第四話
……ててててて……。
もうなんなんだよ、思いっきり頭アスファルトにぶつけちゃったじゃないか……。
最近なんだかこういうわけのわからないことで痛い目にあってばっかりだなぁ。
ほんとついてないよ。
?
何か、やわらかいものが僕の顔の上に……。
これこそ夢、だよね?
なんだか白くて、ふかふかしていて……。
「……」
……。
………。
…………!?
「いやああああああああああ!」
「えええええ?」
な、なんで僕の顔の上に、女の子がパンツ姿で馬乗りになってるの!?
「うわあああああああ!」
は、早く抜け出さなくっちゃ!
「何すんのよ変態っ!」
バシッ
「あいたっ! ……って、なんで僕がぶたれるの!? 落ちてきたのは君でしょ!?」
「うっさいわねっ! あたしの制服のスカートの中見たのはあんたなんだから! あんたが悪いのにきまってるでしょ!?」
ぐえ……そ、そんな、胸倉掴んだら……く、苦し……。
「それに、天空から女の子が降ってきたのよ!? そんな絶対ありえないシチュエーションがおきたんだから、ありがたく思いなさいよっ! そもそも、男だったらふんわり優しく抱きとめなさいよっ!」
「む、むちゃくちゃだよっ! げほっ、げほっ……」
……きゃしゃな女の子だったからよかったものの……これがマッチョな兄貴だったら死んでたところだよ?
「はあっ、はあっ、はっ、おいこらぁ! 何やってんだぁ!?」
「ああん、もう! あんたのせいで追いつかれちゃったじゃないっ!」
「何で僕のせいなんだよっ!?」
……って……な、なんで僕たち取り囲まれてんの?
……ひい、ふう、みい……さ、三人もいるよ……。
みんななんていうか……ちゃらい感じっていうか……大学生くらいって感じかな……。
「おい、飯おごってやったら、なんでもするっったじゃねえかよ!」
「おごるだけおごってやったら、勝手にとんずらこきやがって! なめてんのか!」
ちょっと!?
僕の後ろに隠れないでよ!
「そんな約束してないでしょ!? そもそもあんたたちみたいな連中とこのあたしがご飯付き合ってやったんだから、それだけでありがたく思いなさいよ!」
「どういうことなの? っていうか、僕を巻き込まないでよ!」
「は? あんた男でしょ? こんな美少女守れるなんて男の本望じゃん! さっさとあたしを助けなさいよ!」
「だから! わけもわからずそんなこと――」
「おいガキ!」
「ひっ!」
……そ、そんな野太い声で怒鳴らなくても……。
「お前その女の仲間か?」
「い、いえ僕は――」
「あたしの彼氏よ! 文句ある?」
「文句おおありだよっ!」
何勝手なこと言ってくれちゃってんの!?
「このガキども……なめやがって……」
ほ、ほら、このお兄さんたち、めちゃくちゃ怒ってらっしゃってるじゃないですか……。
「おいガキ、その女おとなしくこっちに引き渡せ」
「素直に言うこと聞いたら、お前は許してやっからよ」
「え?」
僕は振り返って女の子の姿を確認する。
青みがかった髪の毛をツインテールにまとめた女の子は、気の強そうなつり目がちの瞳をしている。
……けど……やっぱり女の子なんだな……制服姿の華奢な体ががたがた震えてる……。
「ね、ねえ。一体どうしたの? 何でこの人たちに追っかけられてんの?」
「……おなかすいてたから……ご飯おごってやるって言われて……ついて行っただけなのに……」
そして僕は男の人たちを振り返った。
ひいっ……すごく殺気立っているのがびんびん伝わってくる……。
怖い。
僕より体が大きくて、それに年上で……そんな人が三人もいる。
大きな拳だな……。
あのごつごつした拳が、僕の顔や頭、お腹を痛めつける?
嫌だ!
痛いのなんて、嫌だ!
怖い……怖いよ……。
ん?
な、何か感触が……き、君もやっぱり怖いんだ……僕の服の袖をつかむ力が、ますます強くなってる気がする……。
?
……そういえば……。
以前もこんな――
“す、すいません! バケツを投げてしまったことは謝ります! ふ、服もクリーニング代とか、弁償しますから!”
“この通りです! 許してください!”
そうだ、あのインターハイのときだ。
鈴木さんに絡まれて……拳聖さんに助けられてなければ、きっと僕はぼこぼこにされていたんだ。
あのときの僕……本当に負け犬みたいだった……。
あれから一年近くたったけど……なんだ、僕、全然変わってないじゃないか……。
よく、こんな臆病者がボクシングなんて始めたいって思ったよな……。
だめだ。
泣いちゃいそうだ。
泣いて、どんなことをしても許しをもらおうとしちゃいそうだ。
だけど――
――拳聖さんみたいに強くなれますか――
……僕は、逃げない。
僕は、腰抜けじゃない。
負け犬じゃない。
――なれるさ。きっと、お前だって――
僕の頬に、あの時拳聖さんが触れた感触が蘇る。
こんな人たちのパンチを怖がってたら、もっとすごいはずのボクサーのパンチなんて受けられるわけないじゃないか。
僕は……僕は逃げない!
「い、いろいろ事情はあるみたいですけど……」
「ああん?」
ひっ!
こ、怖い、けど……。
「こ、こ、この女の子は、い、嫌がってる、見たいです、から……その……勘弁して、あげても、いいのかなぁって……」
「お前、俺らの言った意味分かってる? そこまで頭悪いわけじゃねえよな?」
すごい表情で睨んでくる。
目をそらしてしまいそうだ。
けど僕は引かない、引いちゃだめなんだ。
「は、はい。意味は分かってるんですけど、できれば、僕も痛い目に合うことなく、この女の子を解放して上げられたらなあって……ははは、だめ、ですかね――」
「ざけんなっ!」
「きゃっ!」
「ごほっ……」
ったあ……。
く、靴のつま先って、こんなに痛かったんだ……。
しもそれがみぞおちに入るって……。
あばら骨だけじゃない……胃かな、なんだかよく分からないけど、吐き気がする……。
「おらこいや!」
「ちょ、ちょっと! 触んないでよ! 痛いじゃない!」
……うずくまる僕の後ろに隠れていた女の子の腕を、男の人が無理矢理引っ張った。
そ、そんなに強く引っ張ったら、折れちゃうよ。
……い、痛くて体が動かない……けど……。
思ったよりも、痛くない!
「あん?」
「……げほっ、げほっ……だ、だめですよ……い、嫌がってますし、ほ、ほら、人の嫌がることはするなって、言うじゃないですか……」
体は動かない。
だから僕にできることといえば、この男の人の足にしがみつくことぐらいだ。
「うざってんだよ!」
「がっ!」
……今度は別の男の人のわき腹を蹴り上げられた。
……っつぅあー……うん……死ぬほど痛い。
今まで生きてきた中で、経験した事のない痛さだね。
けど、死ぬほど痛いってことは、僕は死なないってことなんだよな。
……そんな顔しないでよ。
そんなに震えなくたって、大丈夫だよ。
僕はよわっちいけど、女の子の君よりは結構丈夫にできてると思うから。
「……ごほっごほっ……あ……の……これで気が済んだと思ったら……この辺で……」
やっぱり僕にできることといったら、この男の人の足にしがみつくことしかできないけどね。
「このガキ! 調子こき――」
「おい! 何をやっているんだ!」
その時、僕たちのただならぬ様子に、周りの大人の人たちが気づいてくれた。
「お、おいやベエよ」
「……くっ」
ザワザワザワ、周囲に騒然とした雰囲気が広がる。
「ったくよお! おら離しやがれ!」
どうやら、男の人たちは諦めてくれたようだ。
「ちょっとあんた、大丈夫?」
女の子が僕に話しかけてきてくれた。
「……は、ははは、た、たぶんね……」
空から落ちてきた女の子を暴漢から助けるなんて、べたなアニメのワンシーンみたいだけど、とにもかくにも、僕はヒーローの役目を果たせたのかな……。
「ったく、あんたそれでも男? なんでやり返さないのよ」
「……は、はは、め、面目ない……僕はよわっちいから、これくらいしか」
「はあっ……まあいいわ。そんなよわっちいあんたが勇気を振り絞ってあたしを助けた、その勇気は評価してあげるわ」
相変わらず超上から目線なんだなぁ。
まあ、こんなことがいえるのも、助かったからだからよしとしようか。
「ところであんた、タオルか何か持ってない?」
「へっ?」
ええっと、確か……
「……バッグの中にハンドタオルが入ってたと思うけど……」
「あっそ」
そういうと、女の子は無造作に僕のバッグをがさ後そまさぐると
「……ちょっとぼろいけど、まあしょうがないわ」
憎まれ口を叩いて、ぐるぐるとタオルを右手に硬く巻きつけた。
「こんなものかしら」
ぼんっ、女の子は胸元で拳を左手のひらにたたきつけた。
布の巻きついた拳……そうだ、あの日は、こういう拳の持ち主、拳聖さんに助けてもらったんだっけ……。
「仕返しくらいは、してあげるから」
そういうと、その女の子は目にも留まらぬ速さでダッシュした。
「ちょっと!」
「あん?」
その呼びかけに、さっき僕のみぞおちを蹴り上げた男の人が振り返る。
「お昼ご飯!」
その女の子は、タオルにくるまれた右のこぶしを胸元までおろすと同時に、体を深く縮込まらせる。
また、スカートが天子の羽のようにふわりと舞った。
そして、雪のように純白な、コットンのパンツのシルエットも。
その小さくかがめた体は、ばねがはじけるみたいに一瞬で伸び上がり
「ごちそうっ!」
そして
「さまっ!」
羽ばたく天使のように、その体は天へと駆け上がった。
「かっ?」
その拳が男の人の左顎に触れると、その頭をありえない速さで貫く。
男の人は、くるんと白目を向くと、どさり、足元から崩れ落ちた。
「えっ?」
周りの男の人たち、言うまでも泣くこの僕も、あっけに取られる。
女の子は右足を視点に体を回転させると
「あんたにもっ! お礼しなくちゃねっ!」
腕をくの字に折り曲げると、今度は腰と胸の真ん中辺りに右拳を叩き込んだ。
「がっ!」
その男の人は、今度は顔を苦悶の表情にして崩れ落ちた。
……一体……。
………………何が……。
「え? ……って、お、おいっ! しっかりしろ!」
……女の子が……男の人を……一瞬で――
「早く!」
「え? ちょ、何?」
がくん
僕の腕が思いっきり引っ張られた。
「何ボーっとしてんのよ! 早く逃げるわよっ!」
「え、け、けど……」
ズキリ、みぞおちとわき腹が痛い。
「んもう! さっさとしなさいっ!」
「う、うん……」
僕はバッグを抱えると、よたよたと女の子に手を惹かれるままその場を後にした。
「大丈夫? ほら、これで冷やしなさい」
女の子は、僕のタオルを水でぬらして差し出した。
「あ、ありがとう」
公園のベンチで、僕はそれを受けとってシャツの下からみぞおちに当てた。
「けど、本当にあんたってよわっちいのね。もっと鍛えたほうがいいわよ」
「はあ、すいません……っていうか、君すごい強かったじゃないか! なんで僕に助けなんか求めたのさ!? 自分で何とかできただろ!?」
「あんたバカでしょ。あれはあいつらが勝手に油断してたから出来ただけよ。明らかに自分より体の大きい男が三人いて、腕でもつかまれたらなんにもできないもの。わかってないのね」
「はあ、すいません……」
うう……何で僕が怒られるんだ。
「それにあんた、喧嘩とかしたことないでしょ」
「まあそうだけど……」
「初めての喧嘩の感想は?」
「……とにかく……痛かったとしか……」
「まだ痛む?」
無意識に僕はわき腹に指を這わせる。
皮膚がみみず腫れみたいになって、体の内側がまだズキズキ痛む。
けど――
「思ったより痛くない、のかな?」
「そんなもんよ、喧嘩の痛みなんて。問題なのはね、痛みそれ自体じゃないなの。痛みを怖がる、自分自身の心の弱さなの。ま、体はもやしのまんまだろうけど、それが体感できただけよかったんじゃない? ありがたいと思いなさい」
……なんかめちゃくちゃ釈然としないんだけど……。
けど、“痛みを怖がる自分自身の心の弱さ”か。
そうなんだよな、インターハイのときだって、結局は殴られてもいないのにびびっちゃって、あんな土下座までしちゃったわけだし。
今回のことで、少しは成長できたのかなあ……。
あ、そうだ、そんなことより――
「それにしても、君すごかったね。あっという間に二人の男の人をノックアウトしちゃうんだもの」
「たいしたことないわ。要はスピードとタイミングよ」
シュン、シュン
えと……右アッパー?
フック?
すごいな、素人の僕から見てすら、そのフォームの美しさは理解できる。
「どんなに力の差があったって、どんなに体重差があったって、あの角度からのパンチで頭を揺らしてあげれば失神するわ。ま、あんたにはわかんないでしょうけど」
うん、間違いない。
「君さ、ボクシング経験者でしょ」
ぴくり、女の子の体が硬直する。
「……」
?
どうしたんだ?
急に無口になっちゃって……。
「ねえ」
わっ、きゅ、急に僕の隣に座るなよ。
ド、ドキッとするじゃん……。
「今気がついたけど、あんたの制服、それもしかして定禅寺西高校の制服?」
……質問に質問で返すなよ……。
「え、うん。まあ」
「……なんだかそれ見てるといらいらしてくるわ」
何だよそれ、僕には関係ないんだけど……。
「ところで、あんたなんて名前なの? あたしを助けたんだから、名前くらい聞いてあげてもいいけど」
「……なんでそんなに偉そうなんだよ……僕は佐藤、佐藤玲だよ」
「佐藤? またベタな苗字ね」
「ほっといてよ! ていうか、人の名前を聞くまえに、自分の名前くらい名乗れよ! それが礼儀だろ?」
「……」
あれ、また無口になっちゃった。
もう、面倒くさいなあ……。
「……藤……」
「え?」
すると、顔を真っ赤にして、頬を膨らませて僕のほうを向いた。
「佐藤玲於奈よ!」
は?
意味わかんないんですけど!?
「自分だって佐藤じゃないか! それでよく人の名前バカにできるね!」
「うるさいわね! わたしの名前は玲於奈だから、あんたみたいなシンプルすぎる名前と一緒にしないで!」
くそう、だんだん腹が立ってきたぞ。
けど、さっきのシーンを思い浮かべると、なんだか喧嘩しても勝てない気がしてきたぞ。
相手は中学生の女の子なのに……。
「もういいよ、名前のことは。それより、僕はこれから夕ご飯の買い物をしなくちゃいけないから、もう行くね」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
……もう……めんどくさいなあ。
「なあに? もう僕に用はないだろ?」
すると玲於奈は、ちょいちょいとベンチの横を指差す。
あ、今まで気がつかなかったけど、大きなバッグを抱えていた。
「それがどうかした?」
「はあ? どうかした、ですって? あんた少しは頭働かせなさいよ! これ見て何も考えないの?」
「……大きな荷物だね、っていたっ!」
「あんた本当にバカね! あたしみたいな美少女がこんなバッグ抱えてたら、どうしたのって聞くのが礼儀でしょ!?」
「あいたっ! ……んもう……むこうずね蹴り上げなくてもいいじゃないか……それじゃあ……どうしたの?」
「はあ? なんであんたにそんなこと言わなくちゃいけないの?」
「めちゃくちゃだよそれ!」
「ああもう! 言わなくたってわかるでしょ? こんな夕方過ぎに女の子が一人でバッグ抱えてんのよ? どういう事情かくらいわかりなさいよ!」
……はあもうやだ……。
「……ええと……どこか旅行でも行くっての?」
「こんな平日なのに? あなたもてないでしょ!? ぜんっぜん何もわかってないわ!」
こ、こんなときにもてるとかもてないとか関係ないだろ?
「ああもう、面倒臭いな! わかりました! 君がどうしてそんな大きなバッグを抱えてるのか、僕にはわかりません! どうかその意味を教えてください!」
「ま、まあ、そこまで言われたんなら仕方がないわ」
……もう勝手にしてくれ……。
「その理由は――」
「何やってんだ」
ん?
誰だろ……って……あ、あなたは……
「け、拳――「お兄ちゃん!」」
……。
………。
…………へっ?
「昨日、どこに行ってたんだ。探したんだぜ。携帯も無視しやがって。ガキが学校サボって、どこほっつき歩いてたんだ」
「な、何言ってんのよ! それはこっちのせりふよ! あたしが荷物まとめてる時だって、家にいなかったくせに!」
玲於奈は歯軋りして食って掛かる。
「お、お兄ちゃんが悪いんでしょ!? あんな……あんなことして! お父さんとお母さん、なによりあたしに対する裏切りよ!? あたしは絶対に許さないんだから!」
「ね、ねえ玲於奈。あ、あの……」
「なによ! あんたは引っ込んでてよ!」
わ、わけがわかんないけど……とにかく……。
「……け、拳聖さんと、どういう関係?」
「? 拳聖……さん、ですって?」
そして、拳聖さんもようやく僕の存在に気がついた。
「ん、あ、お前は確か……あのときの少年――」
「佐藤玲です」
僕は前に踏み出し、そして自分の言葉を名乗った。
「あの、拳聖さんと玲於奈は、どういう関係なんですか?」
「ああ、こいつ、俺の妹」
……。
………。
…………はっ?
「れ、玲於奈って、拳聖さんの妹だったの?」
「あんたこそ! なんでうちのお兄ちゃんのこと知ってるの?」
「なんでって……その……」
「おいおい、俺を話から置いていくなって」
拳聖さんは髪の毛を掻き揚げて言った。
「なんだかわからないが、妹が世話になったみたいだな。まあ、礼は言っとくよ」
「いえそんな……」
そっか……。
玲於奈のあの動きは、お兄さん譲りだったってことか……。
「ま、詳しい話しは今度聞くよ。それより玲於奈、帰るぞ」
「絶対帰んない!」
玲於奈は駄々っ子のように顔を振った。
「最近お兄ちゃんおかしいもん! なんでそうなっちゃったの!? 急にボクシングやめちゃったかと思えば、遊び人みたいになっちゃったし! それに……それにあんなことして! さいてーだよ!」
その言葉に、拳聖さんは苦笑いしてうつむいた。
「だから悪かったって。けどな、俺はもう二度とリングに上がるつもりはない。なんていうか……まあ、モチベーションの問題っていうかさ――」
「意味わかんない! いっつもそうやってはぐらかしてばかりでさ、絶対に本当のこといってくれないじゃん!」
「? お、おい、参ったな……」
拳聖さんは髪をかきあげながら顔を背けた。
「……ひっ、ひっく……ひん……」
ぽたり、ぽたりと涙のしずくが乾いた土の地面をぬらした。
泣いてる?
さっき大の男二人をあっという間にノックアウトした、この気の強い女の子が?
「お願いだよ……また……リングの上の格好いいお兄ちゃんの姿を見せてよ……こんなの……こんなお兄ちゃん格好良くないよ……」
……そうだ。
この子は僕と同じだ。
僕も昨日、拳聖さんがボクシングをやめてしまった理由、それがわからなくて、悔しくて涙を流した。
この子は、すごく悲しいんだ。
悔しいんだ。
自分の大好きだったお兄ちゃんが、理由もわからずにグローブを置いてしまったことが。
「拳聖さん」
「ん、どうした少年」
「僕がこの定禅寺西高校に入学したのは、あなたに憧れたからでした」
「……ひ、ひくっ……れ、玲?」
「リングで戦うあなたの姿がすごく格好良くて……それで、あなたが“シュガー”って呼ばれてるってことも、その時知りました」
「よせよ。そんなむずかゆくなるようなニックネーム。そんなもんは、俺じゃなくてむしろ――」
「――僕はあなたの姿が、今でも目の裏に焼きついて離れません。それはきっと……玲於奈も同じだと思うんです。僕は……あなたのリングに立つ姿がもう一度見たい! そして……そして僕も、あなたみたいなボクサーになりたい! そう決めたんです!」
「少年……」
拳聖さんは、ぼりぼりと頭をかいた。
「……前も言ったけど、お前等とそれについて話し合うつもりはさらさらねえよ。二度とリングに上るつもりもねえけど――」
拳聖さんはポケットに手を突っ込んだまま、クールに言った。
「集めてみろ。五人」
「え?」
ふう、拳聖さんは仕方ないな、というふうにため息をついた。
「毎年な、この時期、興津学園のボクシング部と対抗戦やるんだよ。インターハイ予選の前哨戦としてな。お前もそこまで俺に上等かますんなら、それくらいの覚悟はあんるんだろ? 仲間集めて、ボクシング部復活させて見せろ。そしたら……そしたら、考えてやるよ」
「ほ、本と――「その言葉、絶対に忘れたとは言わせないからねっ!」」
僕の言葉を食うように、玲於奈が拳聖さんを指差して叫んだ。
「玲が人数集めて対抗戦に出て、定禅寺西のボクシング部を復活させたら、お兄ちゃんはもう一度リングに上がるのね?」
「……まあ、考えてやるってレベルだけどな」
ふんっ、玲於奈は鼻息荒く腕を組んだ。
「見てなさい! 絶対にボクシング部復活させて、お兄ちゃんをリングの上に引きずりあげてやるんだから! 覚悟しなさい!」
「わかったわかった。出来たら、の話だぜ。それを忘れるなよ」
……。
………。
…………拳聖さんが、またリングに?
すると玲於奈は、僕の顔にありえない距離まで近寄った。
「いい!? あんたは絶対にボクシング部を復活させるのよ!? もし復活させられなかったら、あたしはあなたをぼっこぼこにしてやるんだからね!?」
「わ、わかったよ!」
もう、物騒なこというんだから……。
けど、玲於奈にそんなこと言われなくても、僕はとっくに決意している。
正直言って、出来るかどうかわからないけど、その決意は絶対に揺るがない。
「うん! 僕も、絶対に拳聖さんとボクシングをやるんだ! そのためなら、なんだってできるんだから!」
「話は済んだか?」
拳聖さんは、冷静に僕たちの話に割り込んだ。
「もういいだろ。そんじゃ玲於奈、帰――「絶対に帰んない!」」
大きな声で叫んだかと思うと
「へっ?」
玲於奈は、僕の腕を取った。
「それとこれとは話が別! お兄ちゃんがボクシングまた始めて、心のそこから反省するまで家に帰んないんだから! あたしは、それまでこいつの家に暮らすから!」
……。
………。
…………は?
「ちょ、ちょっと! か、勝手に決めないでよ!」
「うっさい! こんな美少女と一緒に暮らせるなんて、男のロマンでしょ!? ありがたく思いなさいよ!」
「だからめちゃくちゃだってそれ!」
「……わかったわかったって。悪いな。世話してやってくれ」
「拳聖さんも納得しないでください!」
……僕はちらりと玲於奈の横顔を見る。
……改めてみると……すごく、うん……まあ、まあかわいい子なんじゃない?
拳聖さんもすごくハンサムだから、似てるのかなあ、って……
「だめです! お、男の家に、女の子が一緒に暮らすなんてそんな――」
僕たちに近寄ってきた拳聖さんは、ごそごそとポケットをまさぐった。
「ほら、手ぇだせ」
「……なによ……生活費でも恵んで――」
「……」
……。
………。
…………なにこれ?
「……あの、拳聖さん、それって――」
「最ッ低!」
「うぉっと!」
玲於奈はそれを拳聖さんの顔面にたたきつけた。
「いや、さすがにお前はまだ中学生だしさ。兄としてやっぱりそういうところはほら、その少年とどうにかなった時――」
「は!? 何考えてんの!? 兄として!? もっとほかに気を使うところがあるでしょ!? だから帰りたくないっていってんのよ! もう最低! バカ! 変態! スケベ! 種馬! もう信じらんない! ほら、さっさと帰るわよ!?」
「……ね、ねえ、玲於奈、なんでそんなに顔真っ赤なの? それにあのビニールに包まれたリング状のものは一体――」
「あんたにゃ十年早いわよっ!」
そういうと玲於奈はバッグを抱えて僕の腕を引っ張って行った。
「あーもーっ! さっさとお兄ちゃんリングに復活させて、あのふにゃふにゃになった根性叩き直してあげるんだからっ!」
まったく、十年早いだって?
そもそも君はまだ中学生じゃないか。
そういう風に子ども扱いされるなんて心外だなあ。
……けど、拳聖さん、いったい何を僕たちに渡そうとしたんだろ……?