第五話
「ご飯できたー?」
「あ、うん。今仕度してるところだから――って……ちょ、ちょっと!」
「ん? 何って……いつもの恰好だけど?」
キャミソールにショートパンツ、ほとんど下着みたいな恰好じゃないか。
まだ春になったばかりだってのに、なんて格好してるんだよ……。
「そ、そんな格好してると、風邪ひいちゃうよ? こ、このマンション、結構冷えるんだからねっ!?」
「あっそ。じゃあ、これでも羽織っとくね」
「あ、それ僕のパーカーじゃん! かってに着ないでよ!」
「ぴったりじゃん。あんた男のくせに小柄だから、あたしが着てもちょうどいいサイズね」
ほんとに自由すぎるよこの子……。
「ぷう、美味しかった。あんた料理上手じゃん」
「よかった。人に料理食べてもらうなんて初めてだからさ」
最初はちょっとイラッときたけど、うん、やっぱりご飯は一人で食べるより、一緒に食べる人がいたほうがおいしいね。
玲於奈にはオレンジジュースをコップに注ぎ、僕はコーヒーの入ったマグカップを手もとに置いた。
「あ、サンキュー」
ごくごくごく、気持ちよさそうにのどを鳴らす。
「ぷひぃー」
玲於奈はコトンとグラスをテーブルに置くと、おもむろに言った。
「ねえ、そろそろ聞かせてよ」
「え?」
ずずず、僕はコーヒーを一口すする。
「あんたが、定禅寺西を受験した理由よ。それと……お兄ちゃんとの関係も」
「……うん」
―――
「そっか、そんなことがあったんだ」
からん、空になったグラスの中で氷が音を立てた。
「まあ、その気持ちはわかるわ。リングの上のお兄ちゃんは、まあ、リングの外でも恰好いいけど、本当に格好良かったんだから」
「そうだね。僕もそう思うよ。だからこそ、あれだけ苦労して、この学校受験したんだもん」
「その結果がこれってわけか。あんたも運がない男ね。よっぽど日ごろの行いが悪いのね」
「ほっといてよ」
……まったく、隙あらば憎まれ口ばかりなんだから。
「それじゃあさ、今度は僕から聞きたいんだけど」
「何?」
「理由がわからないって言ってたけど……知っている範囲でいいから教えてほしいんだ。そうして……どうして拳聖さんがボクシングをやめたのかってこと」
「……本当に知っていることしか言えないけど……」
玲於奈は俯きながら話し始めた。
「……あのインターハイの後、お兄ちゃんが急にボクシングをやめるって言いだしたの。理由は何にも言わなかったわ」
「ほかの部員の人とか、顧問の石切山先生とかは止めなかったの?」
ふるふる、玲於奈は首を振った。
「誰も何も言わなかったみたい。なんだか、お兄ちゃんがそうすることを知っていたみたい」
「もしかして、あの一連の不祥事に嫌気がさしたからってことはある?」
「言ったでしょ、その前から決まってたみたいだって。むしろ、あの事件はおまけみたいなものよ」
「そっか……けど、なんでだろう。一年生の時から何度も全国優勝しているような人、普通だったら何があったって説得しているのに……なんだか、みんなそれを歓迎しているみたい」
「お兄ちゃんはもう大学も推薦で決まっているの。だからモチベーションが下がったのかなって思ったけど、そういうわけでもなさそうだし……」
「お父さんやお母さんは、止めなかったの?」
すると、玲於奈の表情はさらに暗いものになった。
「あたしんち、お父さんとお母さんいなくて……ずっと二人暮らしだから」
「……ごめん、変なこと聞いちゃったかな」
ふるふる、玲於奈はまた小さく、そして何度も顔を振った。
「お母さんは、あたしを生んですぐに死んじゃったの。お父さんはね、ボクシングの元オリンピック選手で、子どものころからお兄ちゃんは御父さんボクシングを教えてくれたわ。確かまだ八歳くらいかな。あたしも……まあ、時々教えてもらってたかな……」
そっか、だから拳聖さんも玲於奈も……。
「けどね、お父さん、交通事故で死んじゃって。それでそれからはお兄ちゃんがあたしのお父さん代わりだったの。アルバイトとかしながら、あたしのご飯作ったりいろいろ面倒見てくれたり、その合間を縫ってボクシングの練習もして……」
「すごいね。それで何度も全国優勝しちゃうんだ」
「お兄ちゃんは、天才なの」
恋人を自慢するような、のろけるような口調で、とろんとした目で玲於奈は笑った。
「ううん、強いだけじゃないの。あんたも知っていると思うけど、ものすごく華やかで華麗なボクシングで。見る人の目を、引きつけずにはいられないボクシングなんだ」
「うん。なんたって拳聖さんは“シュガー”だもんね。だから僕も……僕も、拳聖さんみたいになりたいって、拳聖さんとボクシングをやりたいって思ったんだ」
こくり、玲於奈はうなずいた。
「あたしも、お兄ちゃんのボクシングが大好きだった。一人で家にいて寂しいこともあったけど、お兄ちゃんの試合の映像とか見ているだけでうれしかったもん。だから、ずっとお兄ちゃんはボクシングをつづけるものだとばかり思ってた。だけど……」
……理由もわからないままボクシングをやめちゃったってことか。
そっか、玲於奈は寂しいんだ。
今まではボクシングに真剣に取り組んでいる拳聖さんを見ているだけで勇気付けられたのに、その拳聖さんがボクシングをやめちゃって、結局寂しさだけが残っちゃったってことか。
「ねえ玲於奈」
「……なによ……」
あ、また目が潤んでる。
気が強いし、死ぬほど生意気だし、僕なんかより何倍も喧嘩が強いけど……けど、やっぱり年下の女の子なんだよな。
「あのさ、正直言うとね、僕も昨日までは、僕は一体何のためにこの学校に入学したんだろ、あれだけつらい思いをしたのに、って、ずっと考えてた。っていうか、転校しようかなって思ってたくらいだよ。僕たちは、似た者同士なのかもしれないね」
「……玲……」
「その僕たちがこうして出会えて、そしたら拳聖さんに出会えて、そして、拳聖さんが約束してくれたんだ。もし部活を立て直して対抗戦に出ることができたら、もう一度リングに上がってくれるって。これって、すごいことじゃない? 運命感じちゃわない?」
“試練の天使”か。
ばかばかしいけど、もし玲於奈が、LさんとJさんの遣わしてくれた天使だとしたら――
「だから、僕はもう迷わないよ。だから君も、落ち込まないで。僕の夢と君の願い、一緒にかなえようよ。ね?」
「……なによ……弱っちいくせに……」
玲於奈はぐじぐじと両目をこすった。
「そんなこと、あんたに言われなくたってわかってるんだから……」
「ははは……それは否定できないかな……」
「……ふぇ……ぐす……」
あ、また玲於奈が泣いてる……。
「けど……ありがと……」
え?
初めて玲於奈からありがとう、なんて言葉聞いたかも……。
「あはっ、そのパーカー、ポケットの中にハンドタオルあると思うから、使って」
「……うん……」
なんだ、こうしていると、すごく素直な子じゃないか。
いつもこんなに素直なら、すっごくかわいい女の子なのに。
……あ……そういえば……。
「ねえ、もう一つ聞きたいことあったんだけど」
「……ぐす……なあに?」
「なんで玲於奈は家出したの? さっき拳聖さんにあんなことして……とか何か言ってたけど、何かあったの?」
ピクン、その言葉に、穏やかだった玲於奈の顔が一瞬にしてこわばった。
「……なによ……思いだしちゃったじゃない……せっかく忘れたと思ったのに……」
「へ? い、いや、だから、なんで玲於奈が家出しようって思った理由は何かなって――」
ぎろり、玲於奈は眉間にしわを寄せながら、顔を真っ赤にして言う。
「……私が返ってきたとき……お兄ちゃんが……お兄ちゃんが……」
「拳聖さんが?」
「……“いえでしてた”の……」
?
なんだか話が見えてこないんだけど……。
「どういうこと? 家出したのは君で、拳聖さんが家出したわけじゃないでしょ?」
「ああもう! あんた本当にいくつ? これだからあんたはガキだって言ってんの! “家出”したのはあたしだけど、お兄ちゃんは“いえでしてた”の! そのシーンを見ちゃったの! あたしとお兄ちゃんの二人っきりで暮らす神聖な部屋で!」
家にいるのに家出する?
僕には何を言っているのかはわからないけど、玲於奈は興奮のあまり肩を怒らせて、まるで野生動物みたいに唸り声を上げていた。
「ああもうあったまくる! ちょっと位イケメンでスタイルもよくて、笑顔が素敵でクールで女の子には優しくて、妹のあたしから見たってとろけちゃうくらいに格好いいからって調子に乗って! お兄ちゃんったら、あたしがお兄ちゃんのこと大好きだってこと知っててあんなことするんだから!」
そ、そうか、やっぱり玲於奈って……超がつくほどのブラコンなんだな……。
「女の子をとっかえひっかえ家に上げるような男絶対に許せない! 絶対にボクシング部復活させて対抗戦実現させて、お兄ちゃんのことまたリングに引きずり上げてやるんだから!」
な、なんだかよくわかんないけど……う、うん、やる気になったんなら、よかった……のかなあ?
「玲っ!」
「わっ!」
きゅ、急に胸倉掴まないでよ!
「いい? 明日からすぐにスタートよ! 必ずボクシング部、復活させてやるんだから!」
「え? い、いきなり? そうは言っても、普通に授業とかあるし、君だって学校とか……」
「“でも”も“スト”もない! あんたには“はい”か“イエス”しかない! わかった!?」
「ぐ、ぐぇぇ……イ、イエッサー!?」
げほっ、がほっ……。
なんだよ……さっきまでちょっとだけかわいいかなって思ったのに……。
前言撤回だよ、まったく!
※※※※※
――キーン、コーン、カーン、コーン――
「起立」ガタガタッ「気をつけ、礼」
……ふう、あー、長かったなあ。
ようやく六時間目が終わったよ。
……まあ予想はしてたけど、授業の進度も早いし難易度も高いし、やっぱり高校の勉強って中学とは全然違うなあ……。
「おつかれ、佐藤君」
「あ、悠瀬君、おつかれー」
バッグを肩にかけた悠瀬君が、ちっとも疲れを感じさせない表情で言った。
「悠瀬君はこれから部活?」
「ああ。まだ仮入部の段階だけどさ……ていうか佐藤君、今日もなんか疲れてないか?」
「ははは……そ、そうかな……まだ一人暮らしになれないから、よく寝れないんだよね……」
昨日あの後、僕たちは寝ることになったんだけど、当然のように僕のベッドは玲於奈に奪われた。
僕は板の間に寝袋を敷くこと担ったんだけど「あたし、夜中に二人っきりりになった男を信用する程ガキじゃないから」って玲於奈に両腕を縛られた。
「両足まで縛らないだけ、ありがたく思いなさい」うん、確かに両足まで縛られたらトイレにも行けないよ。
嗚呼なんて慈悲深い玲於奈様。
――ガラガラガラ、ガシャン――
ん?
なんだ?
「玲! 佐藤玲! ここにいるんでしょ?」
へっ?
ぼ、僕はまだほとんど友達いないし、いるとしたら、まあ悠瀬君くらいなんだけど、そんな僕に、一体誰が、何の用?
その子はきょろきょろと今日室内を見回す。
……背は小さいな……僕よりちょっと小さいくらいだもん。
……髪の毛を後にまとめて、ポニーテールみたいにしてる。
……。
………。
…………目の錯覚だよね。
うん、定禅寺西の制服を着てるし。
そうだよ、いくらなんでも、玲於奈がこんなところに――
「あ! いるじゃん! なんで返事しないの?」
……ああもう、悪夢じゃんこれ。
「さ、さっさといくよ! 遊んでる時間なんてないんだから!」
玲於奈は僕の肩口を掴むと、ぐいぐいと引っ張った。
「? その子、佐藤君の知り合い?」
あっけに取られる悠瀬君だけど、今は詳しく説明している場合じゃない。
「あ、う、うん、ま、また明日ね、悠瀬君――」
「さっさとする!」
僕はそのまま教室の外へと引っ張られていった。
「さ、まずは戦略を立てるわよ」
桜の木の下のベンチに、定禅寺西の制服に身を包んだ玲於奈がどっかと座った。
「そんなことより、まずはどういうことか説明してよ! なんで玲於奈がこんなところにいるの?」
すると、玲於奈は生ごみを見るような目で僕を見た。
「なに言ってるの? 今日から早速お兄ちゃんをリングに復帰させる計画を実行するって言ったじゃない! ほんの十数時間前の約束すら覚えていないくらいあんたは薄情だってわけ?」
「そういうことじゃなくて! なんで玲於奈が定禅寺西の制服を着てるの?」
「ああ、あんたのたんす探したらあったのよ。あんた華奢だから、あたしにもすんなり入ったわ」
……は?
「な、何やってくれちゃってんのさ!? 勝手に僕のたんすまさぐらないでよ!」
「うるさいわね。そんな小さなことにこだわってるからあんたはよわっちいのよ。もっと大きな男になれなきゃ、一生もてないわよ? いいからさっさと座りなさい。今後の流れを決めるのよ」
ううう……あんまりだ……僕にはプライバシーも何もないじゃないか……。
「いつまでもうじうじしないの。そんなくだらないことより、私たちの目的実現のために、今何をすべきか、しっかりと確認することこそ必要よ」
くだらないこと……もういいよ……僕はため息をつきながら玲於奈の横に座った。
「まず、あんたは顧問のイシちゃんに交渉して、ボクシング部の活動を再会させる交渉をしなさい。それでその後、対抗戦に出るためのメンバーをかき集めるの」
「イシちゃんって……玲於奈も石切山先生知ってるの?」
「大会で何度も会ってるわよ。だからあたしの顔も割れてるかもしれないから、交渉
はあんたしかできないわ。いい? しっかりやるのよ」
「う、うん。わかった」
「君が? 特進クラスの君が、ボクシング部に入るというのか?」
石切山先生は複雑な表情。
そりゃそうだよね。
そもそも特進の、しかも僕は勉強の特待生として入学したんだから、学校的にもあまりいい顔はされないことくらい、百も承知だけどさ。
「それに……君も見たはずだ。あの部室の惨状を。拳聖にあこがれて入学を決意したという君には悪いが……とても俺自身も許可を下す気にはなれんよ」
それだって、全て承知の上だ。
それでも、僕には……僕と玲於奈にはかなえたい願いがある。
「先生のおっしゃりたいこともわかりますし、あのボクシング部の部室で何があったかも……。ですけど、僕もここまで来たからには引けません。勉強だってしっかり頑張りますし、たいへんかもしれないけど、部活との両立を目指します。だからお願いです!」
僕は、しっかりと、思いをこめて頭を下げた。
「ボクシング部の活動を再開させてください! そして僕を、ボクシング部に入部させてください!」
ふう、石切山先生は深いため息をついた。
「君の気持ちはわかった。だが、俺としても今まで活動を再開させなかった気持ちというものを考えてくれ。いろんな方面に迷惑をかけて、一生分の頭を下げつくしてきたつもりだ。それを考えるとな……とてもすんなりOKサインを出す気にもなれんのだよ」
そうだよな……。
インターハイ選手や国体選手、それも優勝選手を輩出するようなこの名門ボクシング部が、不祥事で活動ができなくなる、指導者としての石切山先生の気持ちを考えれば、それも当然だよな――
カコン
――ったっ!
え!?
「? どうした?」
「! い、いえ! な、なんでもありません……」
僕は足元に転がるコーヒーの空き缶を足の後ろに隠した。
ちらりと後ろを見れば、物陰からギロリと僕を睨む玲於奈の姿。
……もう、これ友達じゃなかったら訴えられてもおかしくないぞ……。
「せ、先生のおっしゃる意味もわかります。ですが、このままこの伝統ある定禅寺西高校のボクシング部をなくしてしまうのも、もったいないと思うんですが……」
「すべてが全て拳聖のようなボクサーばかりとは限らん。そもそも、ボクシングってのは、もともと腕っ節自慢の粋がりが集まりやすい空間なんだ。もし君がきちんと部活をやり遂げたとしても、君が卒業した後はどうなる? 私がいるときはまだいい。私がいなくなったとき、この部活をコントロールし続けることが、果たしてできるのか。悪いが、学校の事を考えると、このままボクシング部は永久に休眠した方がいいとは思わんかね」
そう言われると……何も言えなくなってしまう。
果たして、僕の判断は正し方といえるのだろうか。
僕は、僕と玲於奈は、リングから去った拳聖さんの意思を無視して、無理矢理自分たちのエゴを押し通そうとしているだけじゃないんだろうか。
けど……だめだ、なんて言ったらいいんだろう、あれこれ言葉が浮かんでくるけど、何にも言えなくなってくる……。
「いくじなしっ!」
「? いくじなし?」
ちょ、ちょっと玲於奈さん!?
何言ってくれちゃってんの?
僕が振り向くと、さっと玲於奈は姿を消していた。
「あ、あっ、そ、その……石切山先生の意気地なし! なんて……ははは、言っちゃったりなんかしちゃったりして……すいません……」
「いくじなしとは……いったいどういうことかな……」
ひえー、言葉は静かだけど、めっちゃ怒っていらしゃいます……。
眉間にしわがよって、ぎょろっとした目が僕を睨んじゃってます……。
「こ、こんな言葉を使ってしまったこと、とっさのこととはいえ先生に対して使うものではないということは、承知しています、僕も」
「そうだな、賢明な君に、私の機嫌を損ねることがどういうことを意味するか位わからんはずはないからな」
確かに……。
ここで石切山先生が僕に悪い印象を持ったら、ますます部活動を再開させてくれるなんてことは不可能になっちゃうよ……。
けど、ここで引いたら負けだ。
意気地なしって言葉は、石切山先生だけでなく、僕に投げかけられた言葉でもあるんだから。
そうだよ、僕はいつもこういうとき、後ろ向きになって逃げちゃう悪い癖がある。
僕は昨日蹴られたみぞおちとわき腹を触ってみる。
ズキン、と痛む。
けど、終わってみれば、僕が今までビビッていたよりも、ずっと痛くはない。
少なくとも、死ぬほどじゃない。
今勇気を出して自分を主張しなくちゃ、また僕は負け犬のままだ。
ちらり、石切山先生の目を見る。
すごく怖い顔をしているけど、この人は話の通じない不良ってわけじゃない。
すごくボクシングを愛していて、そのためにボクシング部を終わらせようとまで考えている人だ。
こんな優しい人から逃げてどうするんだ、玲!
「失礼は承知で言わせてもらいます」
心臓がどきどきする。
声が震える。
けど、この人に僕の思いをしっかりと伝えなくちゃ。
「確かに、あの不祥事は、本来則廃部になってもおかしくない出来事だったと思います。けど、まだ廃部にはなっていないじゃないですか。まだ、新しくスタートを切るチャンスは、残されているじゃないですか。また不祥事が起きない保証はないけれど、それを恐れたら何もできないじゃないですか。だから……だから僕は、あえて失礼を承知でこの言葉を言わせてもらいました」
「君に何がわかる」
先生の眉間がぴくぴく動いているのがわかる。
どう見てもこの人は、自分の男らしさを誇りに思っている人だ。
こんなこといわれたら、今すぐにでも僕の胸倉を掴みあげるくらいしたくなっているのかもしれない。
けど僕だって……僕だって男だ。
何と思われようと、自分の意思は貫き通して見せる!
「お願いです。僕は確かに貧弱だし、僕みたいな男がボクシングをやりたい、新しく部を立て直す、なんて言っても頼りないのかもしれません。けど、僕を信用してください。何があっても、部活を立て直して見せます。だから、活動再開の許可をください! そして、僕をボクシング部に入部させてください!」
最後の方は、ほとんど自分でも何を言っているのかわからないほどだった。
体が小刻みに震えて、のどがからからに渇いているのが僕にもわかる。
……何の返答もない……。
……怒らせちゃったか……だめだったのかな……。
僕は恐る恐る顔を上げる。
石切山先生は、憤怒の情を隠しきれない表情で僕を睨みつけている。
……やっぱりだめか、僕は肩を落とし――
「対抗戦、そこにこぎつけられるかだ」
え?
「もう知っているかもしれんが、興津学園との対抗戦、そこでボクシング部がどれだけアピールできるかだ。そうすれば、私のほうからも学園への話は通しやすいだろう」
「本当ですか!?」
「きちんと活動できて、そして大前提として対抗戦に参加できるか、その人間を集められるか、それはすべて君次第だ。ただ、俺は君に対して何もできないぞ? 本当に、君達が高い意識を持って自主的に部活を運営できるか、それを学校側に伝えるためにもな。まあ、精々できるとすれば――」
じゃらり、先生はポケットに引っ掛けた鍵の束を指先で数えた。
「――この鍵を君に預けることくらいだ」
……てことは……。
「ボクシング部の活動を再開してもいいのね!?」
「どわっ?」
ちょ、ちょっと玲於奈!
石切山先生に顔ばれしたくないんじゃなかったの?
「お、おお。ただ、何度も言うが興津高校との対抗戦に出ることのできるメンバーを集められるかどうかだ。あの一件で多くのメンバーがクラブを、そして場合によっては学校を去ったからな」
「対抗戦って、何級を集めればいいのよ!」
「ん? そうだな、昨年度の出場枠で行くと、フライ、ライト、ライトウェルター、ウェルター、ミドル、といったところかな。しかし、ただ出場するだけではいかん。そのうえで、きちんとさまになる試合を見せることができるかどうか、平坦な道じゃないぞ」
うん、わかってます。
今のところ、部員はボクシング未経験者の僕しかいないもの。
だけど、ボクシング部を復活させるという、目標の第一歩は今踏み出すことができたんだ。
きっと、できるって僕は信じてる。
「心配しないでください。僕た――「は? あたしを誰だと思ってんの? あたしがやるって言ったら、必ず実現させるの! 見てなさい!」」
ああもう!
自由すぎるでしょさすがに!
「あたし?」
ほら!
先生が明らかに怪しんで君のこと見てるよっ!
「男なのに、はて……ん? おかしいな、君の事はどこかで――」
「あ、ありがとうございましたー!」
「ちょ、ちょっと痛いじゃない! そんなに強くひっぱら――」
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
……もうやだ、この子。
「いい加減にしなよ! 顔がばれるから石切山先生の前に顔を出せないって言ったのは、玲於奈じゃないか!」
「それはそれこれはこれ! 活動再開の許可が下りたんだから! これは偉大なる第一歩なのよ! それにあんた、ボクシングの細かい階級とかわかるの?」
「うっ……そ、それは……」
実は僕、ボクシングはじめるとか言ってたけど、その前に特待生で定禅寺西に受からなくちゃいけないって思ってたから、全然ボクシングのこと勉強してなかったんだよね……。
「ほら御覧なさい。あたしがあの場にいなかったら、誰を勧誘したら言いか、わかんなかったじゃない」
「……おっしゃるとおりです……」
そうなんだよな……。
考えてみればボクシングのこと何にも知らなくせに、拳聖さんみたいになりたいって一心でがむしゃらにここまできたんだよな。
普段うじうじしてるくせに、何でこういうところだけ向こう見ずなんだろ、僕って。
「……なによ、何でそんなにしおらしいのよ……なんだかあたしがあんたに因縁つけてるみたいで感じ悪いじゃない」
「い、いや、そういうわけじゃないんだけど……」
「ま、感謝はしてあげる。あんたが勇気出して一歩前に踏み出さなきゃ、ボクシング部の部室の鍵なんかもらえなかったんだから。それくらいは、あたしも褒めてあげる」
なんか褒められたみたいだけど、何でそんなに上から目線なんだろ。
まあいいや、玲於奈はこういう女の子なんだって今後はいちいち気にしないようにしよう、うん。
「そんなことより、石切山先生が言ってたのって、あれ出場資格のある階級だよね? たしか……」
「フライ、ライト、ライト・ウェルター、ウェルター、ミドル、それも全部、アマチュアの、ね」
「えっと、たしか、拳聖さんがウェルター級だってのは知ってるんだけど、大体どれくらいの重さなの?」
「はぁもう……。あんた本当に、そんなんでよくボクシング部に入ろうだなんて思ったわね」
……いやはや、おっしゃるとおりです……。
「ボクシングの階級って言うのはね……そうね、フライ級は四九キロから五二キロまで、ライト級は五六キロから六〇キロまで、ライト・ウェルター級は六〇キロから六四キロまで、ウェルター級は六四キロから六九キロまで、一番重いミドル級で六九キロから75キロ、ってところかしらね……どうしたのよ、ぼけーっとした顔して……」
「い、いやあ、すごいなあって。そんなにすらすら階級とその体重まで出てくるなんて」
「はぁ? なにいってんの? あんたもボクサーになろうって考えてるんでしょ? その位は当たり前にいえなくてどうするのよ! まったく……これだから素人は……」
うう……何も言い返せない。
けど、それだけ体重区分が厳密に引かれているってことは
「そっか、ただ五人集めればいいってわけじゃないのか」
「ようやく気づいたみたいね。そ、それぞれの体重にかなった、それでいて一ヵ月後
の交流戦に間に合わせることのできる人間を探さなくちゃいけないってわけ。イシちゃんも言ってたけどなかなか大変なんだから」
うーん、体重がそれぞれの階級にぴったりで、それでいて交流戦で勝てるくらい実力を持った五人か……。
「さあて、どうしましょうかね。結構手詰まりな感じだなー」
「ふふん、っまあ、普通の人ならそう思うでしょうね」
……ふふん、なんて自分の口で言う人初めて見たよ……。
玲於奈は、男子生徒のブレザーに包まれたその胸をぴんと張る。
「この絶世の美少女玲於奈さんに手抜かりはないわ」
そいうと、玲於奈はがさごそとくしゃくしゃのプリントをポケットから取り出した。
「……それは?」
「これはね、去年のインターハイの組み合わせと、トーナメントの結果よ。京いったん家に帰って、机の中から引っ張り出してきたわ」
あ、本当だ。
ウェルター級優勝者のところに、拳聖さんの名前がある。
「それはいいんだけど、これが何の関係が?」
「あんたって本当に鈍いのね。この優勝者の名前と高校を、一つ一つ確認してみなさいよ」
「う、うん……」
うーん、あの時あの場にいたはずなのに、いまいち覚えてないなぁ。
拳聖さんのことばかりに目を奪われていたせいなのかもしれないけど……って……
「ん? このライト級の優勝者って……」
「鈍いあんたにしては、気がつくの早いじゃない。そう。定禅寺西高校のインターハイ優勝者はお兄ちゃんだけじゃなかったのよ」
「あ、しかもこの人、まだ一年生だ! てことは……今二年生にいるって事か! 名前は……えっと……石神……拳次郎でいいのかな?」
「そっ! 大正解! 聞いた話によると、この人もお兄ちゃんに匹敵するくらいの天才ボクサーで、一年生でインターハイを、しかもお兄ちゃんもできなかった全試合ナックアウトで優勝しているわ。まずはこの男を捜して勧誘するのよ!」
「わ、わかった! わかったってば!」
やばい、なんか鼻息フガフガいってるよ。
ちょっと落ち着かせなきゃ……。
「と、とにかく、部室に行かない? 玲於奈は、ボクシング部の部室見たことないでしょ?」
「……試合にはよく行ったけど……言われてみれば、そうね……」
ふう、よかった。
何とか関心をそらすことができた。
何でもかんでも考えなしに突っ走っちゃうんだから、体が持たないよ……。
「ね? せっかく部室の鍵預かったんだから。それに……玲於奈にも確認しておいて欲しいんだ。僕たちが立て直さなきゃっていう、ボクシング部の現状を」
「……なによ……あんたに言われなくたって、それくらいわかってるわよ……まあ、あんたがそう言うなら……仕方ないわね……」
なんだろ、自分がハイテンションすぎたことに気が付いて恥ずかしくなっちゃったかな?
表情も感情もコロコロ変わって、本当に忙しい子だなあ。