小さくてよく――」
「あんたはあたしのことかわいげのない女だって呆れたんじゃないかって言ったの!」
わっ!?
あーびっくりした……。
何だよ、急に大声上げたらびっくりするじゃないか。
「あ、えと……い、言ったじゃん。玲於奈は、笑っているとすごくかわいいって」
「知ってるわよ、それくらい。あたしを誰だと思ってんのよ。世界一の美少女なんだから」
あ、そこだけは絶対の自信を持っていらっしゃるようで……。
「あたしが言ったのは……こんな意地っ張りで性格ひん曲がってて、絶対的に素直じゃなくて、見栄っ張りの暴力女……あんたは……嫌いになったりしたんじゃないかな……とか……」
「玲於奈……」
なんだ、そんなこと気にしてたのか。
「なんだよ、君らしくないな。そんなこと全然考えてないよ」
「どうして?」
ファサッ、寝返りの衣擦れの音が聞こえた。
「あんた、やっぱり見た目通りのドMだから?」
……僕ってそんなにマゾヒストな見た目してるのかな……。
「僕がマゾかどうかはどうでもいいんだけど、僕だって玲於奈に感謝してるんだよ」
「……どうしてよ……別に慰めとかはいらないんだけど……」
「はははっ、別に慰めなんかじゃないよ。僕ってほら、結構優柔不断で引っ込み思案なところもあるし。それに……君の言うように、よわっちいしさ。だから、君が、ちょっと強引だけど、僕の背中を押してくれたから、僕も自分のいいたいこと、本当にやりたいことを実行できたんじゃないかって思う。僕一人じゃ……うん、玲於奈の力がなかったら、ボクシング部の再開なんて、できっこなかったもん」
「……そんなこと……」
「ねえ、僕たちって、すごくいいパートナーだと思わない?」
「……はあっ? あ、あ、あんた、自分が何言ってんのかわかってんの?」
そう、君は僕を夢の実現に導く、“試練の天使”なんだ。
「引っ込み思案の僕を行動力のある玲於奈が引っ張って、暴走気味の玲於奈を僕が軌道修正する。僕たち、お互いに足りないものをカバーしあうことができるんだ。そう思わない?」
君が僕にもたらしたもの一つ一つに真正面からぶつかっていけば、きっと――
……。
なんだ、全然反応がないなあ。
「あの……また僕へんなこと言っちゃったかな……」
トンッ
あれ?
玲於奈が急に立ち上がって……あっ、ちょっと?
何で僕の机の中勝手にまさぐってんの……って、手に持ってるのは……はさみ?
それで一体……え?
な、なんではさみを僕に向けたまま近づいてくるの?
「……まったく……あんたって男は……」
バサッ
「ひっ!?」
な、何で僕の布団を引っぺがすの?
ま、まさか……。
「ご、ごめんなさい! あ、謝りますから、どうか命だけは――」
――ジョキン――
……。
………。
…………へっ?
「ったく、何想像してんのよ。あたしがあんたみたいな弱虫を殺すとでも思ったわけ? もしあんたを殺そうなんて思ったら、この両拳で十分よ」
気がつけば、僕の腕をぐるぐる巻きにして自由を奪っていた紐がばっさりと切り落とされていた。
「けど、勘違いしないでね。もし寝ているあたしに指一本でも触れたりしたら、それこそ体中の急所という急所に拳めり込ませて、世界で一番苦しい死に方させてやるんだから。わかった?」
「う、うん!」
世界で一番苦しい死に方……ものすごく物騒な言い方だけど……けど……。
「あはっ」
「な、なによ、気持ち悪い笑い方しないでよ!」
「あはっ、ごめんごめん。なんか嬉しいんだ」
「……なにがよ……」
「ようやく玲於奈が、僕のことを信用してくれたみたいで。うん。すごく嬉しいよ。ありがと、玲於奈――ぷふぁっ!?」
「くだらない事いってないでさっさと寝ろ!」
玲於奈の投げた枕らが僕の顔を直撃した。
僕は、久しぶりにポケットの中のメダルを寝る前に握り締めた。
Lさん、Jさん、お元気ですか?
まあ、死んでるけど。
あなた達が舞いおろした天使は、ちょっとひねくれて乱暴だけど、根はとってもいい奴ですよ。




